9.偽りの騎士からの招待状
舞踏会が始まってすぐ、グレイ王の言葉が送られた。
「本日は皆の慰労を兼ねてこの場を設けた。存分に楽しんでくれ」
短い言葉ではあったけれど、周囲は盛大に拍手でグレイ王を讃えた。
(グレイ王……ローズマリーの婚約者だった方)
ローズマリーの記憶を思い出した時、グレイ王子との婚約者だった頃の事もいくつか覚えていた。
一緒に勉学に励んでいた事もあったし、公共の場に婚約者として出向いた事もあった。
その時その時に、喜びも寂しさも覚えていたことがあった。少なからず、将来の夫として愛そうと心に決めた事もあった。
けれど、婚約破棄を言い渡された時、ローズマリーの心は凍りついてしまっていた。
(婚約破棄を言われたのはどんな時だったか思い出せない……)
ローズマリーにとって辛い思い出なのか、私は今でもその時の記憶が曖昧だった。
ただ、場所は今居る大広間だった事は覚えている。けれど、何の舞踏会だっただろうか。王子の生誕祭か、建国記念日か何かだろうか。
「お前とは婚約しない、真実の愛を見つけたのだ」と豪語し、王子がその場からローズマリーを追い出したことだけ覚えている。
当時の記憶なんて、もう過ぎたこと。
風化してしまった筈の記憶は、悲しみどころか、ようやくしがらみから解放されることの安堵も覚えていたように思う。
大広間に音楽が流れ出す。
ファーストダンスは誰がするのか、と周囲が騒めいた。
そして皆が一斉にリゼル王子を見つめた。
王子が誰と踊るのか。
その踊る相手こそが、婚約者ではないか。
そう、噂されるからだ。
リゼル王子は、穏やかな笑を浮かべながらティア王妃に手を差し伸べた。
扇で口許を隠していた王妃が暫くしてからリゼル王子の手を取る姿が、遠目から分かった。
母子によるダンスが始まると同時に、広間の舞踏会が始まった。
年齢を思わせない美しさを保つティア王妃とリゼル王子のダンスに全ての人が注目している。
納得する目線、悔しそうなため息。安堵の声。
私は中央のホールから少し離れた壁際で、二人のダンスを眺めていた。
そして、私もまた安堵していることを自覚する。
(やだな……私はどうしたいんだろう)
リゼル様の事は、正直嫌いになれない。
それどころか、好意を抱いている。
けれどそれは彼が騎士や貴族の一人だと思っていた頃の事。
立場の違いが分かった今、その感情を芽吹かせることは出来ず土に埋めてしまった。
それでも花は咲きたいと心の底から根が伸びる。
「エディグマ嬢」
壁の花と化していた私の名前を呼ぶ声。
「アルベルト様」
いつもの騎士服と違い、正装した貴族らしい洋装をしたアルベルト様が私に話しかけてきて下さった。
「食事が美味しいらしいのですが召し上がりましたか? まだでしたら、食べてみては?」
気まずそうに、けれども気を遣って下さっていることがよく分かった。
相変わらず不器用な言い回ししかできないんだな、なんて思って笑ってしまった。
「ありがとうございます。そうですね。せっかくなので頂くとします」
「それは良かった。よければ一緒に選んでも?」
「はい!」
私はアルベルト様と一緒に大広間に並ぶ沢山の食事に目を向けることにした。
気付けばリゼル王子のダンスは終わっていて、沢山の人々がダンスを始めている。
リゼル王子が再び踊る様子は見られなかった。
「美味しい……!」
私は一口サイズに切られたソテーを頬張りながら感激した。いつも王宮の食事は美味しいと思っていたけれど、今日出ている料理はどれも絶賛したい味だった。
食い気がいっきに加速した私は、目移りしながら料理を少しずつ摘んでは感激していた。
そんな様子を眺めていたアルベルト様が、堪えきれずに笑い出した。
「思ったより元気そうで安心した」
「……お気遣いありがとうございます」
複雑な気持ちをしたまま、私はデザートのケーキを口に入れた。
「エディグマ嬢はどなたかと踊りましたか?」
「いいえ。特には。私を誘うような変わった方はいませんでした」
「そうですか。変わった方はいませんでしたか」
「はい」
