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飽和状態


 カットが終わる頃に店の外で自転車を停める音が聴こえた。


「あ、帰って来た。」


森川の母さんの表情が少しホッとしたように明るくなる。入り口付近の大きなすりガラスには人影が映っていた。店には入らずに、敷地の奥の方に向かって歩いて行く。


「…さっきの話、学校では何も把握して無いって。

 …重紀くんから先生に話したら、

 なんとか動いて貰えんかと思うんやけど…。」


椅子に座った俺の後ろで肩に落ちた髪の毛を払い、曖昧な言い方で頼まれた。前髪を確かめながら俺の目を見てくる。正直、困った。力になりたい気持ちはある。けれど期待をされる程の事が出来るかというと、俺にそこまでの信頼が寄せられているかは微妙だ。手伝いは引き受けるものの、先生達には暇そうだったから声を掛けたと言われる事が殆どで、仲が良い訳でもなんでもないのだ。要は都合良く頑丈そうなのが其処にいたから。デカくて目立つからだ。

「俺が言っても…。」


「私が言うのとは違うよ。生徒の意見なら。」


「………。」

話の最中にガチャッとドアノブを回す音がした。ついさっき森川の父さんが出て行った、住居に続くドアの扉が少しだけ開き、薄暗い隙間から森川の声が聴こえた。


「…マツに何か言った?」


一瞬自分の考えが飲み込めなかった。安堵するより森川の変化を怖いと思ってしまったのだ。一言でダメージの深刻さが分かる。弱々しいとか、そんな分かりやすいものではなかった。身の毛もよだつ恐怖が自分にも伝染したような気がした。


「ちょっと、ね?」


「ちょっ…駄目だっつったろ!?」


引きつった声音から伝わる悲鳴に似た荒々しさが今の森川の状態そのものだろうと想像した。森川の母さんは言葉を濁していたが、本人は察してしまったようだった。予想はしていたのだろう。俺の自転車は知っているから、それを見てわざわざ釘を刺しに来たのだ。

「…ヒロ?」

声を掛けたが返事は無かった。俺の意思には気付かない振りをしてそのままドアは閉じられた。

「聞こえてんやろ?」

しつこく食い下がったが二度目も返事は無かった。森川の母さんが見かねて俺を止めた。


「学校の子とは、誰とも話したくないって…。」


「…あ…。そうですか…。」

森川は変わってしまった。クラスも分かれてお互い確かに変わった。あり得ないとまでは思わないが、それでも拒絶は想定外だった。なんだそれと呆然とするしかなかった。

髪型は綺麗に整った。さっぱりしたスポーツ刈りで暑い夏も涼しく過ごすことは出来そうだった。部活動にも丁度いい。何とか試合に勝って最後の夏には少しくらいいい思い出を作りたい。

それは森川も同じだったはずで、其処にアイツが立てないなんてことはあってはならない。ついこの間まで足下には同じ道が伸びていたんじゃなかったのか。アイツだけが外れなければならない理由があるか。森川は戻るべきだ。外れるのは相手の奴等の方だろう。そうでなければおかしい。


「気にしないでね。さっきの…。

 ほら、何とかなるから。

 あの子も…身体は丈夫やし。」


お金を払って店を出ようとするところで、森川の母さんは笑って言った。そこで初めて、ショックを受けたのを全部見られていたのだと気付いた。鏡で見ていた自分の顔はまるで他の誰かのようだった。頭の中が飽和状態で森川の母さんの存在を忘れていた。もしかして俺はずっとこの酷い表情をしていたのかもしれない。


「…気が向いたらまた遊ぼうって、

 伝えて下さい。」


他に良さそうな台詞が浮かばなくて、仕様もない、どうでもいいことしか言えなかった。森川の母さんはまたクスリと笑って了解してくれた。


「ありがとう御座いました〜。」


お客さんを送り出す元気な声を聞いて自転車の鍵を外しながら、月曜日に学校に行ってからの事を考えていた。

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