23 涎
薄暗い森の中を走る。
小さな影を追って、草を分けながら進む。
風呂上がりなせいか、息が上がるのが早い。
夜の冷えた空気を吸い込んで、横腹が痛くなってくる。
「はっ……! はっ……!」
なぜ、アーネスが逃げてしまったのかはわからない。
冷静に考えれば、ミナに一声かけてから、追いかけるべきだったのかもしれない。
そうすれば、何かあっても、後からダイアーが駆けつけてくれただろうから。
あるいはいっそのこと、ダイアーを呼び戻してから、一緒に探し始めるべきだったのかもしれない。
でも、追い始めてしまったものは仕方がない。
今更もう、後に引けない。
何となく、今見失ってしまったら、ダメな気がする。
今見失ってしまったら、もう二度、彼とは会えない気がする。
そんな予感に支配されて、息を吸うのも忘れて。
「……!」
突然、視野が狭まった。
酸欠を起こしたのか、その一瞬で膝を折ってしまって、地面に手をついてしまった。
「……アーネス!」
自分を鼓舞するように、彼の名前を叫ぶ。
そのまま視界を前に向けて、気付いた。
しばらく向こうの、低木の傍。
赤い髪の人影が、座り込んでいる。
アーネスが、胸を抑えてうずくまっている。
「はぁ……はぁ……アーネス……?」
ずっと走っていたから、息を切らしたのか?
いや、それにしては様子が変だ。
肩で息をしているというよりは、全身を震わせている。
どこか痛むのだろうか?
だとしたら、俺がなんとかしないと……
「近寄るな!」
「えっ?」
アーネスが、そう叫びながら、地面に伏せる。
近寄るなとは言うが、そんな姿を見せられて放っておけるわけがない。
「教えて、どこが苦しいの?」
傍に座り込んで、様子を伺う。
アーネスは顔を見せてくれない。
本当にどうしたんだ?
つらいところがあるなら教えてくれないと……
「いいから……離れろ!」
「うわっ!」
せめて背中を擦ろうとしたら、強く跳ね除けられた。
肩を押されて、体勢を崩して、尻餅をついてしまう。
痛いな……本当に一体どうしたって……
「えっ?」
目を開けると、俺の前に、影が覆いかぶさっている。
腰を動かせない。
まるで、押し倒されたようになっている。
「アー……ネス……?」
背後に満月。
月明かりが逆光になって、シルエットが浮かび上がっている。
アーネスに、馬乗りになられている。
両肩の上に、腕を立てられている。
「え、え、アーネス? どうした?」
アーネスの顔が近づいてくる。
なんだこの状況?
俺、アーネスに、なんで押し倒されてるんだ?
しかもなんか、息荒くないか?
え、それはおかしくないか?
だって、え? お前、まだ……子供だろ?
「冷たっ!?」
頬に何かが滴り落ちてきた?
汗か? それとも涙か?
だとしたら何で泣いてる?
「アーネス……?」
少しすると、目が慣れてきた。
アーネスの目は充血しているが、潤んではいない。
だとしたらこれはなんだ? 一体どこから滴った?
答えを求めるために、察するために、視界に映る彼を見回していたら
彼のその、赤い目と一緒に、八重歯がキラリと……光った気がした。
あ、ひょっとして、これ、よだれか?
「ガアッ!」
「やめろ!」
間一髪のところで、アーネスの首元に右腕をねじ込む。
そのまま手首を左手で抑えて、迫るアーネスの顔を押し返す。
押し返したところで、ガチンという音か響いた。
よだれが散って顔に飛び散る。
こいつ今、俺の首筋に噛みつこうとしたな!?
「アーネス! 落ち着け!」
「ガアアアアッ!?」
「アーネス!」
ダメだ……完全に正気じゃない!
単純な力じゃ勝てない……次が来る前に、何とかしないと……!
どうする……? どうする……!?
そうだ! あれを使えば……!
「まどろみ纏い沈んで眠れ……!」
「ガアアッ!」
歌を紡ぎながら、右ひじを入れる。
手首を引いて、噛みつきを耳元に逸らす。
叫び声が左耳に響くが、声は上げない。
今中断したら、チャンスはもうない……!
「ガアッ! ガアアッ!!」
「続けて……綴る……筆、渡せ!」
耳元で獣のような声が上がり続ける。
その度に自分の声を途切れさせてしまいそうになる。
「ガアアアア!」
でも、ここまで来たら、あとは言い切るだけだ……
リーラント! 力を貸してくれ!
「春昼落とし!」
「ガッ……」
こちらを睨んでいた目の焦点がぶれていく。
馬乗りになっていた腰から、身体が傾いていく。
「うおっと!」
覆いかぶさられる前に、アーネスの上半身を受け止める。
抱きしめる体勢になってみると、彼の全身から、力が抜けているのがわかった。
「はぁ……眠った……よな……?」
春昼落とし。
かつてリーラントに使われ、その後、教わった妖精歌。
手を触れた相手を眠らせる。
ただそれだけの、シンプルな歌。
「はぁ……はぁ……ありがとう……リーラント……」
夏だから顔は出せないと言っていたけど、季節外れでもちゃんと守ってくれたようだ。
ありがとう我が先生。
ありがとう、リーラントと引き合わせくれたダイアー。
ありがとう……ありがとう?
ああ、だめだ、疲れて思考が変になってる。
「でも……問題は……これ、どうするかだよなぁ……」
アーネスの寝息を全身で感じながら、そんなことを思う。
ああ、ダメだ。
疲れて頭が回らない。
声を上げ過ぎた……
「どうするか……わかんねぇ……」
ただでさえ風呂上がりで……
ただでさえ全速力で走って……
ただでさえ、息を切らせたあとだっていうのに……
夏の夜の涼しさと、疲れと……重さで……心地良い……?
「ああ……どうしよ……」
このままだとダメだ……
早く……なにか……おもいつかないと……
「……つかれた……」
だめだ、ねたらだめだ
ねたら、みなに、せつめいが……
「でも……ねむ……」
……すぅ……じゃなくて……
あぁ……




