13.かつての婚約者は、今もなお
リゼル王子専属侍女としての仕事に慣れてきた頃、それは起きた。
朝はリゼル様のスケジュールを確認。必要な支度の準備は筆頭の専属侍女の方が揃えて下さるため、私はそのサポートを。
支度を終えた後、リゼル様は昼食だけではなく、朝食もご一緒することになった。
あまりの待遇に初めは萎縮してしまったのだけれど、相変わらずの「駄目かな?」というあざと……もとい、人を惹きつける御顔でお願いされたら、誰も断れるはずがない。
他の侍女の方にも生暖かく見守られながら、朝食をご馳走になる。
それから王子は昼まで自室を離れられる。少しずつ任されていらっしゃる王の仕事を王の代理として行われているらしい。
そう。リゼル様は既に王政に関わられていた。
ローズマリーの記憶では、王位ある者が退位するまで、やむを得ない事情がない限り代理で行うことなどなかった。ましてやグレイ王は健在。
それなのに王政を代理で任されるということに、誰もが暗黙に事態を理解していた。
昼食の時間になると、リゼル様は戻ってこられる。そうして私と出来る限り昼食の時間を作ってくださった。
「マリーとの食事の時間だけが楽しみで、最近は仕事も早く終わらせるようになったんだよ」
そう仰るリゼル様に私は謙遜したのだけれど、少し離れた場所から常に護衛されている騎士の方が深く深く頷いていた。どうやら事実らしい。
「リゼル様は働きすぎですよ。食事時間以外にも休憩をとらないと」
休日知らずに働くリゼル様の体を心配して、ついそう言ってしまった。
「そうだよね……そうだ。ねえ、マリー。君の次の休みはいつ?」
「え……? 確か、四日後ですね」
「四日後か。じゃあ、その日は僕と一緒に出掛けないかい?」
「え、ええ?」
休めとは言ったけれど。
「マリーと休日を過ごせるというなら、僕も休みたいと思えるし、それまでに仕事を終わらせなきゃって、もっと頑張れる気がする」
「これ以上頑張らないでください……」
過労死してしまうのではないか心配です。
「ねえ? マリー、いいかな?」
「………………」
ほらまた。
そうして王妃そっくりな、誰もが陥落してしまうような御顔で私を誘惑してくるのだから。
私は頷くことしかできなかった。
それから休みの日になるまでの間、リゼル様は何がしたいか、何処に行きたいか、色々聞いてきて下さった。
「いつもはマリーをここに閉じ込めてしまって申し訳ないから。せめて少しだけでも気晴らしをしよう」
なんて言われて、嬉しくないわけがない。
ただ、気晴らしといっても人が多い街に行くこともできないため、ディレシアス国から近い池にでも行こうという話になった。
仕事の合間、そうしたリゼル様との会話を思い出して私はつい頬が緩んでしまう。
「いけない……仕事中よ」
頬を軽く叩きつつ、リゼル様の机に置かれた書類を整理する。書かれている内容は難しく、異国の言葉もある。無闇に覗き見ることは失礼ではないかと他の侍女の方に聞いたけれど、彼女達はそこに書かれている内容が難しすぎて理解できないらしい。
確かにそうかも。私にはローズマリーの記憶があるからある程度聴き慣れない単語が書かれていてもある程度分かるようになった。ただ、それでも何となくしか分からないので、せいぜい書類整理に役立つぐらいだった。
「……やっぱり。これもだわ」
整理していた書面に記されている文字を見て、私は思わず呟いた。
最近、この書類の束で気になることがある。
それは、決裁すべき署名欄にグレイ王の名前が記されていることが少ない。
そして、頻繁にレイナルド・ローズの署名を見かけること。
少し前に見かけたレイナルドの事を思い出すと胸が痛む。
ローズマリーは、死ぬ最期まで彼の幸せを願っていた。姉の存在を、過去の悲しみを乗り越え、未来に生きて欲しいと。
生まれ変わり、もう一度弟に出会えた事は嬉しかったけれど、私は姉として彼の前に立つべきではないと分かっていたため、あえて関わりを持ちたいとも思わなかった。
けれど、こうして国の書類に彼の名前を頻繁に見かけると、どうにも不安が押し寄せてくる。
「レイナルド……」
貴方は今、何を考えているの?
ふと、扉が開く音が聞こえた。
リゼル様がお戻りになったのかと思い振り返った私はそのまま体が固まってしまった。
扉の前に立つその人が、かつての婚約者だったグレイ王だからだ。
私は慌てて深く頭を下げた。
(どうしてリゼル様の部屋に……?)
今まで息子であるリゼル様に無関心であったはずの王が、わざわざ出向く理由が分からなかった。
「リゼルはいないか」
背後に護衛と臣下を従えたグレイ王が声を発した。懐かしい声だった。
私は小さく「はい」とだけ答えた。頭は下げたままだ。
「都合が良い。そなたがマリー・エディグマか」
何で?
どうして私の名前を、グレイ王がご存知なの?
