敗戦国の姫君は王宮を知らない
昔々、というほど遠くはない時代。この広大な大地の南西部に、「光の花」と称された国があった。その名も、アルビナ王国。
安定した治世の中で歴史を積み重ね、高度な技術と文化を誇っていたアルビナは、近隣諸国にとって憧れの地であった。
しかしその花は、大陸北東部から攻め入ってきたヴァレンティン帝国に呆気なく散らされた。圧倒的な帝国軍の戦力に、長年平穏を享受していた王国は容易く蹂躙されたのだ。
かろうじて命を拾ったアルビナ国王は友好国に逃げ込んで再起をはかった――煌びやかな宮殿にたくさんの女性たちを残して。
アルビナの都を制圧したヴァレンティン帝国軍は、宮殿に立てこもっていた女性たちを一人残らず捕らえ、戦利品として自分たちの国へと連行した。
これらはすべて、王女シルヴィアが生まれた年に起きた出来事だ。
ヴァレンティン帝国の宮殿の隣に、チェロ宮と呼ばれる建物がある。ただし、「宮」とはついているものの、実際は宮殿とは隔絶された存在だ。
ここでは、アルビナの王侯貴族の妻や愛妾だった女性たちが暮らしている。来る日も来る日も、帝国の男性たちを相手にしながら。少し特殊な娼館といえるだろう。
帝国は圧倒的な軍事力で、いくつもの国を隷属させた。この帝都は大陸の主としてふさわしい威厳と華麗さを誇る地である、とだけチェロ宮に足を運ぶ男性たちから聞かされている。
(もしかしたら、他にも同じような場所があるのかもしれない)
シルヴィアはそう推測していたが、物心ついてから一歩も外に出たことのないので、真実はわからなかった。
彼女は、アルビナ国王の十一番目の王女として生を受けた。母親はアルビナの有力貴族の娘で、その容姿と聡明さから王に深く愛された側室だった。
そんな彼女は、帝国軍がアルビナの都に攻め入ったとき、自分や娘の未来を悟って自害した。だが、アルビナの後宮で一番の賢女にも大きな誤りがあった。急いた彼女は、娘の腹を刺しただけで、その死をきちんと確認しないまま、自分の胸を剣で貫いてしまったのだ。
年齢に関係なく女性は全員連行せよ――ヴァレンティンの皇帝の命を愚直に守った帝国軍は、わざわざ傷を負った赤子の手当てをして、この地まで運んできた。
「馬鹿馬鹿しい……」
シルヴィアは服の上から、腹に残った傷跡を撫でた。
(わざわざ助けなくてもよかったのに)
アルビナ王国から連行された女性は約三百名。王族の妻妾だけでなく、女官や避難してきた貴族女性たちも含めた数だ。しかし、シルヴィアの母のように自害したり、病気で死んだりして、ヴァレンティン帝国に到着したころには半分以下の数になっていた。
そのうちの数割は、ヴァレンティン帝国の臣下たちへ、妻や妾として分配された。特に身分の高い美女は皆で「共有」することにして、このチェロ宮ができたのだった。
とはいえ、ヴァレンティン帝国の城は豪壮で、そこにもたくさんの女性がいることはシルヴィアもよくわかっていた。
(ここは、アルビナの高貴な女性たちに屈辱感を味わわせるための場所だわ)
彼女が窓越しに見える宮殿の屋根を睨みつけたそのとき――。
「シルヴィア、何をしているの!」
突然の怒鳴り声に、シルヴィアの肩が跳ねる。振り向くと、チェロ宮の中心的存在であるミランダが、険しい顔で立っていた。
「怠けていないで、さっさと掃除をなさい」
「申し訳ございません。ただちに」
シルヴィアは即座に跪いて、顔を伏せた。
生まれは王女だったとしても、ここでは何も意味をなさない。シルヴィアは娼婦見習いの一人でしかなかった。
祖国での身分の高低は、このチェロ宮でもさほど変わらない。女性たちを束ねているのは、王族の妃や娘たちだ。ミランダはアルビナ国王の妹であり、シルヴィアの叔母にあたる。
ただし、母の自害が影響して、シルヴィアは冷遇されている。ミランダとその側近にとっては、王の復権を信じずに死を選んだのは大きな裏切りだったのだ。
