王女セシリアの毒杯に関する考察
一滴も余すことなく、セシリアはグラスの中身を口に含んだ。琥珀色の液体は甘ったるくて喉が焼けそうだった。
いや、実際に焼けていたのだろう。痛みの代わりに熱が喉元から広がっていく。
液体は流れる端からセシリアの体内を焼いていった。熱くて熱くて、全身から汗が吹き出る。最も熱を感じたのは液体の溜まる胃だ。たまらずセシリアは胸を掻き毟った。そうしたところで熱が治まるはずもないが、そうでもしないと気が狂いそうだったのだ。
熱くて熱くて堪らない。そのうちに呼吸もままならなくなり、掻き毟る手はいつしか喉へと伸びてセシリアの爪を赤く染めた。
セシリアが飲み込んだのは臓腑を焼く猛毒だったのだ。彼女の命を蝕むための甘美は、その役目を果たした。
王国歴246年。王家に名を連ねる身でありながらその権威を失墜させたとして、セシリアは毒杯を賜った。
凍える寒さの、冬のことだった。
「王家の権威? はー、ふざけんじゃないわよ。浮気した義理の兄を窘めたら毒殺? 怖っ。王家、怖っ」
ベッドに寝そべり、分厚い本を開く金髪に青い瞳の少女は、そう言って顔を歪める。
そんな彼女の正面から本を覗き込んでいたもう一人の少女が首を傾げた。彼女の髪はやはり金、だが瞳の色は緑をしている。
「側妃の美しさを妬んだ王妃が、やりたい放題やってるってだけよねぇ」
「ねー。自分の子可愛さ、ってやつ。側妃の産んだ姫の美貌を脅威に感じてたのね、前からセシリアが邪魔だったんでしょうね」
「美しさはカリスマにも繋がるものね」
うんうん、と寝そべっている少女は頷く。
「だいたい、この義理の兄にあたる王子が問題よ。王子なんだったらもっと自覚がないとだめでしょう。教育が厳しくてついていくのがやっとで、でも婚約者が優秀だったから劣等感を抱いていた。自分の勉強がうまくいかないからって婚約者に八つ当たり。あるあるよね、国王や王妃である両親には言えないからって、立場の弱い婚約者に甘えているのよ」
「子供だものねぇ」
「ある程度は仕方ないかもしれないわ。でも、公の場では取り繕いなさいよ。子供の頃ならともかく、十代半ばでそれはさすがに通らないわ。王族なのだし、それくらいはしっかりしないと。その年齢で、婚約者ではなく別の相手をパーティーに連れてくるって、どういう神経してるのよ。公然と浮気してます、って言っているものじゃない。浮気相手に真実の愛を見出した、とか言ってるけど、何よ真実の愛って。愛に真実も嘘も無いでしょ」
「自分だけを見てくれて、肯定してくれる浮気相手にお熱になっちゃったのね。婚約者は王子様を憎からず思っていたでしょうに。愛っていうか、熱の強弱のことを言っているのかしら?」
「強かろうが弱かろうが愛情は愛情でしょうにねぇ」
「本当にねぇ」
二人は同時に溜め息を吐く。
「そんな破天荒な王子を窘めない周囲も周囲よね。最初から王子様を立太子させる気無かったんじゃないの?」
「窘めない理由っていうのもねぇ。普段責務で拘束されている分、羽根を伸ばす時間をあげたい、だなんて、王侯貴族の言うセリフかしら」
「挙句、婚約者じゃなくて浮気相手をエスコートするんだもの。そりゃあ義理であっても王家の人間、妹だもの。セシリアだって一言言いたくもなるでしょうよ、常識があれば」
「よねぇ」
「それで傷付いた婚約者を、セシリアが慰めてあげて交流が生まれるのね。自分も側妃の娘だからって冷遇されているのに偉いわ……。で、ここからが急展開。どうしてセシリアが王子様を王宮から追放しようとしていると画策してたって事になるの?」
「王子の浮気相手の証言が、決め手という事になっているわね。この、証言、というのがくせものよね。信憑性があれば、真実でなくても受け入れられてしまうもの」
「裏取りしたのかしら?」
「しているでしょう、当然。いくら王妃が邪険にしているとは言え、セシリアは王家の人間よ。その彼女を糾弾するんだもの、していなかったら役人が職務怠慢で処罰されるわ」
「その結果、浮気相手の証言が全面的に認められたのね」
