加害者
坂島市を出た所で堀井とは別れた。曲がりくねった河に架けられた大きな長い橋を渡り切ると文吾町に入る。同じ小学校の校区でも家はかなり離れているので、少ない道を選ばなければならない町内では直ぐに道が分かれる。わざわざ遠回りして送る程の仲ではないというか普通に恥ずかしいし、そんな義理もない。断言しても良いがまず堀井が嫌がるに決まっている。
堀井の住んでいる地区は街側と呼ばれる河に近い平地で、一応はスーパーやチェーン店が数軒並んだ大通りが走っている。比較的交通量も多く、文吾町では商店街の扱いである。其処から山側と呼ばれる坂の多い地域が続く。田端んちのコンビニはその入り口辺りにあって俺の家はそこから少し山側に入る。森川んちの床屋はギリギリで街側の地域に在るが、堀井の家とは方角が異なる。
俺の家は山の裾野に当たり、大門の家などはその先のずっと奥になる。段々畑や田んぼが広がり、熊の出るような山の中ではないのだけれど、神社の近くは鬱蒼としている。大門の帰宅時には真っ暗になった山道を帰っているはずだ。イタチや狸は珍しくないし、鹿や猪には気を付ける必要がある。部活の後にまだ長い坂道を自転車で登っているのだからヤバイなと思うが、本人にはいい筋トレらしい。俺がバケモンと呼んだのは最大級の賞賛であり正直な感想でもある。
子供が少ないので学校が小規模でも校区は広く設けられている。住んでいる地区を知っているだけで堀井の家までは知らない。だからこそ自由に話しやすいのだ。近いとどうしても家の事情や家族が頭を過ぎるから、ご近所さんの付き合い方になる。普通の高校生活を送る男女にしては俺と堀井の距離が近いのは解るけれど、狭い町内で小中高同じだと感覚的にもう家族か親戚みたいなものだ。それなりに色んな事があった。
小学校の五年の時に堀井を殴ったのは今でも鮮明に覚えている。女子がイジメられているのを見ていただけで責められた。一対一でやられていただけだから当時の俺は喧嘩と変わらないと考えた。原因は知らなかったが、色んな事が上手く出来なくてハブられている子だったから、何か気に障ることをやらかしたんだと思っていた。小突かれているのに被害者は何も言わないし加害者が男子だったから、俺は落ち着いたら理由を聞こうと思って見ていた。
加害者は暴行に気付いた堀井に咎められて責められ、近くにいた俺に"ムカついたらこれくらいするだろ?"と同意を求めてきた。堀井は俺を睨み、俺は"そいつが何かしたんじゃないの?"と返事した。すると堀井は俺にまで噛み付いてきて、止めない事を強く責め立てた。謂れのない事だと感じていたから悔しいし、何も言い返す事も出来ないこの状況は酷いと自分中心に解釈して加害者の真似をした。どうせもう俺はこっち側にしかならないと開き直って逃げたかったのだ。大人みたいに言うと、他に黙らせ方が分からなかった。取り敢えず試しに拳で額を殴った。流石に体重は乗せなかったし、初めてだったから禄に拳も握れず力が入らなかったのがまだ救いだ。堀井は泣いてしゃっくりしながらも"お前も本当にそいつと同じか。""私が泣いたからって自分が正しいと思うな。"などと悪態をついて、小さな身体で腕を伸ばしてポスンと俺の腕に反撃してきた。軽い一撃で泣かれた俺は様子を見ようと立ち尽くしていて、堀井のパンチ?をそのまま受けた。椅子の角でちょっと引っ掛けたくらいに、当たるというより掠った。生々しい感触と一緒に相手の力の無さがリアルに解ると、憑き物が落ちたみたいになって無意識に鼻で笑ってしまった。何があんなに自分を追い詰めたのか分からない。けれど直ぐに真っ赤になった堀井の額を見て、そんな自分をぶん殴りたくなった。焦ってようやく頭が回り始め、心配する堀井の友人に保健室に連れて行くように促した。出来ることはそれくらいだった。
取り返しのつかない事をした。それでもやった後ではどうにもならない。赤くなった額と堀井の泣き顔とが自分のした事の結果なのだと、理解するにつれて胸が詰まって苦しくなった。当たり前だが正しいのは堀井の方だ。見ていただけだの、ただの喧嘩だの、当時の俺は関わるのが嫌ですっとぼけていた。目の前に被害者が居ても加害者が怖くて誤魔化した。善悪は解っていたのに、大した事じゃないと捻じ曲げたのだ。物事の否定と肯定も禄に出来ない本当に弱いガキだった。考え無しなのはやられている側じゃない事もある。無様に見えても芯の通った事がある。それだけは学んだつもりだ。
