10.偽りの騎士の決意
遠くから微かに聞こえてくる演奏。
辺りは静けさに包まれる中、風の音と重なって聞こえてくる。
リゼル様が差し出した手を取って、風と共に重なる微かな演奏曲に合わせて私達は踊り出した。
足元は大理石の床ではなく地面。
照明は一切なく空に輝く月と星。
それだけで充分、私はこの舞踏会に満足だった。
リゼル様はとてもリードがうまく、緊張してうまく足が回らない私を流れるように支えてくれる。
「とてもお上手なんですね」
素直な感想を告げると、リゼル様は笑った。
「ありがとう。けれどマリーが上手だから、そう見えるのかもしれない」
「そんなこと……」
「初めてのダンスは誰と?」
「兄です。披露したのも、練習でも」
エディグマでダンスの練習をする者なんて、私や兄のような男爵家だけだった。
私自身、どうせ踊る機会もないからと練習をあまりしてこなかった。それでも人並みに踊れるのは、もしかしたらローズマリーの記憶が残っていたからなのかもしれない。
彼女はダンスがうまかった。裁縫も、語学も、乗馬も、全てにおいて厳しく躾けられていた。
私はエディグマで、そんなに淑女としての教育を教わってこなかったけれど、不思議なことに全て卒なくこなしていた。
(記憶がなくても覚えているのだから不思議……)
今、こうしてリゼル様とちゃんと踊れることに関して、ローズマリーに感謝した。
「リゼル様のファーストダンスは?」
「家庭教師かな。公の場では遠戚の令嬢と踊った気がするけれど覚えてないや。五歳の時だから」
五歳の頃から公の場に出てダンスを披露する。言葉にするのは簡単だけど、相当の努力が必要とされることは痛いほどに分かる。
「それ。身につけてくれたんだね」
リゼル様が私の胸元で光るネックレスを見て、嬉しそうにしている。
「嬉しい。似合ってる」
「ありがとうございます……」
改めて言われると恥ずかしくて正面を見れなかった。
会場で感じていた寂しさは何処へいったのだろうか。フワフワとした気持ちのまま、次の曲に入っても踊り出す。
本来の舞踏会では、恋人以上の立場ではない限り二度目も同じ相手と踊ることはないと、私達は充分なほど理解していた。
それでも、どちらが口にするでもなく、次の曲も踊り出す。
「…………夢みたいだ」
本当に小さな、独り言だったと思う。
リゼル様が喜びのあまり口から溢れてしまった言葉を、私はしっかりと聞いてしまった。
「……私もです」
そして私も、相手に聞こえないぐらい小さな声で言葉を返す。
好きだと思える人といられる時間は夢のように甘く優しかった。
それが刹那の時間であることは承知の上で。だからこそ尊いとさえ思えてしまう。
二曲目の音楽が終盤にさしかかり、そうして最後の和音が音を消す。
踊りは止まり、残るのは風の音だけだった。
手を離そうと思ったけれど、私はそのままリゼル様に抱き締められていた。
「リゼル様……」
「ごめん。本当に嫌だったら、どうか突き飛ばしてほしい」
そんなこと出来るはずがない。
されるがままの状態で、胸の音がうるさい。この音、リゼル様にも聞こえているのではと心配になってしまう。
ただ、私以上にリゼル様の胸元から大きな鼓動が響いていた。
「……この婚約者騒動も、あと少ししたら終わると思う」
「え……?」
どういうことだろう。
私は顔をあげてリゼル様を見たけれど、彼は私の肩に顔を埋めたままだった。
「君には絶対迷惑をかけないようにする。また危険な目になんて合わせない。絶対に」
「リゼル様。どういうことですか?」
先日私を攫おうとした相手が分かったのだろうか。
「僕が君を好きになったから、君はあのような危険な目に遭ってしまった。それだけで、君が離れても仕方ないぐらいのことだと思う。それどころか、もっと安全になるまでエディグマに戻すべきだとも思っていた」
そんな話は聞いたこともなかった。
「けれど出来なかった。君がもし帰ってしまったら、もう二度と会えないかと思うと怖くて口に出せなかった。臆病で卑怯だろう?」
「そんなことありません!」
たとえ言われたとしても、私は絶対に帰らなかったと思う。