本を抱えていた少女はその前後の文章を指先で追う。
「……セシリアがそんな素振りをした、とは書かれていないわね」
本を覗き込んでいた少女の方も、前のページを見返して頷いた。
「そうね。浮気相手の証言を保証する人がいた、とは書かれているけれど」
「その証人って、浮気相手と交友関係があるか、知人、身内ばかりでしょう? 濃厚な捏造のにおいがするんだけど」
「その中には浮気相手の親も含まれているのね。ねえ、浮気相手の実家。王妃の実家と癒着してるわよね、これ」
「でしょうね。ただの男爵だったのが、急に役付きになってる。なんの功績も無しによ。その前後、王妃の実家の羽振りが急に良くなった。お金を渡しているとしか思えないわ」
「当時誰も変だと思わなかったのかしら」
「王より王妃の方が実権が強かったようだから、すでに王妃の天下だったのでしょうね」
「じゃあ、やっぱりこの証言、嘘と見て間違いないわね」
「ええ」
二人はぺらりとページをめくった。
「真実の愛こそ優先されるべき。王子はそう言って、婚約者に身を引くように言った。セシリアは、それは道理が通らないと反論した」
「その反論こそが、王子を陥れるとして判断された。変な話よね、どういう解釈をしたのかしら」
「ここを見て。婚約者を慰めた時、彼女と密約を交わしたということになっているわ。婚約者を操って王子の動向を探ったとか」
「共謀ということ? 王子が道を外すよう誘導したと? でも婚約者の方は処罰されていないわよね」
「……途中で心を壊してしまったのね。それで婚約者の生家から婚約解消の申し出があったようよ。婚約者はその後、神に祈りを捧げる生活を送った、ですって」
「うわ、怪しい。そういう事にして追い払ったんじゃないの?」
「婚約者がそうなってしまったのも、セシリアのせいにしたのね……むしろその材料にするために、婚約者の方にも脅しをかけたのかもしれないわ」
「あり得るわ。さすが王国の影の王って言われただけあるわね、王妃様」
つつつ、と本に添えた指を進める。場面は王女セシリアの断罪の後、王家に何が起きたかが書かれていた。
「セシリアは処罰されたけれど、実はまだ辛うじて息があった。それに気が付いた護衛騎士が保護をして、一命を取り留める。回復したセシリアは護衛騎士と共にクーデターを起こす。腐敗した王家を正す、それを指標としたクーデターは成功し、そのために甦ったのだとセシリアは新たな女王となった。なんだか出来過ぎよね、最初からそれが目的だったようにも見えるわ」
「その騎士っていうのが、身分を隠していた公爵家の子だったっていうのも怪しいわ。公爵家の密命で姫の護衛騎士として潜り込んでいたのかも」
「えっ、それはいつから? セシリアが幼い頃から? それとも、王子と元婚約者が不仲になった辺り?」
「どうかしら……。でもそうなると、セシリアが一時身を寄せた教会というのも怪しく見えてくるのよ。ここ、王子の元婚約者が勤めていた教会っていう可能性もあるんじゃない?」
「なるほど。元婚約者がセシリアに恩義を感じていたなら助けたでしょうね。元婚約者の実家からではなく、別の家から支援するよう口添えしているのなら、公爵家に与する家があったのも納得だわ。いくらなんでもセシリアと護衛騎士だけでは、クーデターなんてできっこないもの。公爵家だけでも不可能よ。でも元婚約者の実家が動いていたとなれば……」
考え込む緑の瞳の少女に、本を抱えていた青の瞳の少女が「でも」と口を挟む。
「実際、そんなにうまくいくものかしら。いくら王妃のやりように問題があったとしても、継承権は紛れもなく王子にあったのだし」
「……それがそもそも違っていたとしたら?」
「えっ?」
文章を追っていたのをやめ、視線を上げると、やはり緑の瞳の少女は口元に手を添え考え込んでいた。
「どういうこと?」
「だから、王妃の産んだ王子が、本来は継承権を持っていない子だったら? 公爵家で育てられた騎士が本当の王の子だった。だとしたら、騎士の方が次の王に相応しいのよ」
「そんな……でも確かに、それなら王妃を引きずり下ろすのも可能だわ!」
