67 晩歌
自分は安寧の真っただ中にいて、誰もに愛されていて。
はっきり言って、いい気分になっていた。
正直、こんな時間がずっと続くと思っていた。
「にぃーしのぉー、りぃーくにぃーはー」
これから、前世でいろいろあったはずの、学業にいそしむことになるとしても。
これから、幼馴染の親友と、二人暮らしをするのだとしても。
なんだかんだ言って、今までうまくいっていたから。
何かしら困難に直面しても、また乗り越えていけると思っていた。
「こーえがぁー、おぉるぞぉー」
いつかまた、前世のトラウマを刺激されるかもしれない。
自分の存在価値を疑うことになるかもしれない。
ひょっとしたら、人間関係に心が追い付かなくなったりするかもしれない。
王都の中、冗談を交える心の裏で、そんな考えが浮かばなかったわけじゃない。
「にぃーしのぉー、りぃーくちぃーでー」
表には出してこなかったが、俺はひそかにそれに備えていた。
楽観で心を癒していく裏で、いずれ迫りくる恐慌に備えていた。
前世の後悔にだって、向き合って見せるつもりでいた。
少なくとも、心の準備は万全だった。
「こーえさぁー、こさぁえるぞぉー」
***
入学式は広場で行われるそうで、俺とアーネスは係員の指示に従って、学園構内を歩いていた。
俺たちの他にも、新入生らしき人々は数多くいて、その多くは同年代の子供たちである。
ネルレイラ王国の教育事情は知らないけど、意外とみんな、子どものうちから学校に通えてしまうんだな。
これだけの人数がいて、全員が名家のお坊ちゃまってこともないだろうし。
「うん……?」
「どうかした?」
俺が考え事をしていたら突然、アーネスが目を細めて、顎を突き出すような仕草をした。
別に立ち止まったりしているわけではないが、妙な動きだったので、歩きながら声をかけてみる。
「なんか、変な臭いがしないか?」
「変な臭い……?」
俺は何も感じないが……なんて思いながら、一応俺も、鼻から息を吸ってみる。
言われてみれば確かに、少し妙な香りがするような気もする。
というか、これひょっとして……
「潮の香り?」
「海が近いのか?」
言われて耳も澄ませてみると、波の音も聞こえてきたような気がする。
先の方は壁に阻まれていてよく見えないけれど、ひょっとして。
「みなさーん。ここで列になって進んでください。あまり前を押さないようにー」
ちょうど、前の方から歩いてきた係員の方が、そんな風に声をかけているのが見えた。
どうやら目的地は、王都を囲む壁の外らしい。
遠くの方で人混みが収束していっていることからもわかる通り、皆々が門の方へ誘導されている。
そして、その門の先に見えるのは……
「ああ、海じゃん!」
そっか、ネルレイラ王国は海に面しているものな。
交通の便を考えるなら、王都に港があってもおかしくないか。
なんにせよ、久しぶりのウェミダー!
***
心安らぐ波の音。
ちょっときつめの潮の香り。
辺り一面に広がる青々しい芝生。
そんな情景に心をゆだねられたのも最初だけで。
「話、長くないか」
俺たちは、いかにも校長っぽい人の話を長々と聞かされて、うんざりしていた。
一応、海の見える芝生の広場とかいう、結構爽やかなシチュエーションなんだけどな。
日差しはきついし、人は多いし、なによりずっと立ちっぱなしだし、そろそろぶっ倒れる人も出るんじゃないか?
万が一の時の救護体制とか、大丈夫なんだろうか。
「あ」
「どうした?」
控えている学園職員はいるのかな、なんて考えながら列の外側を眺めていたら、気になる人を見つけた。
長身で、俺に劣らずファンシーな、若草色のドレスを身につけた美麗な女性。
「あれは……リーラントか」
「ちゃんと教師ポジションにいるんだね」
「ポジショ……よくわかんねぇけど、そうみたいだな」
あ、ずっと眺めていたら、こっちに気が付いたみたいだ。
目を合わせてきたと思ったら、わざとらしくウインクしてくれている。
相変わらずお茶目な人だ。
入学式が終わったらあいさつに行かないとな。
「まあしかし……ほんと長いな」
「あんまり文句言うんじゃありません」
「なんだそれ、別にいいだろ。周りだってざわざわしてるぞ」
まあ、それはそうなんだが。
流石にこの日差しには文句があるのか、結構なざわつきようである。
そろそろざわめきで校長の声が聞こえなくなりそうだ。
いやまあ、学園なら校長じゃなくて学園長とかだろうけど。
「うん……? レーダ、あれ見てみろ」
「なに? また誰か見つけた?」
「いや、海の方に……なんだあれ?」
なんだ、水平線の先にクラーケンでも現れたか?