また、ここでの生活に耐えきれず、自ら命を絶つ女性は少なくない。彼女たちの近親者も総じて扱いが悪かった。
ヴァレンティン帝国の男性たちの人気を集めた女性は、祖国での身分よりも上の扱いを受けることもある。そうした人々も、ミランダにとっては裏切り者だった。
シルヴィアは幼いころから、この叔母を不思議な存在だと思っていた。
チェロ宮に閉じ込められてもう十五年。赤子だったシルヴィアも、そろそろ見習いを卒業するかどうかの話が出るほどの時が経っている。
だが、彼女やその周りは、いつか祖国が自分たちを救い出してくれると信じつづけている。そのために、毎晩のように続く屈辱に耐え忍ぶのだ。
生き延びたはずのアルビナ国王の消息は、近ごろまったく流れてこなくなった。五年前、大きな戦争が起きたときに討ち取られたと噂が出ている。
もちろんミランダたちは信じていないが、シルヴィアはもう諦めている。彼女にとっては、顔も覚えていない父親であり、自分たちを助けにこない無力な人物にしか過ぎなかった。
(私もそのうち、帝国の男性たちに侍るようになるのだろう)
祖国の記憶がまったくないのはむしろ幸せかもしれない――シルヴィアは目を伏せる。
麗しのアルビナ王国、光の花……そう呼ばれた美しい土地を恋しく思わずにいられるのだから。
けれども、シルヴィアはこの豪奢な檻の中で朽ちるつもりなどなかった。
チェロ宮にやってくる男性たちが漏らす話を統合すると、領土を広げすぎた帝国は崩壊の兆しを見せているようだ。
もう少し待っていれば、逃げる隙が生まれるかもしれない。そんな期待が彼女の中にあった。
(生まれは王女でも、人生のほとんどをチェロ宮の雑用に費やしてきた。今以上に過酷な状況になっても構わない、逃げおおせてみせる)
密かな決意を宿しながら、彼女は見習いの仕事に戻った。
日没間近、表の門が開かれたら宴の始まりだ。
灯りがともったチェロ宮は、宵闇に美しく浮かび上がる。中で飼われている女性たちの悲しみが深ければ深いほど輝いて見える、とシルヴィアは思っていた。
着飾った女性たちは、大広間に集まって客を待つ。そして、その夜を楽しむ相手として選ばれた者から個室へと消えていくのだ。
ここを訪れる男性の多くは、従者を連れている。そうした人々の応対も、見習いの仕事のひとつだ。
「やあ、シルヴィア。今日もかわいいね」
そんな軽い挨拶を聞き流しながら、シルヴィアは無意識に特定の一人を探した。
(……いた)
「こんばんは、マッテオさま」
声をかけると、重たげな灰色の瞳がゆっくりと細められる。
「シルヴィアか。今夜もご苦労なことだ」
感情を抑えた、それでいてどこか痛ましげな声だ。シルヴィアからすると、少し新鮮な反応だった。
ここに来る男性の表情は、おおむね三種類。浮かれているか、侮蔑的か、気まずそうにしているか。従者は居心地悪いそうにしている者が多いものの、彼のように心底気の毒そうな態度を見せる人物は少ない。
マッテオは、最近ある高官に仕えるようになった男性だ。属国出身者らしいが、訛りがなくて綺麗なヴァレンティン語を話す。佇まいにも言動にも隙がない。
彼は自分のことをあまり話さないが、シルヴィアにとっては他の人とは何かが違うように思えてならなかった。
彼は若い。どれだけ多く見積もっても二十代前半、とシルヴィアは見当をつけていた。その年齢かつ属国出身者でありながら高官のお気に入りになっているのだから、かなり優秀なのだろう、とも。
「皆さまのお話相手になるのも、見習いの仕事のうちですから」
マッテオは周囲を見渡す。シルヴィアと同じように、雑用と客あしらいをこなしている見習いは何人かいる。
「確か、連行されてきた女性の中では君が最年少だったというが……」
その視線は、シルヴィアよりも年下の少女たちに向いている。そういえば、とシルヴィアは記憶を探る。最初に来たときも、マッテオは今と同じように彼女たちを気にしていた。