「王妃の不貞を突きつけ、王位の正しさを示した。あえて歴史書には記さなかったのは、おそらく騎士の願いでしょうね。王家の歴史にあえて汚点を記す必要はないとか、そういう理由じゃないかしら」
そう結論付けた二人は、ぱっと顔を上げる。
「ね、どう母様。当たってる?」
問われて、女王セシリアは二人の娘に向かって微笑んだ。
「ふふ。さあ、どうかしらね」
「えー、教えてくれてもいいじゃない」
母親にはぐらかされ、妹のほうが父親に目を向ける。
「父様、どうなの、本当のところは」
「うーん。どうだろうな」
「もう、父様まで!」
二人の娘はムッとむくれた。
女王セシリアには、ところどころ皮膚の爛れがある。遠目では目立たないが、服で覆うことの出来ない箇所にもあるそれは、患ってから十年以上経っても消えないのだそうだ。それこそがセシリアが毒杯から甦った証拠で、娘達は歴史書が真実であると理解した。
でも、と二人は両親を見上げる。歴史書には、きっと事実は書かれていない。書かれていない事実にこそ、知っておかねばならないものがあるのだと、そう感じたのだ。
「私たち、母様と父様の娘よ。本当の歴史を知っておかねばならないと、そう思うの」
「セシルの言う通りだわ。同じ過ちを繰り返してはいけないもの。お祖母様と同じになんてならないけど、どうしてそうなってしまったかは知っておかないと。でないと、なにが間違いなのか、それすら分からないわ」
「ツェツィーリエ、たまには良い事言うわね」
「たまに、は余計よ!」
言い合う娘を前に、くすくすとセシリアは微笑む。
「はいはい。続きは明日ね。今日はもう遅いから寝なさい」
とそう言って、娘達を優しく撫でる。それは終わりの合図だった。女王であるセシリアは忙しい。他愛無いこの家族の時間も限られたもの、許される時間は少ない。それでもわずかな時間を縫って娘達との時間を設けてくれている事を、彼女達は知っていた。
「はあい。明日絶対教えてちょうだいね、母様」
「そうね、考えておくわ」
合図すれば大人しく従う娘達を誇らしく思う反面、悲しくもある。幼い時分からこうも聞き分けが良いのは、彼女達の境遇がそうさせているからだ。
娘達の寝室の明かりを落としそっと抜け出したセシリアと夫のリアは、リビングに着くなり、ふう、と息をつく。
「あそこまで推測がつくものなの?」
「そうだな、俺も驚いたよ。会ってもいない義理の伯父の性格を、ああも見事に言い当てるんだからな」
くつくつと笑うリアに思わず頰が引き攣る。爛れた皮膚と一緒に動いたそれに、セシリアは思わず頰に手を添えた。
セシルとツェツィーリエの二人は幼い頃から物語をよく好んでいた。ならばその延長で本なら読むんじゃないかと、勉強の補助のつもりでこの国の歴史書を渡してみたのだ。そうしたらセシリアの予想以上に食いつき、連日連夜物凄い勢いで読み耽っているという。
それで最新の歴史書を読んでいるようだ、と従者から告げられて行ってみたらあれだ。彼女達は歴史書と、それから両親から聞かされた馴れ初めやら小さい頃の思い出やらとを組み合わせた結果、セシリアの半生を詳細に推測してみせた。
「嫌だわ、歴史書ってあんな風に書かれているのね。もはや小説じゃない。どうして年表じゃないのよ」
「君、ろくに読んでなかったんだな」
「それはあなたもでしょ!」
まさか自分が毒杯を煽った場面が、あんな風に書かれているだなんて思わなかった。というかあれを書いたのは誰なのだろう。確かにセシリアは胸を押さえたが、その後の記憶は曖昧だ。自分がどんな服装だったかも覚えていない。そう言えば介抱されている間、首に包帯が巻かれていたのを思い出した。その下に掻いてできた傷があったのかも知れないが、それよりも体の内側から湧き上がる痛みと熱の不快感が勝っていた。そっちの印象の方が強くて傷の方の記憶はさっぱり無い。
「歴史書と聞いた話だけで、あれだけの事が思いつくだなんて。と言う事は、国民もおおよそ察しているのかしら。せっかく私が女王になって真実を隠したのに、それじゃ意味がないわ」
