小羽田優の憂い事 後編
土地神は広域に影響を与える特徴がある。その影響力は広く軽い傾向があり、感応者の多い割に現状では多くが解明されていない浮遊生命体表象の代表格である。宗教の分野では神格と呼ばれる神力の格差が語られることがあるが、土地神は一般的な能力者が感応出来るものの中では高位にあると考えられている。神々とされる存在の中でも特定のずば抜けて強力な表象を持つものに於いては一切が謎のままである。神々の方から近寄る以外に接触する手段は無く、耐性のある能力者でなくては精神に異常をきたすとも言われている。
神様については宗教と科学の両面から説明しようとすると非常にややこしい。全く観測出来ないからといって信仰を否定も出来ない。黙々と観測し、データを取り、結果を積み重ねるしか自分に出来ることは無い。
当たり前だが宗教と科学は分けて考えるべきものだ。能力者を認める為には必要だった科学的な裏付けを富士高岡が浮遊生命理論で説明してみせたのは良かったが、おかげで国政にカルト集団の影響が濃くなった。順序が逆だとする陰謀論も水面下では盛んであり、政府のゴリ押しを知る自分もやはり怪しんでいる。先進共和党は専門分野の在り方と人間の多様性を誤解している。或いは意図的に国民に誤解させている。
一つの分野は隣合う他の分野からも注目される。意見が衝突するのならばさらに他の分野からも議論を重ねることもある。最低限論文等は内容を精査され間違いが認められれば撤回されるものだ。その程度の常識が御座なりになってしまっている。質の保証もされない科学的主張が乱立し"何故か"無視され黙認されるという現在のこの国の状況はアホでもわかる異常事態だ。各政党の"推しカルト"が半端な独自理論を立ち上げては宣伝効果で覇権を競うという狂気の馬鹿騒ぎを誰も止められないのである。それを政府が援助し、身内に金が流れる仕組みだ。まともな友好国は距離を取り、異色の国として孤立化が進んでいる。国際社会からの孤立は独裁国家にもありがちな前提であるから笑えない。
冷静に考えれば科学技術は信仰ではない。例え技術の粋を尽くす為にある種の信仰は有用だとしても、それは別の側面から見れば狭窄視野に陥っているようにも映るだろう。信仰を利用するのは自由だが信仰の奴隷になってはならない。端からはそう言えるが正直自分にも自信は無い。自由に扱い一線を弁える事が出来るのは見識の深い一流だけだ。そんなものは上流の世界だけである。
科学は不断の努力によって成り立つ世界の共通理解であり、正しく知ろうとする知性の在り様の一つである。子供でも解るやさしい真実だったものが政治によって歪められた挙句に、その様相が市井では都合良く解釈され弱者が搾取されている。カルト商法に国がお墨付きを与えたようなものだ。当然の様にマルチも蔓延る。真っ当に意見するならば、禄な価値も無い金の動きの為に国民を捧げる愚策であり、いっそ貴重な資源を無駄使いする迷惑行為である。モラルと秩序を失い貨幣が紙切れと化した野蛮な世界を描くSF漫画を思い出す。識者でも関係者でもない自分にはこんな事になった経緯が説明出来ない。故に政府に責任を求める陰謀論者になるしかないわけである。
大昔から語られるシンプルな理屈の方がまだマシだ。世界は一つであり、科学的知見はみんな違ってみんないいとはならんのである。それではあらゆる計算が成り立たたない。全ての計画は空中分解してしまい結局何一つまともに出来なくなる。国内の政治に翻弄され愚にもつかないことをしている間にも合理的な判断と先見性を持つ他国は冷静に先を行くのだ。創造の為には既存の枠を越えた自由な発想が認められるべきである。しかし答え合わせもされていない不適格な解答を基準にするわけにはいかない。科学技術は世界の法則から生まれ、その先端は唯一である…。何も煩わしい事は無い。実利に適った正論だ。