「ああ、話していませんでしたか? ここで生まれた子たちですよ」
こういう場所であれば、当然身ごもる女性も出てくる。帝国は、男が生まれたら王宮の下働きに、女が生まれたらそのままチェロ宮で育てるように命じた。結果、シルヴィアより幼い女児たちも見習いとして働いているのだ。
シルヴィアから説明を聞いた途端、マッテオの顔はあからさまに歪んだ。
「アルビナを知らぬままの……半分は帝国の血が入っている子たちが、アルビナの女性としてチェロ宮で過ごすのか」
「そのうち、そういう子のほうが主流になるのでは? 私もアルビナの記憶などありませんし」
「君は、アルビナがどんな土地か想像したことはあるか?」
シルヴィアは少し考えた後に、首を横に振った。
「想像したところで何にもなりません。まあ、上の世代の方々があれほど恋しがっているのですから、素晴らしい土地なんでしょうね」
そう答えると、マッテオは力のない笑みをこぼす。
「他人事のように言うな」
「物心ついたときには既にここにおりましたから。私はチェロ宮しか知りません」
「アルビナの話を聞きたいと思ったことは?」
「ございません。私が願わなくても、誰かが常に思い出話を語っていますから」
そのとき、呼び出しの鈴が鳴った。それは、個室で過ごしていた男性が帰る合図だ。
「それでは失礼いたします」
シルヴィアが一礼して去ろうとしたとき、マッテオは彼女の手を掴む。
「君はずっとここにいるつもりか?」
(いいえ、とここで答えても仕方ない)
「申し訳ございません、仕事がありますので」
シルヴィアは、まだ何か言いたそうにしていたマッテオを無視してその場を離れた。
その後、マッテオはチェロ宮に来なくなり、彼の主人は別の従者を連れてくるようになった。
シルヴィアが彼の後任から話を聞いたところ、マッテオはさらに地位の高い人物に気に入られ、今は何らかの役職を与えられているという。
マッテオの後任者は、下卑た笑みを浮かべる類の男だった。積極的に関わりたいとは思えず、シルヴィアはそれ以上尋ねないことにした。
――君はずっとここにいるつもりか?
マッテオの言葉が、彼女の胸の中をぐるぐると回っている。
(……不思議な人だった)
けれど、きっともう会うことはないだろう。もしも客としてここに出入りできる立場になっても決して彼は訪ねてこない。シルヴィアはそう確信していた。
寂しい気持ちがまったくないと言えば、嘘になる。しかし、そのうち忘れるだろう、と彼女は自分を納得させた。
(どうせ、私もいずれ見習いではなくなる)
もし念願が叶ってチェロ宮から逃げられたとしても、わざわざ彼のもとに立ち寄る余裕はないだろう。
「シルヴィア、ぼんやりしている暇があるなら他の子を手伝いなさい!」
ミランダが苛立った声を出す。
「申し訳ございません、ただいま――」
そのとき、轟音とともに建物が揺れた。
「何……?」
広間や廊下で待機していた従者の男性たちが、一斉に警戒の表情を作る。個室から服を整えながら出てくる貴族もいた。
「おい、宮殿が燃えているぞ!」
悲鳴のような声があがり、人々は揃って庭に出る。シルヴィアも、誘われるように続いた。
「……!」
普段は嫌味なほど美しい宮殿が黒煙に包まれている。身支度を整えた男性たちが、競うように表門へと向かっていった。
(この騒ぎなら……)
シルヴィアはミランダたちの目を盗んで、物置に向かう。ここには、男性に貸し出す外套や着替えがいくつかあった。シルヴィアは急いでそれらを着こむ。
『ようやく帝国が滅びるのよ! 十五年前とは逆の立場になったわね、いい気味だわ』
廊下に出ると、ミランダたちがアルビナ語で喜び合っていた。
(ミランダさまたちの十五年の忍耐が、ようやく報われるのね)
その歓喜に混ざれない自分に苦笑しながら、彼女は裏門へと向かった。
普段は何人もの門番がいるにもかかわらず、今は一人もいない。
(さすがに迂闊すぎるのでは?)