「何も分からないまま、リゼル様に返事をしないまま帰ることなんてありません」
「本当に?」
「ええ。それに帰っても、原因が分からないなら不安なままじゃないですか。だったらちゃんと突き止めておきたいです」
「そうだね……それもあるけれど、僕に返事をしてくれるというのも本当?」
覗き込むようにサファイアの瞳が私を見つめてくる。
そっちか、と思った途端、自分が何を言ってしまったのかようやく理解した。
告白の返事を、返すつもりだと。
「は、はい……ちゃんとお返しします」
本当なら、素直に気持ちを答えたいと思った。たった今自覚したばかりの思いを。
けれど、私にはまだその勇気もなく。更にはその先に考えられる未来を思うと言葉に出来なかった。
皇太子と添い遂げるということは、マリーが王室に携わる人間になるということだ。
それが正妃なのか側室なのか。リゼルの性格から愛人だなんてことはないと思う。けれど、何一つ権力も資金も持たない男爵令嬢と王太子の恋なんて、周囲が黙っている筈もない。
本来ならリゼル様も政略的な婚姻をされるはずだったと思う。かつてローズマリーがそうだったように。
それが思わしく進まなかったために、今回の王宮侍女騒動になっている。いくら婚約者候補として呼ばれたとしても、私は数合わせのためにすぎない。
「マリー。マリー、顔を上げて」
俯きながら考え事をしていた私の頬にリゼル様が触れた。見上げた先の表情は困ったように微笑まれていて、まるで私の考えを読まれていたのではないかと思ってしまった。
「簡単に出せる答えじゃないことは分かってるから。マリーは、マリーが伝えたい時に返事をくれたらいい。僕は、君から答えを貰えるだけで嬉しいんだ。それに、今返事を貰ってしまったら、僕はこれから先の事に支障が出ちゃいそうだから、後の方が嬉しいかもしれない」
「先の事、とは……?」
少し間を置いてリゼル様は口を開いた。
「君には誠実でありたいから話すよ。僕は父の退位に向けて動く。父と、父や母の周囲に蔓延る悪政を是正して王になるつもりだ」
「……………」
私は、声を口に出すことも出来なかった。
その内容は、私が聞くにはあまりにも大きな事だった。
「本当はもっと穏便に、時間を掛けて進めたかったんだけどそうもいかないみたい。もし、事が落ち着いたら返事を聞かせて貰えないかな。その時まで返事は心に仕舞っておいてくれる?」
「は、はい……」
「ありがとう、マリー」
額に軽く口付けをされた。
驚いて額に手を当てる。
「ごめん。調子に乗っちゃったね」
愛嬌ある笑顔で謝られた。確信犯だ。
「しばらくここに来ることも出来ないかもしれない。悪いけれど、安全のためにも君には護衛を付けさせてもらうね」
会えないと分かると、急に寂しい気持ちになってしまう。リゼル様が大事な時だと分かっているというのに。己の欲深さが嫌になる。
と、思っていたのだけれど。
「…………やっぱ無理。会えないのは辛い。マリー、もし良ければ僕の侍女になるのはどう? 王宮侍女から専属侍女とか」
突然の提案だった。
「よろしいのですか?」
「よろしいも何も、僕がお願いしたいんだ。傍にいると安心できるし、僕の士気がすごく上がる」
専属侍女になるには、私は全く経験も知識も足りないと思う。
専属になればその対象を中心に予測、行動し、常に傍にいる事ができる。
リゼル様の傍にいる自分を想像して、私は顔が赤く染まっていくのを感じた。
「あ、誤解しないでね。ちゃんと他にも専属はいるし、護衛の騎士も近くにいるので。その、マリーの嫌がるような事は絶対にしない、です、多分」
私以上に想像力が豊からしい王子様は、私以上に頬を染めて一生懸命説明してくれた。
私以外にも専属の方がいるなら、色々と教われるかもしれない。
「……そのお話、お受けしたいです」
「本当? 良かった!」
勢いよく抱き締められた。そして、慌てて引き離された。その勢いで、リゼル様の被っていた黒髪が落ちて本来の赤髪が見えた。
「ごめんっ! 自制が効かなくて……嫌がる事はしないって言ったばかりなのにね」
申し訳なさそうに頭を下げるリゼル様の赤髪を見つめながら、私は心の中で思う。
嫌がっていないですよ、と。