帰り道
「ほんなら、これ、いただきます。」
コトンと一升瓶が揺れると同時に留奈さんは消えた。微かな風を受けて視界が揺らめくと目の前に居たはずの相手は既に居なかった。煙のように消えている。もしかしたらそんなことも出来るかもと予想はしていたが、体験すると思ったよりも怖くて戦慄が走った。確かめなくても腕に鳥肌が立っているのが解る。落ち着いたところで立ち上がり酒瓶に近寄ると、中には置いた時と変わらず酒がなみなみと入っていた。
「…?」
神様の御使いは物理的には存在しないのだろうか。……。ところでこれは現実なのだろうか。現実とは物理的な存在の事を指すのだろうか。だとすると俺の人格や意識はどうなる?物理的に証明出来るか?出来なければ困る。俺は現実ではないことになる…。
今迄考えた事も無いような困惑が頭の中に渦巻いた。
あらゆる生命を巡らせる…付喪神なんて神様もいるのだから、酒にも何かが宿っているのだろうか。それを"いただきます"という意味なのだろうか。それは生命ではないとしても其処に在る"何か"で…もしかしたらそれは…"俺"としてここに在るものと同じようなモノを指すのだろうか…。
自分は所詮物体で、だとすればモノからヒトになる条件は何なのだろう。ヒトという動物から人間という社会や文化に根を張る生き物になる為には何が必要なのだろう。俺はそれになれているのだろうか。これから成るのだろうか…。
一気に考えたら何をハッキリとさせたかったのか分からなくなり混乱してきた。なんだか面倒臭くなってきて、ようやく目が覚めたように辺りが鮮明になる。頭よりも心に重たいタイプのテーマはどうも苦手だ。丁度よく町内放送のメガホンからは夕暮れのアナウンスと「七つの子」のメロディが流れてきた。長閑な雰囲気の中で一人、いつの間にか朱く染まってきている風景を暫く眺めていたら、妙な考えを巡らせていたのがアホらしくなってやれやれと息をついた。
留奈さんといい、六堂といい、親族といい、俺の周りは訳のわからない人達ばかりだ。
松尾家は二世帯住宅として設計されている。親と祖父母がお金を出し合って建てた家は、まだ俺が小一の時に新築したもので、この辺りでは新しい建物だ。土地は先祖代々受け継いだものだから新しいのは母家と庭の一部だけ。他にも車庫と年季の入った離れがあって、宅地の前の畑では祖父母が家庭菜園を作っている。
祖父母から聞いた曾祖父に関する情報は全く詳細のわからないものだった。内容を知りたいものでも無かったので理解出来ていることは今だに少ない。俺のイメージ(するしかない)では、どうやら悪い宗教法人に嵌ってしまって影響が生活様式から性格にまで及んだ為にコミュニケーションが不可能になったっぽい、という物凄く大雑把な感じだ。一つだけ、普通に考えれば不可解なのだが、俺にはその団体の名前すら知らされていなかった。しかしそれも小さな頃に説明されて以来その延長にある今迄、まるで当然のようになってしまい、自分の中では曽祖父が別居するのは自然な事として処理されていた。
実際そんな変な影響のある団体が在るならば、出来る限り無縁でいたい。近づくなと言うのも俺を守ってくれているのだと信じていた。
今日、お稲荷さんに参拝するまでは。
………"連盟"のことだよな?
多分…いや……待てよ?
留奈さんの姿は、見える人と見えない人がいる。連盟の人すら見えない。一般にはまず見えないのだろう。恐らくウチの親族も見えない…。
堂々と神様だのその姿が見えるだのと言い出したら頭のおかしな人と考えられても、それは…それはそうなる。そりゃ距離を取られても…気性によっては一緒に暮らせない結果となっても仕方ないかもしれない。とりあえず俺は嫌だ。
だったら、俺は、何なの?
どういうふうに思われてんの…??
途端に誰のことも信じられない。次は自分が排除されるのではないだろうか。今迄とこれから先が同じものには思えなくなる。
いつもの帰り道をいつもの通りに歩いているはずなのに、未知の何処かへ向かっているような感覚になる。自分の前には向かい風が吹き、道は自分の歩いた後にしか造られない、そういう生き方に憧れたことが無いわけではない。けれど自分にそれが出来るとは思えないし似合うとも思わない。
向かい風には膝をつくのが正直な松尾重紀という人間なのだ。どうか今迄通りの日常が続きますように。