そう思いつつ、門に近づいたところでシルヴィアは足を止める。
門の外に、見たことのない装備の軍勢がいた。その足元には、見慣れた門番たちが転がっている。
とっさにシルヴィアは陰に隠れようとしたが――。
「シルヴィア」
正しく名を呼ばれて、息が止まりそうになる。
集団の中から誰かがこちらに歩み寄ってきた。炎に照らされたその姿は――。
「マッテオさま……」
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
彼は門を開けながら、後ろの軍勢に声をかける。
『お前たちはミランダさまたちを』
『はっ!』
敬礼をした兵士たちが、シルヴィアたちの横を駆け抜けて、チェロ宮の中へと入っていく。
一拍遅れて、シルヴィアは彼がアルビナ語で指示を出したことに気づく。
「アルビナのお方だったのですか?」
シルヴィアも当然アルビナ語を解するが、彼女にとってはヴァレンティン語のほうが母語と言えた。そのため、ついヴァレンティン語で話しかけてしまう。
そんなアルビナの王女を、マッテオは悲しみを帯びた目で見つめる。
「ああ。帝国には偽りの出自を告げていたが……」
一人残った彼は、シルヴィアの頭に手を置いた。
「すぐに救い出してやれなくてすまなかった。機が熟するまで、時間がかかったんだ。チェロ宮の女性たちには申し訳ないことをしてしまった」
マッテオは憂いげな面持ちで、チェロ宮の屋根を見上げる。建物からは女性たちの大きな声が響いてくるけれど、何を言っているのか二人には聞き取れない。
「父は……アルビナ国王は、生きていたのですか?」
「いや」
彼は苦々しく頭を振り、五年前の戦いで命を落とした噂が真実だったことを語る。
「では、この戦いを率いているのは――」
その刹那、再度大きな音が響く。その拍子に地面に倒れ込んだ少女を、マッテオはさっと抱き上げた。
「ここで長話をしている余裕はない。場所を変えよう」
そのまま馬に乗せられたシルヴィアは、彼に後ろから抱きしめられるようにして移動する。
初めて見た外の景色は、黒煙と瓦礫、戦う人々で溢れていた。獰猛な獣の断末魔のように、どこかから大きな悲鳴が聞こえる。
(これが、大陸を手中に収めた帝都の姿……?)
男性たちから聞いた、壮麗な街並みはどこにも存在しなかった。ただ無惨な光景ばかりが広がっていた。
自分の日常がすべて崩れ去るのを感じながら、シルヴィアは意識を失った。
瞬きを繰り返すごとに、シルヴィアの視界は鮮明になっていく。チェロ宮よりもずっと豪華な天井が広がっていた。
「目覚めたか?」
声をかけられ、跳ね上がるように起きる。少し離れた椅子に、マッテオが腰をかけて書類を見つめていた。
「ここは……?」
「帝国の宮殿だ」
ひゅっ、とシルヴィアは息をのむ。
チェロ宮から隣の屋根を見るたびに、どのような場所なのだろうと思いを巡らせていた。同時に、近くにありながらとても遠い場所だとも感じた。
故郷のアルビナの王城ですら記憶にない。ましてや、いくら王の血を引いているとはいえ、敗戦国出身の娼婦見習いがヴァレンティン帝国の玉座を抱える宮殿に足を踏み入れるなど――。
意識がないまま運ばれたせいか、シルヴィアの胸にはなんの感慨も湧かなかった。
見習いとしてチェロ宮の部屋の掃除を行っていたので、ここが急ごしらえで調えられた部屋ではないことはシルヴィアにもよくわかった。しかし、この部屋で過ごしていた人物がどうなったのかを心配する気分にもなれなかった。
「不快かもしれないが、君を野営させるわけにもいかないし、まともな居室がなかった」
「不快ではありません。ただ……一生縁がない場所だと思っていたので」
戸惑いながら、視線を下げる。
皇帝がチェロ宮に来ることはあっても、チェロ宮の女性が宮殿に呼ばれることはなかった。
「まだ都は混乱状態で後処理が残っているが、じきに移動するつもりだ。それまで、ここでおとなしく過ごしてくれ。世話係は何人かつけよう」
