84 赤色
暗く、心細い闇の中に居る。
ここがどこかはわからない。
俺の目の前には、扉が一つ。
俺はそれを、首が痛くなるくらいに見上げている。
俺は、地べたに倒れている。
あるいはココが屋内であるのなら、床に。
どうしようもない脱力感に襲われながら、伏せている。
――ふと、ドアが開いたような音がした。
見上げたドアの向こう側から、強い光が差し込んでいる。
逆光で映し出されたシルエットは長身で、見覚えがある。
ひどく安心感のある立ち姿だ。
彼はこちらに気付いたのか、俺の方へ向けて進んできている。
「パパ?」
酷く幼い女児の声色が、どこからともなく聞こえてくる。
俺の口から出たわけじゃなく、扉の向こう側から、聞こえてきた。
ふと見上げると、長身の横に沿うように、低身長の人物が居る。
やけに派手な、フリフリのドレスを着ている気がする。
「どうかしたの?」
ああ、覚えている。あれは俺だ。
あの子も俺だと割り切ったはずだ。
俺は、誰かの代わりなんかじゃない。
今世の俺は、あの子なんだ。
「いや、何か、聞こえた気がして」
そうだ。彼に気づいてもらうんだ。
ダイアーなら、俺に気づいてくれるはずだ。
この暗い闇の中か、俺を連れ出してくれるはずだ。
だから、息を吸って、声を上げるんだ。
『どこへ、いくつもり?』
だが、その声で、引き戻される。
ひどく聞き覚えのあるその声で、意思を挫かれる。
『あなたを受け入れてくれる場所なんて、どこにもないわ』
すぐ後ろから、斜面をずり落ちるように引かれる。
両足を揃えて引き戻される。
『あなたは、最後の身内を失ったのよ』
そのまま腰に手を回される。
上体に手を回されて、両腕を縛り付けるように抱かれる。
『かわいそうに。ちょっとでも何かしてくれれば、また違ったかもしれないのに』
抱きしめられる。
背筋に髪の感触が伝って、彼女の吐息が耳にかかる。
『 』
耳元で直接囁かれた声を、なんとか頭から離そうと試みる。
試みたところで、身体を反転させられた。
『もう一度言ってあげましょうか?』
ああ、その時あなたは、どんな表情をしていたのだったか。
悲しんで、泣いていた?
怒りに満ちて、歯を食いしばっていた?
あるいは全ての感情を殺して、無表情で見つめていた?
いや、きっとどれも違う。
どれも違うと覚えている。
俺の記憶が正しければ、その時のあなたは。
俺の両肩に両手を添えて、
『お前は、もう、いらない』
あなたはきっと、笑っていた。
◆◇◆◇◆
「レーダ?」
今度ばかりは、分かっている。
さっきのは夢だと。
俺の心の不安が産んだ、タチの悪い夢なのだと。
「目、覚めたのか」
「……うん」
目を開ければ、赤髪が見えた。
この数年で、随分慣れ親しんだ赤髪。
ぼやけた視界の中ででも、これだけはわかる。
見ると落ち着くような赤色。
「だったら、顔でも洗ったらどうだ」
「うん、ありがとう」
なんだ、随分ドライだな。
なんて思ったのも束の間、彼はすぐさま立ち上がって、俺に背を向けて歩き出した。
……なんだ? 何かおかしい気がする。
「そういえば……ここは?」
「仮設テントだ。必要なものは、そこに置いてある」
言われた通りに見回したら、すぐそばに半開きのチェストボックスが見えた。
中には包帯や薬の瓶、袋詰めされた薬飴らしき物体など、様々な医薬品が見える。
アーネスが、手当てしてくれたのだろうか?
「ありがとう。傷、治してくれたんだね」
「……いや」
いや? って、どういうことだ?
まさか、手の付けようがない程重症だったのか?
でも、見た感じ腕とか脚にケガは無いし……四肢も自由に動かせるぞ。
着ていた朱色のドレスの方は……かなり焼け焦げてしまっているけど。
「鏡、見てみろよ」
そう言われて、チェストのすぐ横に手鏡が置いてある事に気が付いた。
すぐさま手に取って、自分の顔の様子を見てみる。
「傷や、焦げ跡一つないだろ」
「うん」
もちもちほっぺに、艶のある肌。
くりっと大きな両の瞳も、前髪だって焦げ付いちゃいない。
なんともなさそうだ。
「じゃあ、俺は外出てくるから」
「ああ……」
正直、半分賭けみたいなものだったけど、ここまで無傷でいられているとは。
死ぬほど痛くはあったけど、頑張ってよかったっていうものかな。
アーネスには心配かけただろうけど……
「うん?」
いや待て、俺があそこで気を失ったのなら、おかしいぞ。
傷が治っているのはいいにしたって、なんで火傷すらないんだ?
俺の身体は、少しも煤けてすらいない。
一体どうして、そんなことがあり得るっていうんだ?
考えられる可能性は少ない。
それも統合してしまえば、一つになる。
俺一人の力でどうにかできなかったのなら、誰かが助けてくれたってことだ。
いったい誰が?
「アーネス?」
俺が声をかけた途端、彼は勢い良くテントを飛び出した。
まるで逃げるように去ったから、俺は咄嗟に立ち上がった。
脱がされていた靴も履かずに、立ち上がって彼の姿を追う。
テントの外は、肉の焦げたような臭いで満ちていた。
赤黒く爛れた色で満ちていた。
「アーネス!!」
俺が大声で呼び止めたら、彼は立ち止まってくれた。
テントから飛び出したのを、すぐ追いかけたから間違いないはず。
なのに、彼は俺の記憶とは、全く異なる立ち姿をしていた。
「何だ」
黒煙を上げて燻る馬車たちを背に、彼はこちらへ向けて振り返った。
未だ舞い散る火の粉の前に、アーネスは立っていた。
「ッ……ああ」
彼は、焦げ付いた服を身にまとい、全身に包帯を巻いていた。
黒焦げで穴の空いたズボンの中にも包帯が見えた。
引きちぎられたように短くなった、袖の内側にも包帯が見えた。
「アーネス……俺……!」
「……気にすんな」
優しく伏せられた瞼の上にも……包帯が見えた。
俺は自分で助かったわけじゃなかった。
俺を助けてくれたのは、アーネスだった。
彼は多くのものと引き換えに、俺を助け出してくれたんだ。
「行こうぜ。二人とも、生きて身体が動くんだからさ」
そうやって彼は、はにかんで笑った。
笑顔を覆った包帯の間には、酷く焼け爛れた皮膚が見えた。
火傷の痕だ。きっともう、元には戻らない。