驚いたのは次の日にも堀井は平気な顔をして登校し、此方に睨みを利かして喧嘩腰だった事だ。殴ったこっちが怖かった。勿論物理的な感覚ではなく。俺は完全に思考が停止していた。謝ろうにも出来なくて、事態の収拾の仕方が解らなかった。
加害者は堀井とその友人によってキッチリと先生に告げ口され、学校で親も交えての話し合いになったと後日に噂されていた。実際、加害者は被害者と堀井に関わらなくなったし、俺も意図的に避けられた。友人というわけではなかったけれど、元気で明るい奴だったから、堀井には到底言えないが正直残念だったし辛かった。イジメていたことは変わらない事実だから、俺も状況を受け入れるしかなかった。事件は堀井と俺が加わった事で大きくなり、日頃からイジメられがちだった被害者がクローズアップされて学級の問題になった。その割に俺は親に連絡されて家で怒られはしたが、先生からは暴力を抑えるようにと注意されただけだった。堀井が自分から喧嘩を売ったと認めたからだ。それで改めて俺と堀井の二人が先生に呼び出された。
堀井の言い分はこうだった。"見ていても止めないなら同罪だ。"想像通りだ。そう言われても俺だって暴力は怖いと正直に話した。ここでビビって反論しなければ全部無駄になる。それに加害者は一緒に話す事もあるクラスの仲間の一人だ。それはそれで事実だった。"だからこそ止めるべきだ。止められるはずだ。"と堀井は主張したが、想定内だ。"俺が毎回危険を負うのか。俺だけに言うな。"と日頃から感じていた事をせっかくだから思い切って言ってやった。堀井は驚いていた。想像通りだ。此方の事情など知る訳がない。堀井は俯いて"それでも松尾にそっちにつかれたら敵わない。"と悔しそうに言った。俺にはこれが結構ショックだった。
デカいんだからしっかりしていてもらわないと、と言われた事はあっても、敵対したら敵わないのだから、と言われたのは初めてだった。明らかに買いかぶり過ぎだけど、多分俺も大人し過ぎたのだろう。ぼんやりしていてあまり意識した事が無かったが、俺にも暴力的に生きる選択肢はあるわけで、虐める側になるという可能性は常に其処にあったのだ。堀井はそれを前提にしているから煩く言うし、厳しく非難する。その事に気付くと何となく全体が解ってきた。アイツが憎む相手は個人ではない。そういう闘いがある。知ってはいたけれど関係無いと思っていた。間近で見ていながら他人事だった。自分もその中に居るという現実からは逃れられないのだと、堀井の言葉を聞いてやっと実感した。
その場には先生もいたので特に拗れることも無くお互いに謝罪して両成敗とされた。アイツとは物分かりがいいという共通項があるなと気付いた。堀井は恐らく表面上だし、俺は面倒が嫌いなだけだったけれど。周りでは取り敢えず謝罪はしたらしいけど殴るのは相当ヤバイんじゃないかという話になる。一時的に俺達は俺の意志とは無関係に皆が知る犬猿の仲ということになった。阿呆が阿呆な結果を招くのは仕方がない。堀井がいちいち説明して被害者のフォローをし、俺は特に何も出来ないままでも加害者には先生がきちんと話したらしく、クラスは何とか落ち着いていった。
俺の中にも変化があった。あれ以来密かに、堀井の持っている強さみたいなものは認めて習うべきなんじゃないかと考えたりして、それが段々と尊敬に似たものになっていったと思うのだけれど、当然そんな事は本人にはなかなか言えない。(反抗期というやつもあったかもしれない。)殴ったことは謝罪したが一方的な暴力を見過ごしたことも今は反省していると何処かで伝えたいと思っていた。なんかスッキリしなくて嫌だった。その機会も無いまま小学校を卒業し、中学生になってから心機一転してさりげなく話したら、被害者には言ったのか、そちらが先だと諭された。"今更かもな〜。"と言いながら困ったように笑う堀井を見て思った。…そうか、これが堀井なんだな、と。上手く説明出来ないけれど、こうして俺は堀井を理解した。