「世話係なんて。ずっと見習いとして働いていましたから、自分の世話くらい自分でできます」
マッテオは渋い表情で頭を掻いた。
「貴人は、自分の世話ができないから世話係をつけるのではない。自らの手を用いないことが、高貴な身分の証なのだ」
「私が高貴なのは、血筋だけです。育ちなんてしょせん――」
そのとき、マッテオがいきなり立ち上がった。その表情が怒りをはらんでいるように見えて、シルヴィアは凍りつく。
マッテオは彼女の前まで歩み寄ると、何度か拳を握ったり開いたりを繰り返した。そして、彼の手は最終的にシルヴィアの頭に置かれた。
「チェロ宮での日々を貶めるのは禁じよう。あそこで過ごした女性たちの心情に障る」
「……皆、無事なのですか?」
「あそこにいた人々は。それ以外の女性の行方は、まだ把握しきれていない」
彼女たち全員が、十五年もの間まともな扱いを受けられたか。狭い世界しか知らないシルヴィアでも、そんな希望などないことはよくわかる。ただ黙ることしかできなかった。
重い静寂を壊したのは、扉を叩く音だった。
『殿下、よろしいですか?』
アルビナ語だ。
マッテオは少しためらってから、返事をした。すると、明るい髪色の男性が入ってくる。
彼はシルヴィアを見て、一瞬瞠目するものの、すぐに何も見なかったような素振りで、マッテオに向き直る。
『帝都にいる主要人物はおおむね取り押さえました。また、そろそろ軍議を、という声が複数あがっています』
『わかった。彼女にもう少しだけ説明をしてから、そちらに向かう』
男性は再度シルヴィアへ視線を向けると、一礼して出ていく。
彼の足音が遠ざかってから、シルヴィアはためらいがちに問うた。
「あの、殿下って?」
ヴァレンティン語のほうが達者なシルヴィアでも知っている言葉だ。
マッテオは視線を彷徨わせながら、何か考え込んでいる。わずかな沈黙でも気持ちが逸り、シルヴィアは口を開く。
「あなたは、いったい……」
観念したように、マッテオはやわらかな吐息をこぼした。
「君の遠縁、かな。元の王位継承の順位は低かったし、潜入当初はまだ他にも候補はいたのだが……上の人々は皆命を落としてしまって。今は、俺がアルビナの王位継承者第一位となっている。まだ正式に即位していないから、王とは言えないが」
マッテオは懐かしむようにシルヴィアを見つめる。
「先代……君の父上には、とても可愛がっていただいた。君の母上にも良くしてもらった」
優しい声音で歌うように語られても、シルヴィアには彼らの記憶が一切ない。どう反応したらいいのかわからずに戸惑うばかりだった。
マッテオの視線が両親の面影を探すように動くのも、なんだかそわそわしてしまう。
「君が生まれたときのことを、よく覚えている。あのときは王宮全体が、幸せな光に満ち溢れていた」
「そんな話をされても困ります。私には、チェロ宮の記憶しかございません」
アルビナの王宮がどれほど素晴らしかったか、ミランダたちがよく語っていたから知識として持っている。けれども、それが自分の生まれた場所だという実感は、一度も湧かなかった。
「ところで、わざわざ男装をして裏門にいたということは、外へ逃げるつもりがあったんだな?」
マッテオに問われ、シルヴィアは迷いながらも首肯する。
「思ったよりも早まりましたが、いずれあそこを去るつもりでいました」
「アルビナに帰りたいと思わないか?」
「思いません。私にとって、チェロ宮以外の場所はどこも同じです」
チェロ宮を出て、具体的に行きたい場所などなかった。ただ、あの悲哀に満ちた監獄から自由になりたかっただけだ。
「お忙しいようですし、私なんかに構っている暇はないでしょう。希望を捨てず、十五年の屈辱に耐えた方々を優先してください」
「もちろん、彼女たちの待遇は考えている。今は手厚く介抱しているから案ずるに及ばない。ただ、君は俺の中で最も優先すべき存在なんだ」
シルヴィアは首を傾げる。確かに、彼がチェロ宮に来たときは一番言葉を交わしていたとはいえ、どうしてそこまでこだわりを持つのか理解できなかった。
