2.(リゼル視点)王子の恋
リゼルの一人称を間違えていたため修正しました
その笑顔を見た瞬間から、その声色を聞いた時から。
ある感情がリゼルの中に生まれた。
ローズ公爵の提案により招集された婚約者候補達の襲来により、ろくに執務も行えず自由時間すら取れなくなったことに対し不満も苛立ちも蓄積していくばかりだったリゼルは、誰一人として救いの手が伸ばされないのであれば、自身で自由をもぎ取るしかないと理解した。
それからは囮を使い、情報操作を行い、猪突猛進な令嬢達を誘導してどうにか自由時間を手に入れていた。十七で成人してから任されていた王宮の執務も滞ってしまっている。睡眠時間を削ってでも遂行するリゼルに対し、周囲の目は同情で満ちていた。
普段であれば息抜きに出来ていた遠駆けも、近頃は情勢が良くないと禁じられた。城下町に変装して抜け出していたこともあったが、今は周囲に人が多すぎて王宮内で抜け出すことで精一杯だった。
「窮屈すぎる……」
逃げ場の一つとして使用している騎士団の執務室で疲れた様子のリゼルにアルベルトは紅茶を差し出した。一口飲む。ちょっと渋い。王宮には溢れるほど侍女がいるというのに、この騎士団の中には侍女が少なすぎる。どうやら雄々しすぎて淑女たる女性には敬遠される職場らしい。加えて今回の騒動から侍女の予算を削られているとか。だからこそお茶を出すのも、騎士団長であるアルベルト・マクレーン自らが行っていた。そして美味くない。
「よろしければ訓練所を使ってください。暫くは遠征で訓練兵もいませんから」
「遠征?」
特に報告を受けていないリゼルはアルベルトの言葉が気になった。
「東部地方に窃盗が多発しているようです。隣国からの介入かもしれないので調査に入る予定です。そこまで大きな事件でもないので新兵の訓練がてら行かせています」
「そうなんだ。何かあれば教えてもらいたい。訓練所も借りたいな。身体が鈍ってて」
「そうでしょうね」
腕を回し溜息吐くリゼルの苦難をアルベルトは身近で見ているからよく分かる。とにかく婚約者になりたいと襲い掛かる勢いで女性に迫られるのだ。そんな彼女達に追いかけられたら逃げたくなると、なぜ女性達は気づかないのだろうか。
リゼルは渋いながらも紅茶を全て飲み干すと、執務室の端にある引き出しから黒髪の鬘を取り出し、自身の赤髪を隠した。
王妃であるティアから引き継いだ炎のような赤髪は嫌でも目立つ。この国では珍しい髪色のため、赤髪が見つかると令嬢が湧いてくるとまで揶揄されるほどだ。
そこで、最近リゼルはお忍び用に作っていた黒髪の鬘を付けて過ごすことが多い。黒髪はそこまで珍しくないため、質素な服装をしていれば令嬢に近づいても正体に気づかれることは無かったため、今は自身の部屋に一つ、予備で騎士団の執務室に一つ用意していた。
「ローズ公爵が今度来城するのはいつ頃?」
「そうですね。近々顔を出すと側近には伝えているようですよ」
姿見で髪を整えた後、アルベルトを見て告げた。
「次に会った時にはこの最悪な騒動を終わらせて欲しいと伝えておいてほしい」
「分かりました」
アルベルトは笑う。無理な話だと分かった上で承知したのだ。
リゼルは執務室の部屋を出て訓練所に向かう。すれ違う騎士は軽く会釈をするだけでリゼルには気づかない。
リゼルの婚約者に関して、数年前から話題にはなっていた。
現国王の嫡子であり、唯一の後継者。早ければ生まれて直ぐに婚約者がいてもおかしくなかった。実際そういった話は数多く生まれてはすぐに消えた。
原因は両親の不仲から始まる。母の生家であるダンゼス家が強固な地位を確保するため、自身の配下たる家から婚約者を選ぼうとした。しかし、元ユベール家に加担していた派閥が勢力を取り戻し、次期王妃として何人か候補をあげてきたりもした。過去の勢力抗争で敗北したユベール家は衰退したものの、一族から離れローズ公爵となったレイナルドの権力から牽制されていることも要因の一つであった。
リゼルとしては、どうせ結婚するのであれば夫婦で絆を築きたいと思っていた。恋愛で結婚できるなど思っていない。それに、いくら恋愛したところで両親のように不仲になることだってある。
