90 ずっと会いたかったよ
「道は開いた! 二人とも、進め!!」
衝撃に打たれた頭の中に、聞き馴染んだ親の声が響いて、直後に勢い良く手を引かれる。
アーネスが声に応えて駆け出したみたいだ。
俺も砂浜に足を取られないように、置いて行かれないように走り出す。
「波打ち際に船がある! 今頃ミシュガン商会の補給も終わっているはずじゃ!!」
空からリーラントの声が響いて、俺は状況を理解する。
彼らはこの状況を事前に予期して、夜神から逃げ延びるための手段を用意してくれていたのだと。
ミモレさんや、エルーンおばあちゃんの言っていた補給とは、このことを指していたのだと。
「僕とリーラントはここで全てを食い止める! どうか構わず、そのまま真っ直ぐに走るんだ!」
周囲を見渡せば、確かにグールの大群は一方の波打ち際に押し固められていた。
俺たちが向かうべき道は、その対角にあるのだと、よく考えなくとも理解できる。
「行くぞ、レーダ!」
「ああ!」
浜辺には霧がかかっていて、遠くの方は見えそうにない。
この辺りの地理もわからないが、海沿いなら迷わなくて済むはずだ。
俺たちはただひたすらに砂を蹴って、ただひたすらに先を目指して……
――突然、視界が砂煙に覆われた
「ごほっ……! なん――」
「アーネス……!?」
彼の声が不自然に途切れてしまった気がして、声を上げて、気付く。
さっきまで強く握っていたはずの、彼の手の感触が無い。
晴れかかった砂煙の中を眺めても、彼の姿は無いのに……
――ふと、明らかに彼ではない人影が見えた。
「どこに行くつもりかな、お姉ちゃん?」
ずいぶん低身長な人影が、砂浜からその姿を現す。
いつか見たフリフリのフリルドレス。
昔の俺が、良く着こなしていた色味。
なにより、俺をそう呼ぶ人物は、この世に一人しかいない。
「ノエル……?」
ノエル・ハイマン。
腰の後ろに手を組んで近づいてきた彼女は、俺の妹であるはずだ。
「どうしてここに。まさか、またアクシーが?」
「ご名答」
砂煙の中から、タキシード姿の妖精が姿を現した。
なるほど、確かにお前は四歳の夏にも、同じようなことをしていたな。
「なんのつもりだ?」
「いやあ? ちょっとかわいい子に頼まれたから、ね」
頼まれたって、どういうことだ。
そう口走ってしまいそうになって、気付く。
ノエルがじっとこちらを見ている。
「無視するなんて酷いなぁ」
「ああ、いや、ごめん」
確かアクシーは子ども好きだと言っていたか。
言い方はかなりひねくれているけど、理由は概ね理解できた。
おそらく彼女は、少し根に持っているのだろう。
「王都につれていけなかったのは」
「そうじゃないよ」
「え?」
俺を探して欲しいと頼むほどだから、きっとその事かと思っていた。
アクシーはノエルの「お姉ちゃんに会わせて」みたいなお願いを、最悪のタイミングで叶えようとしただけなんだと思っていた。
「ああ、そっか。お姉ちゃんって言ったから、私のこと誰だか分かってないんだ」
それでもきっと違うんだと、その時、直感的に理解した。
「え……?」
「そっか、そうだよね。もういらないって言ったもんね! こんな世界まで追ってきたのに、説明しないとわかってくれないんだ!」
その目の奥に空虚さを孕んだ、乾いた笑みには見覚えがあった。
端々に織り込まれた、特徴的な言葉選びには聞き覚えがあった。
彼女がこの世界をこんな世界と呼ぶ理由に、見当がついてしまった。
「ひょっとして、赤坂、アオイさん、ですか」
「……!! そうだよ! 久しぶり!!」
彼女は先程とはまた違う、満面の笑みを浮かべて言った。
決定的な証拠がなくたって、分かってしまった。
「ずっと会いたかったよ。あなたを探して、異世界にまで来たんだから」
彼女は、かつての彼女なのだと。
理解した瞬間、彼女は袖から、一振りの何かを取り出した。
包丁だ。




