基礎知識
「本人に直接名刺渡すのってええの?」
「良いでしょ。バイトになるんだから。」
思ったよりどうでもいい内容だった。俺一人でやる事は本当にこれでお終いらしい。
「了解貰ってる範囲やったら、
こっちに借りるのもアリやんね?」
「きちんと時間管理するなら。」
「わかった。…また連絡します。
そういや研究室は誰も何も言ってこんの?」
「研究室はそれどころじゃないわよ。」
「?なんかあった?」
「問題の無いところは大抵上手くいくけど、
問題の有るところにはずっと問題が有るの。
文吾町の神寄せさんは優秀。」
「そこまで婆さんじゃないでしょ。」
「…生き証人なわけないじゃない。
記録を読んだの。当たり前でしょ。」
「や、わかるけど…。
事実確認取りたくなるの癖なんよね…。」
一通り勤怠管理等の日常会話を終えてコハダさんが戻って来る頃には自分は案外落ち着いていた。ある程度頭も冷えて、混乱しても時間の無駄だと達観するしかなく何かを諦め現実に引き戻されていた。開き直れば確かにこれは唯のバイトだ。仕事をする上で、これはこういうもの、と説明されただけなのに取り乱す必要は全く無く、俺が知らなかっただけの、国も認める症状…ではなく能力だ。恐らく連盟に所属する人達の日常世界に於いては初歩の概念、基礎知識を実体験で教えて貰ったに過ぎない。しかもそれは俺自身の一部であり俺が知らなかったことの方が彼等には非日常なわけだ。"特殊なケース"…多分そういうことだ。
頭では解っていても恐ろしいのは変わらない。今迄の考え方でいると重度の精神疾患だったのかと恐怖で自分を見失いそうになってしまう。
けどそれだとコハダさんも同類ということに…。
それはオカシイ。逃げた猫は俺が何も知らないまま勝手に見ただけだ。別の人間が別の角度から同一の現象を言い当てているのだから、やっぱり其処には何かが在ったとしか思えない。とてもシンプルな理屈だけに無視するわけにもいかないから、信じるべきだ。
考えてみると変な話なんじゃないか?俺の考えた事を逆に辿ると他人と違う能力があるというのは、自分自身も信じる事が出来なくなる厄介な病の様なものなのか?ということになる。個人的には特殊な能力を持つ人間にそんなイメージは全くない。変な話だ。……どうしてだろう…ちょっと考えが纏まらない…。
猫達は初めこそジロジロと眺め見てきたが、今はもう俺など居ないかのように部屋の奥に固まってそれぞれがマイペースに振る舞っている。不思議と鳴き声は聴こえない。口を開けて鳴いているような顔をしているのに声が聴こえないのは見れば見る程にシュールで、まるで造られた偽物のような感じがする。
撮影機材がまだ片付けられていないから恐らく六堂が来てからも使う予定があるということだ。声を聴くことしか出来ないと言っていた六堂は、聴覚観測者、とか呼ばれるのだろうか。様々な機材で記録することになるとは事前に説明されていたのだが、この広くもない部屋に小型カメラを何台も見つけると少し異様な光景に映った。見ただけでは何に使うのか分からない機械?も幾つかある。
「…変わらんね…。」
戻ってきてから暫く黙っていたコハダさんは、自分の能力で何か情報を得ようとしているらしい。猫達はそれを全く気にも留めていないように見える。こんな様子を見ていると逆に、玄関で見たぶち猫があんなに急いで逃げ出した理由が気になってくる。あの猫だけが、何が違っていたのだろう。
気が済んだのか諦めたのか、行動を切り替えて近付いて来たコハダさんから名前と電話番号だけが印字されたシンプルな名刺を渡された。自宅に帰ってからでいいので出来れば此処で見た猫の絵を描いてみてくれないかと言われ、お土産として無地のノートを一冊貰った。描いてもお金は出せないから自由に使ってしまっても構わないそうだ。
のんびりと評された会話の途中で部屋の外から蓬莱さんに呼ばれた。どうやら俺に話があるらしい。コハダさんは素直に話を切り上げ右手で俺に移動を促した。
再び鴨居に気を付けて部屋を出ると、蓬莱さんは来た時と変わらず玄関に腰掛けている。
「待ち時間ができちゃったから、
重紀くんにも次郎右衛門さんの事、
少しだけ話しておこうと思うんだけど…。」
「あ……はい。よろしくお願いします。」