すると、マッテオは逡巡の末に口を開く。
「君が、とても危険な存在だからだ」
心当たりがなく、シルヴィアは目を丸くする。
「もう、君くらいしか先代の実子は残っていない。君の夫となれば、俺よりも正統な後継者になれると考える輩は多いんだ。それを防ぐために、君を保護する必要がある」
(言われてみれば、そうね)
チェロ宮に連れてこられた王女は他にもいたものの、長い旅と過酷な環境で皆、命を落としてしまっていた。もともと重傷を負っていて、手厚い世話を受けていたシルヴィアだけが生き残ったのは皮肉な話である。
王の実子に限らなければ、ミランダをはじめ王族の女性は他にもいる。けれども、自分が最も利用しやすく思われるのは当然だと、シルヴィアは視線を下げた。
「私がマッテオさまの妻になる可能性もありますか?」
マッテオは一瞬無言になり、眉間に深いしわを作る。
「ないと言えば嘘になる。だが、君はまだ十五歳で、閉ざされた環境で育ったうえに何も感情を持っていない。俺としては、結婚で縛られる前に外の世界を知ってほしい」
「外の世界――」
「ああ。そのために必要なものは、俺が与える。物も知識も環境も、全部」
急かされるように、また扉が叩かれる。マッテオは頭を振ると、しかたなく外へと向かう。
「待ってください……!」
とっさにシルヴィアは彼を引き留めてしまう。
「どうした?」
今すぐ知りたいことがたくさんある。けれども時間がないのはシルヴィアにもわかっていて、とっさに浮かんだのは――。
「この宮殿に潜入していたのなら、マッテオさまという名は偽りなのでしょうか?」
問われたマッテオの頬がかすかに綻んだ。
「ああ。本当は、ライムンドという。今度からはそう呼んでくれ」
ライムンドが部屋を出ると、腹心の部下であるプラシドが明るい金髪を掻き上げた。
『……お母上によく似ていますね』
『そうだな、最初会ったときは驚いた』
『自分が婚約者であったことは、打ち明けたのですか?』
『まさか。混乱するだけだろう』
二人の婚約は、シルヴィアが生まれたときに定められたものだった。そのときはライムンドも幼かったし、帝国の侵攻で事実上消滅した関係だ。
ただ、敬愛する二人の間に生まれた女児のことは、いつも心のどこかに引っかかっていた。
『まあ、あなたの妻になるにしろ、別の相手と婚姻を結ぶにしろ、揉めるのは確定ですね』
軍議を行う広間へ向かいながら、プラシドはため息を吐く。
現在、アルビナの軍勢はライムンドが掌握している。王位継承の上でも第一位だが、シルヴィアを妃にすれば、彼の地位はさらに強固なものとなる。
しかし、シルヴィアはアルビナを滅亡に追い込んだ王の子。アルビナ軍の中には、都を放棄して逃げ回った末に討ち取られた彼を恨む者もいる。
また、プラシドは任務の一環で、チェロ宮に囚われていた女性たちからの証言を集めている。シルヴィアは、母親の自害が響いて孤立しており、周囲とあまり友好的な関係を築けていなかったのも把握している。
そして何より、シルヴィアはチェロ宮で育った十五歳。潔癖な者たちは、その来歴やまだ若い年齢に抵抗があった。
かといって、他に彼女を任せられる男性はなかなかいない。ライムンドがシルヴィアに説明したとおり、彼の脅威になりかねないからだ。
『本当に、悩ましい存在ですね。ひとまず、あなたが彼女の後見人になる、という方向でよろしいでしょうか?』
『ああ。できれば、数年は穏やかに過ごしてもらいたい。教師もつけてやりたいし、いろいろな場所へ連れて行ってやりたい』
『そこまでしたら、周囲が誤解しますよ』
部下の言葉に、ライムンドは顔をしかめる。
『何も知らないままなんだ、彼女は。身体以上に、心が育っていない。自由になりたいという思いだけを抱えていても、どこへ行きたいかもわからないようだった』
『ずっと閉じ込められていればそうなりますね。籠の中しか知らない鳥が大空に怯えても、誰も責められません』