個人的にはもっと小さくても良いと思う。科学が多彩な芸達者になるのなら悪くない。しかし今の状況はシンプルに嘘だらけで収拾がつかない。何もかもが装いだけのパッケージ商売の様である。多彩であることはファッションでも出来るが多様であることには厳粛な実在を伴う。そもそも自分は多様性をトレンドのように捉えること自体を良く思っていない。それは厳しく言えば大衆の目を逸らしているに過ぎない工作であり、誤解を産み、未来に混乱を招きかねない無責任な方策である。
人間は須らく平等に一人の人として扱われるべきであるが実のところ悉く平等でも同じ人でもない。これは厳然たる事実である。多様性とは意思や思想のみを語る言葉ではないはすだ。むしろ当事者に責任の無い実体の個体差を重視し、尊重し、万事出来る限り丁寧に検討するべきである。分かりやすく年齢や性別でも違いは確認出来る。定義するまでもなく元来あらゆる人間は多様なのである。これは原点であり、自然現象でしかない人類本来の性質だ。
現状政府は変わっていても劣っていてもかなり無茶であっても声が大きく力のある意思や思想に沿う事を多様性を受け入れていると称し、実態を考慮せず、政府主導の"公平"という名の理想モデルに合わせた合理性重視の政策を正義であるかのように誇示する。これは真に人を思いやる行為とは程遠く、人間に真実を見透す千里眼が無い以上は自信過剰である。自分たちの為に都合の良い意見だけを拾い上げることすら可能な状態に於いて湧いて出る不満と問題を放置しては信頼を得られるものではない。平たく言って与えたつもりの丸投げであり、そもそもがポーズだけを取り繕った談合から始まっている。
政府には責任を持って信用するべきものを信じて貰わなくては我々国民は混乱させられるだけである。現政権下では、そのような政治によって生じた混乱を学者や研究者のせいにする風潮すらある。知性を活かす為にはそれを積極的に取り入れるシステムや構造が必要であり、技術は技術でしかない。世界の真理はただ其処に在り、彼等はそれを汲み上げ使い勝手を考えるのみである。最も影響力がある国の事業に於いて方針を定め取捨選択の権限を持つ政治のトップとブレーンが何かを間違えている状況が一番困る。
多様性とは言葉通りであれば最先端の価値観ではなく原点であり、現実を受け入れる精神のことである。先ずは様々な問題を掃き捨てているも同然の現状を受け入れ是正するべきだ。その方がよほど公平に近付く。二重三重に苦しむ人間も居るのに差別も格差もいじめという名の横暴も結局は放置されたままである。社会や政治に要因のあるものを"現実"と定義されては未来永劫救われない。そうして掃き捨ててきた課題の山こそが現実であり、本来ならばこれを何とか工夫して大所帯の住める社会に整えるのが政治の役割のはずである。
問題の根本を無視して間口を広げても苦しむ人間が増えるだけである。受け入れるとは良い返事が出来るという意味ではなく、それに伴う全ての影響を直視することである。現政権はフィードバックするどころか上司と部下が逆転したような有様であり、本来なら国民からの批判は免れないはずだ。
民衆の動きは既に怪しい。多様性を重視するならば見捨てて良いものなど何一つ存在しないと言うのに、声の小さく弱いものは全く話題に取り上げられない。疾患、疾病、障害を持つものまでもがその内に入り、sf能力者だけが特別待遇なことには違和感がある。今の先進共和党が推し進めているのはまるで選別だ。情報を選び印象を操作して当たり前のことを当たり前に考えることさえ牽制する姿勢は孤立や個人主義、そして高齢化の進む世の中とどうも相性が良いらしい。
自分一人に何が出来るわけでもないが、立場上微妙に関係している気がするので、当たり前の事を当たり前に主張しておく。科学技術が人を苦しめるのではない。人を救う為の正しい使い途が与えられていないのだ。




