1.彷徨う少女
大事に書いてるので投稿ペースは早くないと思いますが、読んでいただけると幸いです。
目標は週一投稿です。
聡明な者ならご存知だろう。
そうでないものもご存知だろう。
富める者も、貧しき者も。
幼き者も、老いた者も。
かの山を知らぬ者はいない。
他ならぬ大陸人ならば。
それはかの山、ロワルスの山。
その火は世界を創り、滅ぼした。
だが、皆の衆、ご存知かな。
ロワルスの怒り、アリフの涙から逃れた人々がいた。
空へ逃げた翼人を殺す牙、竜が放たれた。
五十と八年続いた戦。やがて竜も人も地に落ちた。
さあ、皆の衆。このカレンタ、語り聞かせねばならぬ。
王の山の奥の奥。そこには、禁じられた愛があった。
密かな、悲しい悲しい恋があった。
――人を愛した竜がいた。竜を愛した人がいた。
――『竜国記』より
雄風のカレンタ、西ロワルス街道”金緑亭”にて
硬い土の地面を雨が打ち付ける。
だんだんと雨は激しさを増し、道行く人々は歩みを速める。
雨に打たれながらひとり歩く少女がいた。
日も落ちてくる頃。薄暗い道を、少女はさっきから行くあてもなくさまよっていた。
誰も彼女に目を向けようとはしない。
誰かの足が少女の脚を蹴った。少女は倒れて膝をつく。粗末な服が泥まみれになる。否、もはやそれは服と呼べるものではない。彼女が身につけるのはただ一枚の麻の襤褸切れのような粗衣でしかない。
彼は少女をちらりと見ると、そのまま何事もなかったかのように歩いていく。
ある時、宿を探していたひとりの男が彼女に目を留めた。
少女はひどく汚れていた。
何度も転んだのだろう。身につけている粗衣は泥に汚れ、膝を擦り剥いて血が滲んでいる。身体はやせ細り、頬がこけている。足には、なんとか歩ける程度の長さの鎖のついた足かせがつけられている。そして、首元には小さな印が見える。それは少女が奴隷であることを示していた。
捨てられる奴隷は珍しくない。この国では奴隷の立場が極端に低い。
だから、必要なくなった奴隷や役に立たない奴隷、気に入らない奴隷はすぐに捨てられる。
男は少女を横目に見つつ、そのまま通り過ぎようとして足を止めた。
少女は小刻みにぶるぶると震えていた。雨で身体が冷えたのだろう。
道の先から、がらがらと車輪の音がする。それに混じって、地面を蹴る蹄の音も。雨の中、道を急いでいるのか、かなりの速さだ。
男は、まさか避けないわけはないだろうと思っていた。
しかしそんな考えとは裏腹に、少女は突然つんのめって転んだ。
――そして、転んだままぴくりとも動かない。
男は考えるより先に体が動いた。
地面を蹴り、道の真ん中まで走ると少女を掬うように腕に抱え、そのまま力の限り走る。
「――っ」
どん、と背中に重い衝撃が走り、肺から空気が漏れる。落とさないように少女をしっかりと胸に抱きこみ、横に倒れながら受け身を取った。
少し離れたところで馬車が急停止し、御者が降りてくる。
「おい、どこを見てやがる間抜け!」
御者は大声で怒鳴りながら大股で歩いてくる。
男は泥を払いながら、少女を抱えたままのっそりと立ち上がった。
立ち上がった男を見上げ、御者は口をぽかんと開けていた。驚くのも無理はない。男は自分の倍近い背丈があったのだ。おまけに背中には二本の剣を背負っている。それに、馬に背を蹴られて無事に立てるというのは普通の人間ではない。
男は御者を見下ろして静かに言った。
「先を急いでいるなら、早くしたほうがいい。そのうち嵐になる」
「あ、ああ。そうするよ。わ、悪かったな」
御者はそれだけ言うとそそくさと馬車に乗り込み、逃げるように馬車を走らせてどこかに行ってしまった。
男は少女を道端に降ろし、そのまま立ち去ろうとしてまた足を止めた。少女の身体は寒さに震えていた。これでは破傷風になる前に風邪を引いて死んでしまいそうだ。
彼は少女に呼びかけた。
「おい」
少女はゆっくりと声の主を見上げた。