なんて思いながら見てみると、確かに何かの影が見えた。
何かっていうか、船だなあれ。
時間的には昼前だけど、漁から戻ってきた船とかだろうか。
それにしても、すごい数だ。
流石、王都となると船の数もすごいんだな。
きっと港も特別デカいんだろう。
交易とかもやってるのかな?
「……おかしいな」
「何が?」
「船がこっちに向かってきてる」
ふむ? それの何がおかしいんだ?
船が港に着こうとするのは当たり前のことだろ?
「王都の港は、もう少し離れたところにあるはずなのに」
……ほう?
それはつまり、どういうことだ?
なんて、俺が思い始めたところのことだった。
「…………えがぁー、おぉるぞぉー」
ざわめきの中に聞こえた、低く響く声。
遠く、遠くから響くような、揃った男性的な声。
「にぃーしのぉー、りぃーくちぃーでー」
耳をすませば、それが海の方から響いていることがわかった。
まるで合唱のように迫力を増していくその声が、どんどんと大きくなっていく。
皆々がそれに気付いたのか、いつの間にかスピーチも中断されていた。
「こーえさぁー、こさぁえるぞぉー」
ぞわり。
背筋が冷えるような感覚がした。
迫力を増すその声のせいで、気付いてしまったのだ。
先ほどまで、水平線の上にいたその船団が、もう波打ち際に迫っていることに。
座礁も辞さないようなの速度で、芝生から少しだけ離れた浜辺に突っ込もうとしていることに。
「にぃーしのぉー、りぃーくにぃーはー」
俺はアーネスに呼びかけようとしたが、自分で自分の声を聞き取れなかった。
海から響く大合唱は、周辺全ての音を飲み込み、俺の声をかき消した。
隣を見ると、口を大きくパクパクさせている子供が目に入る。
しかしながらその声は、俺の元に届かない。
「こーえがぁー、おぉるぞぉー」
周囲から音が消え、歌声だけが残る。
列の中から、いち早く逃げ出した人影が見えた。
俺もすぐさまそれに続くべく、アーネスの手を引く。
アーネスもあっけに取られていたが、俺の後に続いて走る。
「にぃーしのぉー、りぃーくちぃーでー」
俺たちは、海岸に背を向けて走り出した。
人混みをかき分けて走り出した。
逃げ出さなければ、取り返しのつかないことになるという確信があった。
「こーえさぁー、こさぁえるぞぉー」
その考えを肯定するように、後ろから凄まじい衝撃が響いた。
反射的に振り返ると、吹き上がる波と、勢いよく砂浜に乗り上げる船が見えた。
船からは黒い何かが飛び散って、黒い何かは海岸に落ちていた。
「にぃーしのぉー、りぃーくにぃーはー」
なおも響き続ける大合唱に鼓膜を殴られ続けながら、俺は思い出していた。
自分の身に、命の危険が降りかかるあの感覚を。
そうして初めて、今までの後悔が押し寄せてくるあの感覚を。
「こーえがぁー、おぉるぞぉー」
表には出してこなかったが、俺はひそかにそれに備えていた。
楽観で心を癒していく裏で、いずれ迫りくる恐慌に備えていた。
前世の後悔にだって、向き合って見せるつもりでいた。
少なくとも、心の準備は万全だった。
「にぃーしのぉー、りぃーくちぃーでー」
だから、忘れていた。
心構えだけでは、どうにもならないことだって、あるということを。
「こーえさぁー、こさぁえるぞぉー」