「は、はい……」
私は頭を下げたまま返事をする。
「顔を上げろ」
命じられ、私は意を決して顔をあげた。
懐かしい、婚約者だった人。だいぶお年を召したように目元に深い皺と影を持たせている。こんなに表情の暗い方だっただろうか。ローズマリーが知っている頃の彼には、もっと覇気があったような気がするのに。
今は何も感じない。
「マリー・エディグマ。そなたの話は聞いているぞ。男爵の身分でありながら愚かにも王子を誘惑し、手玉にとっていると」
「な……」
何を言っているのだろう。
どうしてまた。
彼の口から、偽られた言葉が紡がれるのだろう。
「いくら婚約者探しとはいえ、身分相応というものがある。男爵の身分如きが真に受けたか分からんが。それとも誰ぞに差し向けられたか?」
「……恐れながら、陛下が仰るような事は一切ございません」
何てことだろう。
どうして私は、ローズマリーの時と同じ言葉を、彼に向けているのだろう。
『グレイ王が仰るような事は、一切ございません!』
『黙れ! お前がティアを殺害しようと目撃した者もいるのだぞ!』
何の事実も確認せず、人の話だけを信じローズマリーを信じなかった方。
今も、何一つ変わられていないのね。
「騙そうとも証拠は上がっている。直ちに国を出ていけば見逃してやらんこともない。即刻立ち去るがよい」
「…………」
私は多分この時。
相当に、怒っていた。
ローズマリーの時だって、今だって。
グレイ様は何一つ、ご自分で真実を見ていないというのに。
こうして私を責め立てる。
「恐れながら」
だからか。
考えるよりも前に口が開いた。
「陛下の言葉に従うつもりはありません」
「…………何だと?」
グレイ王は、信じられないとでもいうように聞き返す。
「何度でも申し上げましょう。私は、リゼル王子の専属侍女です。リゼル様が私に出て行くよう仰らない限り、この場を去る事はございません」
「王に逆らうとは……死にたいのか?」
蔑むような冷たい響きだった。けれど私は少しも怖くなかった。
本当に恐ろしい事は、己の意志を伝えられないことだ。
ローズマリーは何度だって我慢した。王子のためだから、父のためだからと。
けれど、今の私はマリーだ。
もう、婚約者だった彼の言葉に従うつもりはない。
「王たる陛下が、民の命すら無慈悲に思われるのであれば、どの民が陛下についていくというのですか」
ローズマリーの時にも伝えたでしょう?
「王であるから民がついてくるのではありません! 民が信を置く者こそが、王に相応しいのです!」
そう言い放った瞬間、頬に痛みが走った。
衝撃に負けて体が倒れた。
何が起きたか分からなかったけれど、グレイ王を見て分かった。どうやら私は彼に殴られていたらしい。
「そなたの言葉はっ、忌々しい者を思い出させる……!」
怒りに満ちた王の顔に、私は恐怖が生まれた。理性なく男性に殴られたことに体が震えだす。
これ以上暴力を振るわれたら、という恐怖で目を閉じた。
「どういうことですか」
冷たくも怒気を含んだ声が部屋に聞こえた。
そして、ふわりと私を抱き起こしてくださる腕が。
「大丈夫? マリー」
「あ…………」
震える体を優しく撫でながら、リゼル様が私を抱き上げていた。その顔は悲痛に歪み、悔しそうにしていた。
「遅くなってごめん。こんなひどいことを……」
赤くなった頬をそっと、痛まないように押さえた。
そうして鋭い瞳に変えると彼の父を見た。
「マリーに手を出した事、決して許しはしない」
「リゼルよ。父に逆らうというのか?」
リゼル様が皮肉げに微笑んだ。
「貴方が僕にとって、いつ父親らしいことをして下さったというのですか。女性に手を出すような者を、僕は父と思いたくもない。いくら立場が王であるからとて、世間は女性を殴るような王を求めないでしょう。どうします? この場で人を集め、王が暴力を振るう暴君だと公言しましょうか? それが嫌ならさっさと出て行ってください。今は貴方が傍にいるだけで嫌気がする……!」
「…………!」
怒りに顔を染めるグレイ王を無視して、リゼル様はすぐさま従者に声をかけ、医師を呼ぶように指示をされた。
「マリー、マリー……! ごめん、こんなことになるなんて」
「リゼル様……」
「喋らなくていいよ。唇の端が切れている」
言われてみれば、口内に少し血が滲んでいる。リゼル様が取り出したハンカチを頬に当ててくれた。せっかく綺麗なハンカチが汚れてしまうのに、全く気にすることもなく私を心配そうに見つめている。
「…………っ! 気にいらぬ!」
まるで癇癪を起こした子供のように、グレイ王は足早に部屋を出て行った。姿が見えなくなったことで、私はようやく緊張が解けた。
「ごめんね、マリー。今すぐに父から謝罪を言わせることもできない。代わりに僕が何度でも君に謝罪する。本当にごめん……」
「リゼル様は何も悪くありません」
「たとえ君がそう思ってくれていても、僕自身が許せないんだ」
バタバタと駆けつけてきた医師を見ると、リゼル様は私を部屋のソファへと抱き上げたまま移動させ、ゆっくりと下ろした。
「頬を叩かれている。十分に手当てをしてくれ」
「かしこまりました」
医師が冷えたタオルを私に向けてくださる。熱くなった頬に当てると、ピリッとした痛みが走る。
「しばらくの間は腫れるかもしれません。その間は仕事を休み、安静にするべきです」
「分かりました……」
医師の話を聞きながら、私はリゼル様が気になっていた。
私の治療を黙ったまま見つめる顔が、私以上に傷つけられたように痛ましかったから。
慰めてあげたいと思う以上に、自身がそうさせてしまったことが、私に重くのし掛かり。
何一つ言葉を発せない間に、リゼル王子はその場を去っていった。