小さい頃から聞かされてきた父と母の恋話。絵物語にまでなった二人だというのに、会えば睨み合い憎しみあうような親だった。そして、愛情は子供にまで行き渡らない。
父は母の産んだ我が子が、同じ瞳の色をしていたとしても、実の子か分からないと疑うこともあった。母は産んだ我が子をすぐに乳母へと託し、自身は愛人を作って遊んでいるという。
ありがたいことに、両親の愛情を欲する前に周囲の大人から愛情を得ていたリゼルとしては、特に親からの愛情を求めたことはない。自身の親は「そういうもの」なのだと、客観していたからだ。
リゼルとしては、国のためとなりリゼルの良き理解者となる婚約者となればそれで十分だった。出来ることなら浮気せずリゼルと敵対してくれなければ良いとまで思っている。
それを数少ない友人に話した時には、「夢がないですよ」と悲しそうに言われたものだ。
(夢と言われてもなぁ……)
リゼルには恋が分からない。
いつか、父母の関係のように冷めてしまうもの。一時の夢。
幼い頃から、周囲が異性に浮つく頃から冷めた目でしか見ることが出来ないものだった。
その理由が親の姿を見ているからだというのは理解している。
自分自身が、父のようになってしまうことが恐ろしかった。
だから、リゼルは結婚に関してはあくまで政治的に決めてしまいたかった。だというのに、それが難航するからリゼル自身に選ばせようというのだ。父のように侍女を娶ってもよいと。
提案したローズ公爵に対して、初めて嫌悪した瞬間だった。だが、その提案があくまで政治的に派閥を霧散させるためであり、また、派閥の関係を浮彫にさせるためのものだと分かった時には猛省した。
それでも疑念は残る。何故、ローズ公爵はあえて婚約者候補を侍女に就任させたのか。
まるで噂に聞く彼の姉との思い出を振り返るようだとさえ思わせた。
リゼルは気を取り直し、訓練所の入口に立て掛けられている木刀を手に取った。
気晴らしに剣術の練習でも行うかと立ち寄ったところだ。生憎対戦する相手はいないものの、気分転換に一人稽古を始める。
体を動かしていれば気分が晴れる。
小さい頃は、王子と言われながらも騎士の姿に憧れた。少年はみな、剣を持ち主人に仕える騎士に憧れるものだとアルベルトに言えば、そうかもしれないと苦笑された。
技術としてはどの兵よりも高いと言われているが、王子という立場である以上、戦場に出向くことはなかった。大きな戦があればそういった機会もあるだろうが、幸いなことにこの数十年、隣国間での争いも、王族の命が危ぶまれるような事変は訪れていない。
今は、まだ。
(父が少しでも政治に力を注いでくだされば……)
執政には消極的で、全て宰相らに任せ遊興にふける父に忠告しても耳を貸すことはなかった。
(母がもう少し、父と距離を持ってくださったら)
王妃としての責務を全うしていたら。
きっと今のように王政は混乱に満ちていなかっただろう。
ボロボロの橋の上に立っていることさえ気づかないような王に、一体誰が仕えようとするのだろうか。
一部の者は早くリゼルに王位を継がせるべきだと声を荒らげる。そのためには次期王位継承を持つべき子息をと、結婚の話に戻る。その繰り返しだ。
(うんざりする……)
荒れていく剣技に、心が乱されていると感じたため、一度手を止め袖で汗を拭う。
そよ風が心地良く汗を冷やしてくれる。
ふと、目の前に白い手拭いが舞ってきた。
思わず手に掴む。微かな刺繍から女性の手拭いであることが分かった。
女性の手拭いということに、リゼルは意識を警戒した。
まさか婚約者候補の者がここまで突き止めたのかと思ったからだ。
見かけたのは見知らぬ侍女だった。侍女服を着た歳の近い女性。
「あの、ありがとうございます」
慌てた様子で礼を言われた。どうやらリゼルであることには気が付いていない。
「……いえ」
警戒してしまったことが申し訳ないような気がして、リゼルは丁寧に手拭いを畳んでから女性に渡した。
受け取ってくれた女性の雰囲気が、今まで女性に感じたことがないぐらい穏やかだった。まるで自然に溶け込むような澄み切った印象。