実際、もし誘われてもお断りしようと思っていた。リゼル様に言われた事を守りたかったから。
ただ、拍子抜けることに誰一人誘われることはなかった。それはそれで、ちょっと拍子抜けした。けれど安堵したことも確か。
たとえどんなに楽しそうに見えても、今の私は一人の方と以外、踊りたいとは思えなかったから。
無意識に胸元のネックレスを握りしめていた。
「うん。どうやらフィールの予防は功を成したらしい」
「団長補佐様がどうされました?」
「いや、独り言です」
わざとらしい咳を一つ。
追求しても答えてくれないと思ったので、諦めて会場に視線を送った。
「……リゼル王子は、本当にどなたとも踊らないのでしょうか」
外交関係の訪問者はいないとされているけれど、王宮侍女として来た者の中には異国の令嬢も居た。
外交の国から来た令嬢に誘われたら無碍にもできないだろうと思う。理解はしていても納得できない感情が胸の奥に潜んでいる。
「どうでしょうね。私は一介の騎士なので王子の本心を知ることは出来ません。ですが」
「ですが?」
私がアルベルト様を見上げると、視線がばったり合った。
「騎士団に居座っている黒髪の騎士の気持ちなら知っている」
黒髪の騎士と聞いて、私は息を呑む。
「これは、今日の舞踏会に出席できなかった哀れな騎士から貴女への招待状です」
アルベルト様は懐から小さなカードを取り出し、私の手に添えて下さった。
「もし興味があれば行ってみてください。この会場ほど美味しい料理はありませんけどね」
「…………はい」
身体中の血液が沸騰するような感覚だった。
浮き足立つという言葉が、今の私にはぴったりで。
少し震える指でどうにかカードを広げてみる。
そこには簡単なメッセージで、舞踏会の終わりの時刻、騎士団の訓練所で待っていると書かれていた。
「もしご参加されるなら、夜道が危ないのでエスコートさせてください。それぐらいは許されるでしょう?」
目元に笑い皺を少しだけ浮かばせたアルベルト様の、揶揄うような笑顔に。
私は顔を真っ赤にさせながら、エスコートをお願いした。
それから私は、舞踏会が終わるまでどう過ごしたか覚えていない。
リゼル王子が周囲の女性達に囲まれながらも、責務が残っているからと退室した姿を見て、私も舞踏会の広間から離れる事をアルベルト様にお伝えした。
会場は、結局決まらない婚約者の声に残念そうに溜め息が漏れている。
急ぎ足で会場を出た時、遠目でレイナルド様の姿をお見かけした。そういえば始まった頃は姿を全然見かけなかった。
ふと、目が合った。
氷のように冷たいと称されるレイナルド様の瞳が私を捕らえ、穏やかに微笑まれた。
笑顔は、小さい頃から変わらないみたい。
ローズマリーの思い出と比較しながらも、私は小さくお辞儀をしてからすぐ、騎士団の訓練所まで向かうことにした。
「アルベルト様」
「参りましょうか」
広間の入口で待機されていたアルベルト様に声を掛け、私はふわふわとした感覚のまま足を進めていく。
私はどうしてしまったのだろう。
こんな感覚、こんな感情を、今まで一度だって感じたことがない。
ローズマリーだった時だって知らない。
グレイ王子にお会いするからといって、今みたいに鼓動が早鐘を打つことなんて、一度もなかった。
早く会いたいと、思ってしまう。
その感情に理性はない。
暗闇の中を通り抜け、人の声ひとつしない訓練所の中央に、ひとつの人影が見えた。
髪が黒い、衣服も薄暗い色合いで、けれど煌びやかな刺繍で飾られていた正装服。
逸る足音に気付いてくれたのか、顔を上げて私を見据えてくださるその笑顔とサファイアの瞳。
「マリー」
柔らかな笑顔に吸い込まれるように、私はリゼル様の正面に立った。
「何もない舞踏会ではありますが、よろしければ一緒に踊って頂けませんか?」
片手を背に、片手を私に差し出す仕草で私をダンスに誘う。
ああもう、観念します。
「はい。喜んで」
私は、リゼル様が好きです。
身分も何もかも忘れさせて。
今はただ、恋する相手とのダンスを楽しみたかった。