かなり大柄な男だった。巨人の血を引いているのだろうか。頭巾で顔を隠していたが、見上げるとその顔の形が見えた。
彫りの深い顔立ちで、白い長髪を肩まで垂らしている。加えて、白い無精髭が荒々しい印象を際立たせる。
薄暗いせいか、男の顔からはどんな感情も見て取れなかった。ただただ暗く、目に光はない。
「立てるか?」
男は多分、そう言った。
低く、聞き取りづらい声なのでわからなかったのだ。
少女は答えなかった。答えることができなかった。もう、そんな力も残されてはいなかった。ただ少し口を動かして答えるだけのこともできないほど疲れ果て、衰弱していた。
すると、男はなにやら背負っていた長い棒のような荷物をごそごそと漁ると、それを手に持ち替えた。そして着ていた外套を脱いで少女に頭から被せ、胸の前で留めてやった。
「乗れ」
そう言って、男は背中を差し出してきた。
しかしそれを見ても、少女は意味がわからなかった。少女は空腹と疲労で何も考えられなくなっていた。
男は一つため息をつくと、少女の腕を掴んで脚に腕を回し、背負い上げた。
少女はおぼろげな意識の中、されるがままになっていた。殴られるかもしれないし、蹴られるかもしれない。あるいはついに殺されるのかもしれない。けれども、どうすることもできない。
ただ見知らぬ男の背に揺られ、朦朧とする意識の中にいた。
力の入らない身体を男の大きな背中に預けると、彼の体温が伝わってきた。
大股で歩く男の背の揺れが、なぜだか少し心地良い。そんな背に揺られるうちに、少女はいつのまにやら気を失うように眠っていた。
◆
男はしっかりした店構えの、そこそこ値が張るであろう宿に目をつけるとそこへ足を向けた。扉の上を見ると、木彫りで"金のうずら亭"と店名が示されていた。
商売繁盛を願った名前だろうか、などと考えつつ男は取っ手に手をかける。
扉を開けるとギィっと軋み、小気味よい小鐘の音がチリン、と鳴った。同時に、人々の話し声が聞こえてくる。外の雨天と日の落ちた通りから一転し、まるで昼の市ような楽しげな騒がしさに満ちた空間に足を踏み入れる。
店主らしき壮年の男が「いらっしゃい」と出迎える。明らかに常人の体格ではない男を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
ろうそくの灯が店内を明るく照らしている。旅人の装いをした一人者、傭兵らしき三人衆、楽しげに歌う吟遊詩人などの面々が酒を飲んだり、賭け事をしたりと各々雨の夜を明るく楽しんでいる。
ここでは鬱々とした雨降りの音など聞こえない。
街道沿いの宿屋ではおなじみの光景だ。
カウンターに向かうと、店主が顔を上げた。男のほうが背が高く、店主が彼を見上げる形になる。
「どうも。二人だな。あんたの背中の子は――」
「俺の娘だ」
「そうかい。失礼だが、その子の顔をみせてもらっても? いやなに、最近人さらいが多いものでね」
男は軽いため息をつき、苛立ったような声音を作って言う。
「見て分からんのか? 娘は疲れている。それに、俺が人さらいをするように見えるか?」
ついでに青い目をいからせて、ジロリと睨んで見せる。
すると店主は肩をすくめて言った。
「確かに、あんたにそんな質問は野暮だったな。悪かったよ。部屋は一つでいいよな? ああ、それなら二人で一泊、銅貨二十枚だ」
男は無表情に戻り、無言で銅貨十枚ずつの束を二つ、卓の上に置いた。
「しかし、ティタンなんてはじめて見たぜ。どうぞ、ごゆっくり」
巨人は性格上か種族柄か、人さらいをするようなことはほとんどない。彼らは穏やかな暮らしを好むうえ、義を重んじると言われている。兵士や傭兵として生計を立てているものもいるが、多くはそうでない。
男は何も言わずに部屋の名前が書かれた木札を受け取ると、少女を背負ったまま割り当てられた二階の部屋へと歩いた。
彼が踏むたびに、古い階段は音を立てて軋んだ。