リゼルは思わずサファイヤの瞳で彼女を見つめた。が、女性は慌てた様子でその場を離れようとしたため、声を発することにした。
「……ここで何をしていたのですか?」
「昼食を取っていました。ここは王城内より静かですし、剣の稽古を見るのが好きなので」
女性にしては珍しいと思った。
リゼルの知る女性というのは、流行りのドレスに装飾品を好むものだと思っていたからだ。
が、改めて考えるにリゼルはそもそも女性の好みなどというものに関心を持ったことすらなかったのだから、もしかしたら剣の稽古が好きであることも、当たり前なのかもしれない。
「もしかしてお邪魔してしまいましたか?」
そんな言葉が彼女から出てきた。
リゼルが一人で稽古をしていたことに加え、顔を見せた時に警戒してしまったことが尾を引いていることにすぐ気づいた。
「いえ、そんなことは……あの、貴女も婚約者候補として王宮に?」
「はい、一応。恐れ多い話なので、彼女達のように頑張る予定はありませんけれど」
彼女の言葉に安堵した。と、同時に空しい気持ちにもなった。
その理由が、リゼルには分からない。
婚約者騒動に関心がない者が多い方が、リゼルにとっては利があることだというのに。
ふと、彼女の名前が知りたくなった。
失礼のないように名前を聞いた。
「マリーです。マリー・エディグマです」
マリー。
その名前が、よく似合うと思った。
可愛らしい名前だと思った。
「よろしければお名前をお伺いしても?」
名を尋ねたのだから、相手も名前を聞いてくることも当然だった。
リゼルは、すぐに偽名を名乗ろうかと思った。正直に伝えてしまえば正体がバレてしまうかもしれない。黒髪に変装することを知る者は数少ない。知られてしまえばリゼルの自由がだいぶ制限されてしまう。
偽りの名前を名乗ろうとした。
けれど、できなかった。
(彼女の口から別の名前で呼ばれるのは嫌だ)
衝動に駆られるように、リゼルは名乗っていた。
名乗ってしまっていた。
リゼル、と。
「リゼル王子と同じお名前なのですね」
「そうです……なので、告げることに抵抗があって」
「まあ」
彼女の唇から自身の名が紡がれた。
それだけでどうして、これほどまでに胸が高鳴り、心は喜びに満ちているのだろう。
リゼルは、その感情も感覚も知らない。日頃理性的に行動していた自身の行動とは思えない。
そして、彼女の笑顔を見た瞬間、視界に満開の花が開いたように感じた。
そこでようやく理解した。
たった今出会ったばかりのマリーを好きになったことを。
恋をしたことを。
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リゼルは、自身の個室にあるソファで項垂れていた。
自身の感情を理解した上で、次に訪れた感情は悲哀だった。
(マリー嬢は婚約者候補に興味がなかった)
婚約者候補として頑張る予定はない、と言っていた。
無理もない。彼女の故郷であるエディグマ領は男爵の治める小さな土地。今回の婚約者選びの数合わせに選ばれていることは一目瞭然だった。
そして皮肉なことに、もしマリーが婚約者騒動に積極的であったのなら、リゼルはここまで彼女に関心を寄せたのか分からない。
(ああ、でもどうだろう。彼女なら……)
もし彼女が他の令嬢のように、頬を染めながらリゼルの前に現れていたのならどうだっただろう。
それでも好きになっていたかもしれない。
(重症だ……)
たった今まで恋など知らないし興味すらなかった自分は何処にいるのだろう。
浮ついた感覚、別れてからすぐに会いたいとまで思わせる。彼女に名前を呼ばれた時の歓喜。その瞳に映ることの喜び。独占したい感情。どれも初めてのことばかりで、まるで急な病にでも侵されているようだった。
そんな感覚に浸りたい思いを捨て、冷静に考える。
もし、彼女を婚約者にしたいとリゼルが発言した場合を想定する。
周囲は身分が不釣り合いだと糾弾するだろう。それでも、今回の主旨は罷り通るため、反対意見はあるものの承認される可能性は高い。
けれど、マリー自身の意思は?