「いや、あれはあの二人だから辿り着いたんだと思うぞ」
「そうかしら……だと良いのだけれど」
「継承権の話は、空想に近い。突拍子がなさすぎるだろう」
「でも本当の事じゃない……」
そう、実はセシリアも息を吹き返してから知った。王子が王の子ではない事を。そして――自分にも王家の血が流れていない事を。
セシリアの母親は、先の王に美しさを見染められ求められた。当時結婚寸前の相手が居たにも関わらずだ。そして王の妃になり、自身が身籠っている事を知った。それは王の子ではない、夫となるはずだった男の子供だった。
当時母親が何を考えていたのか、セシリアには分からない。けれど、自分の身に宿った命を守ろうとしたのではないかと、そう思う。幼い頃に亡くなったからほとんど覚えていないが、セシリアの母親は娘を慈しんでくれた。心を病んでしまったのは仕方がないだろう。王妃からの嫌がらせは日に日に激しくなり、そんな中で王の子ではない娘を姫として育てなくてはいけなかったのだから。
それを知っているのは、死んだ王妃とセシリア夫妻だけ。セシリアも、王妃とリアに聞かされて知ったことだ。
王妃がどうやってそれに辿り着いたかは、やはり彼女の権威と執念によるものだろう。あるいは、セシリアの母親と自分の立場が同じだったからだろうか。偽りの王の子を育てるという境遇は一致している。自分に似た気配を、王妃は察知したのかもしれない。
ただそれでも、セシリアの娘達が推察だけでそこに至るとは思いもつかなかった。
「シスターの事まで当てられるだなんて」
「あれは、ちょっと読めば想像がつくな」
「歴史書を改変すべきかしら?」
「そこまではしなくていいんじゃないか」
「そうかしら……」
「そんなに気になるか?」
「もちろんよ。これは語られてはいけない類いのものだから」
セシリアの手元にあるのは、さっき娘達の寝室から回収してきた歴史書だ。絵本代わりにしているが、れっきとした国の資料なので、本来なら鍵付きの棚に仕舞うべきだろう。けど、ここは王族の私室。人払いしてあればよほどの事がない限り漏洩しない。それで雑にテーブルに乗せられているのだ。
リアは歴史書を撫でるセシリアの手を取った。
「人の口に戸は立てられない。それと同じように、感じ、考えるのを止めることも出来ないだろう。いずれ真実に辿り着く者が居たっておかしくないさ」
「でも……」
「心配するな。俺は最期まで君の共犯だから。君が糾弾される時は俺も一緒だ、共に悪者として歴史に名を遺そうじゃないか」
そう言って、リアは愛しい妻を抱き締めた。
十年後、女王セシリアの処刑が実行された。
彼女は王位に就いてからというもの善政を敷いていたから民からは惜しむ声も上がったが、処刑を免れはしなかった。王家の血を引かない紛い物の女王。それが立証された為だった。
その夫リアが公爵家の実子であったため、辛うじて次世代に正しく血を引き継ぐ事は出来たものの。ただの女を国の頂点に据えていた事実は、王家を絶対とする国民には受け入れ難いものだった。事実が発覚してすぐ彼女の娘に王の座は引き渡され、その日のうちに処刑が行われた。王国では異例の事態だった。
リアは真実を知りながらそれを長年隠していたと、処罰すべきとの声もあったが、彼にはれっきとした王家の血が流れている。それで生涯幽閉される事が決まったのだが、彼は妻の処刑が行われたのとほぼ同時刻、隠し持っていた毒を煽ったという。
見張りの者が止める間もなく、彼は事切れた。その報告を受けた新たな女王は「そう、父様らしいわ」と呟いた。
歴史書には簡潔に、セシリアとリアの名、それと罪名と没年のみが記載された。新たな女王となり、その横に名を並べられたセシルは、指先でその文字をなぞる。
「考察なんてするもんじゃないわね」
ぽとり、と雫が落ちる。彼女の目から落ちたそれは、真新しい名前の上に落ちてインクを滲ませた。
厳重に管理されていたはずの歴史書に、たった一箇所だけ滲みがある。それが意味する事はと、後年研究者達の間で考察が広がった。
残念ながら真実に辿り着けた者は居なかった。