『アルビナを知らないし、知ろうと思う気持ちもなかったようだが……せめて一度くらい、祖国というものを見せてやりたい』
かつて、「光の花」と呼ばれた王国。悲しい戦の爪痕はまだ残っているが、美しい景色は徐々に取り戻しつつある。
『彼女にはたくさんの知識を得てから未来を選んでほしいんだ』
ちょうど広間につく。ライムンドは兵士に目配せをして、扉を開けさせた。
事前に綿密な計画を立てていたものの、問題は山積みだった。特に戦後処理については紛糾した。
ライムンドは危険をおかして敵の懐に潜り、ヴァレンティン皇帝を討ち取った最大の功労者だった。ゆえに、彼を新たな皇帝に推す声もある。
ライムンドは、協力してくれた他の属国への配慮を理由に、帝位だけは拒んだ。
(アルビナの平和を取り戻せたら、それでよかったのに)
帝国を打ち倒すまでに、さまざまなものを失ってしまった。その隙間に入り込んだのは、重い責任ばかりだった。帝国を崩壊させた者として担うべきものであると理解しつつも、彼は疲れ切っていた。
数時間後、ライムンドは重い身体を引きずって、シルヴィアのもとへ戻ることにした。
部屋に入ると、彼女は窓を開け放して、外の景色を眺めていた。
「マッテオさ――いえ、ライムンドさま。お帰りなさいませ」
「景色を眺めていたのか……?」
「はい。チェロ宮は塀が高いでしょう? 朝日も夕日も見られなかったのでとても新鮮です」
じきに、新しい夜が始まろうとしている。沈みかけた太陽の赤を、シルヴィアは高揚した眼差しで見つめていた。
「チェロ宮は、こうして見ると意外と小さかったのですね」
窓からは、少しだけあの建物が見えてしまう。この部屋くらいしか用意できなかったとはいえ、できれば彼女の視界にあれを入れたくなかったライムンドは唇を噛みしめる。
「俺はここに潜入している間、アルビナの朝日と夕日が恋しかった」
シルヴィアの横に並び立ちながら、ライムンドは帝都の痛ましい骸を眺める。
「アルビナの都では、朝日は緩やかな山の稜線から昇る。夕日は、海の彼方――水平線へと沈む」
「海、ですか?」
シルヴィアはつい、その言葉に反応して顔を跳ね上げる。
ミランダたちがよく語っていたものだ。誰かが客に頼んで手に入れた風景画で、なんとなくどんなところか知っている。しかし、水面がどのように煌めくのか、波がどのように寄せて返すのか、想像しきれないでいた。
そんな話を聞いたライムンドの胸に、切なさが生まれる。
「やはり、一緒に来てくれないか?」
「え?」
「君にアルビナの記憶がなくてもいい。アルビナの王宮だけでなく、海や花畑、のどかな郊外……君にいろいろな景色を見せたい」
「いろいろな景色……」
シルヴィアは目の前の光景を改めて見渡す。かなり高いところから眺めているのに、帝都は広大すぎる。シルヴィアの足でどこまで行けるか、まったくわからない。
「もし、君がアルビナで数年過ごしても未知なる世界への好奇心が捨てられないなら、最大限の便宜をはかろう」
シルヴィアは眉をひそめる。
(私を手元に置いておいたほうが都合いいはずなのに)
けれどもシルヴィアは、自らの足で行ける範囲の世界に満足できそうにない自分の心を自覚する。
(彼と一緒なら、一人でいるよりもっと遠くへ行ける)
何も感情がない、とライムンドは彼女を評した。そのとおりだ、とシルヴィア自身思う。
喜びも悲しみも怒りも、誰かを思いやる心も、シルヴィアにはない。持っているのは、外の世界への好奇心だけだった。
「恩を仇で返してしまうかもしれません。それでも、連れて行ってくれるのですか?」
「もちろん」
どうしてここまで優しくしてもらえるのか、シルヴィアにはわからなかった。けれども、一瞬の迷いもなく頷いてくれた彼に、自分の未来を預けてみたくなった。
「では……お願いします。連れて行ってください」
ライムンドは一瞬息をのむと、嬉しさに頬を綻ばせた。
シルヴィアは初めて、心の底から「綺麗だ」と思える存在に出会った気がした。