彼女は選ばれる事に積極的ではない。
彼女が言っていた友人のように、故郷に恋人がいるかもしれない。もしくは身分にあった結婚相手を探しているのかもしれない。
嫌だ、と本能が訴える。
かといって己の我が儘を貫き通した結果、マリーを傷つけることは目に見えている。それこそ、恋に浮かれた父が犯した愚行のように。
父の事を思い出しただけで、浮ついた感情が冷静になった。
同じ轍は踏まないと誓った。
恋に溺れ恋に冷めた両親は、リゼルにとってある意味良い教師であった。感情のままに走ることは得策ではないのだと。
(今できることは、マリーをもっと知りたいということ)
部下に頼み、彼女の素性を知ることは簡単だろう。けれどそうしたくはなかった。
ひとつひとつ、自身の手で、耳で、目で知りたいと思った。
それもまた、浮ついた恋の仕業なのかと思うと悔しいが。
ふと、扉を叩く音が聞こえた。顔をあげて入室を促す。
訪問者はローズ公爵だった。彼は入室してすぐリゼルに対し頭を下げる。
「久しぶりだね、ローズ公爵」
「そうですね。リゼル王子はお変わりないようで何よりです」
「本当にそう思っているなら貴方の目を疑うよ」
「それはそれは」
目は相変わらず笑わずに声だけで笑うローズ公爵とは、比較的友好な関係だとリゼルは思っている。親に放置され、宰相らに傀儡とされそうになっていたリゼルを救ったのは間違いなくローズ公爵だった。その経緯からリゼルは彼に対して信頼をしているが、彼自身はリゼルに対して心を許したことはない。
それどころか、ローズ公爵は誰一人として心を許していないだろう。
「アルベルトから、王子の伝言をお聞きしましたよ」
「ああ……うん……」
そういえば、アルベルトに婚約者騒動に関してどうにかして欲しいと伝えていたのだった。
「お気持ちは分かりますけれど、選択肢は広くあるべきです。何より貴方の結婚相手で政権が大きく変わる可能性があると、以前もお伝えしましたが」
「分かっているよ。ただ、あまりに節度がなさすぎる」
「ああ……それはそうでしょうね」
何かしら報告は受けているのだろう。ローズ公爵は納得したように肩をすくめた。
「女性というものは恐ろしい。権力のために貴方を追い回す姿が醜いと、何故気づかないのでしょうね」
一蹴するローズ公爵の声色は冷え切っていた。冷徹な顔。彼が氷の公爵と言われるのは、この冷たい表情をよく浮かべているからだ。
「分かりました。彼女達についてはこちらから注意いたしましょう」
「せめてルールでも設けてもらえないか。これではろくに仕事も出来ない」
「かしこまりました……それで、王子としてはどなたか良い方はいらっしゃいましたか?」
「…………」
「おや?」
黙ったリゼルに、意外そうにローズ公爵が目を開く。
「どうやら成果を成したみたいかな?」
「そういうわけでは」
「よろしければ相手の名前をお聞きしても?」
「…………今はまだ告げられない」
マリーの気持ちを無視して進めるつもりは毛頭ない。
それに、もしマリーの名を出せば、目の前にいる公爵はリゼルが想像もしない行動を取ることが分かるからだ。
「まだ、本当にその方で良いか決まったわけではない。もう少し考えるつもりだから」
「……そうですか」
苦し紛れではあるが、静観するよう頼む。リゼルが今、必要とするものはマリーという人を知ることだ。それより先に物事が進んでしまっては全てが破綻してしまうと分かっている。
「まだ自由にさせてもらいたい」
「分かりました。もし、決意された際にはいち早くお伝え願います」
「分かってる」
ローズ公爵に言われるまでもなく、リゼルは分かっていた。
リゼルだけの感情では済まされないことも。
自身の身分が、そうさせないのだということも。
そして、この恋が実らないかもしれない、ということも。