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ヘテロスタシス

作者: 波香

 やってきた電車は既に多くの人が乗っていた。

 前の人に続いて自分も乗り込む。急ぐ予定がある訳でもなし、一本遅い電車に乗っても別に構わないのだが、それはなんとなく癪に障る。プライドや虚栄心といったくだらない感情だ。


 老若男女を乗せて、車両は走っていく。


 家の最寄りまでは数駅ある。時間を有効活用しようと、右手に持っていた英語の単語帳を開いた。ページの角が人に当たらないよう気を付ける。

 単語テストまではまだ日があるけれど、英語の授業の前の休み時間に慌てて単語を頭に入れるクラスメイトのようにはなりたくないのだ。頭が悪そうな行いなんてしたくないに限るだろう。

 そう、例えば、目の前の座席で、イヤホンを耳に差し込みながらひたすらスマホをいじっている女子高校生のような行いなんて。


 代り映えのしない紺のスカートと紺のブレザー、そしてポリエステル生地のネクタイ。この制服は海沿いにある高校のものだっただろう。中学の同級生がネクタイを自慢そうに見せつけてきたから覚えている。安物に、何をそんなに喜ぶんだろうと思ったことも。

 太腿の半分は見える程短いスカート。馬鹿らしい。俺がなりたくないのは、まさにこういう奴だ。そもそも、満員電車の中で自分の世界に没頭できるその神経が分からない。周りに多くの人がいたら、思わず気を遣ってしまうのが人間ではないのか。それなのにどうして、一切を顧みず、スマートフォンのみに集中できるのだ。


 ふと、女子高生が顔を上げた。

 目が合う。


 勿論恋が始まる訳ではないが、彼女は何を思ったのか慌ててスクールバッグを手に持ち、座席から立ち上がった。

 そして、口を開いた。

「すみません、この席よかったらどうぞ!」

「え?」と思ってその女子高生を二度見すると、彼女は俺に話しかけている訳ではなかった。

 俺の横に、話しかけていたのだ。

「あらあ……ありがとうございますね」

 俺の隣にいた老婆はそう言って、女子高生に頭を下げ、席に着く。


 少し、ショックだった。

 俺は正直、全く老婆の存在に気が付いていなかった。眼中になかったのだ。

 もしも視界に入っていたなら、どんなことができただろう。持っている荷物を代わりに持つことぐらいできただろうか。

 ――そこまで考えて、俺は思う。

 無理だ。

 俺には、大勢の人がいる中で誰か見知らぬ一個人に話しかけることなんて到底できっこない。言葉が喉まで来たところで、きっと怖気ついてしまう。自分が正しいことをしていると分かっていても、他人と違うことをすることへの恐怖が、俺の身には染みついてあった。日本人らしいあれだ。

 そうすると、なんだかさっきまで見下していたこの女子高生が素晴らしい人物かのように思えてきた。馬鹿にしていた自分こそが馬鹿らしい。確かに座っていた時の行動は尊敬できるものではなかったけれど、老婆に話しかけるその行為は尊敬に値する。見習っていきたいと、強く思った。


 列車の速度が緩やかになる。そして、やがて俺の最寄り駅へ停車した。

 人の圧をかき分けながらドアを抜けると、先ほどの女子高生も俺の後ろから降車しようとているのに気付いた。

 この駅に路線は一本しか通っていないから、きっと近辺に住んでいるのだろう。初めて見る顔だが、地元にも大した人がいるものだなと思う。中学のクラスメイトも彼女のようになってくれればよいものだけれど。と、そんなことを思いつつ改札へ向かう。

 三十六分発のバスまで、あと四分しかない。早歩きで行けば間に合うだろうか。

 電車の発車ベルが響いて、その時だった。

「あの!」

 背後から聞いたばかりの声がした。

 振り返れば、想像通りのさっきの女子高生。どうやら俺に声をかけたようだった。

 一体何の用だ? 

「さっきはありがとうございます」

「……?」

 発言の意図が良く分からない。

「私がおばあちゃんに席を譲らないから、私のことをずっと見てたんですよね? 貴方がいなければずっと気付かないところでした。ありがとうございます」

 彼女はそう捲し立てて、俺に頭を下げた。

 罪悪感が俺を襲う。

 やめてくれ、俺はそんなこと、微塵も考えていなかった。俺は、貴方を見下していたのだ。感謝をされるような人間じゃない。

 やめてくれ。

「……ああ、いえ」

 けれども口から出たのはそんな曖昧な言葉で、自分が嫌になる。


 しかし彼女はその言葉に満足したようで、もう一度お辞儀をするとホームへ戻っていった。さっき電車が出発したばかりのホーム。彼女の最寄りはここではなかったらしい。次の電車が来るのは七分後だ。


 呆けたように体が動かない。

 変わりたいと、ただ、そう思った。このままではいけない。

 彼女のような、悪く言えば向こう見ずな行動がしたい訳じゃないし、おそらく俺は彼女のようにはなれないけれど、自分が情けなくて悔しくて、どうにかしたいと思ったのだ。

 遠くでバスのエンジン音が聞こえる。

 心臓の鼓動が、肌を揺らす。

 このままではいけない。このままで、いたくない。

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