36. (閑話)王妃の末路(下)
引き続き苦手な方はスルーしてください
刑の執行日まであと三日。
まだチャンスはある。そう思いながら冷えて硬くなったパンに齧り付いていた。
看守に頼んだ頼みは確認したところリゼルの耳に入っているという。あとは彼を待つだけだった。
待つだけの時間は長い。物音がすれば顔を上げ、扉の前を見ては落胆する日が続いた。
呆気なく終わってしまった朝食の盆を下げ、今日も僅かに見える外の眺めを見るだけの日だった。
しかし、ついにティアの望むべき時が来た。
地上へと続く扉の開く音がした。僅かな光と共にティアが待ち望んでいたリゼルの姿が見えた。
看守が頭を下げる。聞こえないがリゼルは彼に礼を告げ、そしてティアの入っている牢に視線を投げた。
「リゼル……!」
感動に打ち震える母の姿を、これ見よがしに近づける。檻に近付き、リゼルに向けて手を伸ばす。
「会いたかったわ……」
涙が一筋溢れ落ちた。感極まって涙を流す母親の姿を見たリゼルの反応はどうだろうかと視線を送るが。
その反応はティアが想像していたものと大きく違っていた。
ティアとしては、彼から同情を誘いどうにかして救済を得ようと思っていたのだが。
今、ティアを見る視線には同情のかけらも無かった。ただ、哀れな者を静寂な様子で見据えていた。
「リゼル……?」
彼の様子に不安がよぎった。それでも、諦めるわけにはいかない。
ティアは気持ちを切り替えて息子に話しかけた。
「母の事を許せないとは思います。私もどうしてこのような事になってしまったのか……きっと何かの間違いではないかと」
どうにか訴えなければ。情ある態度で息子に伝えなければ。
けれども、ティアは未だかつて子供から同情を得る方法など知らない。知るのは異性相手への対応ばかりだった。それでも知識だけはある。
「私の過ちは到底許されることではないでしょう……ですが、息子である貴方にだけは分かって欲しかったの……」
「息子ですか……」
今まで沈黙を貫いていたリゼルが発した声色はティアが予想していた以上に冷淡だった。
「貴方からまさかそのような言葉を聞くなんて思いもしませんでした。今まで、たった一度たりとも貴女から母親らしい愛情を受けた記憶がないものでしたので」
「リゼル……? そ、そんなことないわ。本当はずっとそうしたかったのだけれど。貴方は次期国王となるべき人。冷たいようだけれども、貴方を突き放すことこそ、愛情であると教わっていたわ。本当は……」
「もういいですよ。母上」
言葉を遮られティアは焦燥した。
見上げる先のリゼルの顔から、ティアは作戦が失敗に終わっているのだと分かった。
このままではいけない。
「リゼル、お願いよリゼル! どうかここから出してちょうだい!」
なりふり構わずティアは叫んだ。
「お願い! まだ死にたくない! リゼル!」
「この場で同じように母上に罪に問われ命を亡くした方は何人いましたか?」
眉間に深く皺を刻み睨むリゼルの眦には微かに涙の跡があった。
「母上が、少しでも情けを与えたことがありますか? 母上によって命を落とした者はどれほどの数、いたのですか。その中には……私の弟や妹となるはずだった方もいたのではないですか?」
ティアは何も言えなかった。リゼルの言葉が事実だったからだ。言い逃れを考えるより先にリゼルが話し出す。
「母様と呼んでいた頃もありましたね。いつから私が貴女を母上と呼ぶようになったかご存知ですか? そうですね……初めて私が狩りに成功した歳はいくつだかご存知ですか?」
矢継ぎ早に聞かれる問いにティアは考えて、考えた結果答えが出なかった。
本当に分からなかったからだ。
彼に関する行事には参加していたはずだが、その頃リゼルの歳が幾つかだったかも思い出せなかった。
ティアの表情から全てを悟ったリゼルの顔をティアは見ていなかった。どれほど哀しみを刻んでリゼルが語っているかなど考える余地も彼女には残されていなかった。
「私が初めて恋をした相手をご存知でしょうか…………私は、貴女が罠に嵌めるために利用したマリー・エディグマに恋をしていたのですよ」
マリーという名を聞いて、ティアはついこの間、レイナルドを陥れるために利用した侍女を思い出した。そして同時にローズマリーのことも思い出した。
「あの女……あの女なのね……」
ブツブツと声を放つ。
「いつもそう。ローズマリーが私の邪魔をするのよ。そうよ、あの女が私を騙したの。ねえリゼル。あの侍女は悪女よ。貴女もレイナルド卿もあの女に騙されているの。私はあの女に嵌められたのよ」
壊れたようにマリーとローズマリーの名を出しては悪態を吐き出す実の母にリゼルは堰を切ったように叫んだ。
「全て貴女が招いた事でしょう! 他人の命を物のように扱い、人を騙してきた貴女だからこうなったのだと何故分からないのですか!」
リゼルはもう、実の母に対して何も思い残すものは無かった。幼い頃より両親の愛情を与えられなかった。母の愛を得たいと思っていた頃のリゼルはもう存在しない。
多少の情けをかけるには母の罪は重すぎた。他国への売国行為はいくら王族の一員と言えど許されることではない。ここで少しでも情けをかければ、それは王家の信頼すらも揺らぐと彼女には分からないのだろう。
王となった立場だからこそリゼルは冷血にならなければいけなかった。
そして、どうしようもない苛立ちをティアに向けてしまいそうになる。
リゼルが唯一焦がれた少女を誘拐したという事実が許せなかった。たとえ想いを告げるには相応しくない立場になってしまったとしても、マリーを慕う想いは今も変わらなかった。
王になった立場であってもマリーとの未来を考えない日は無かった。
もしも彼女がローズマリーの記憶を持っていなければ、王家に対する心情も変わっていたのではないか。
ローズマリーの命を落とす原因となる両親から生まれたリゼルには、マリーに告白を続ける勇気は無かった。
リゼルがひたすらマリーを想い続けることが出来た日々は短い。
出会って、想いを告げてからの日々。その短い間すらもリゼルには愛しかった。
「母上。貴女と直接話すのは今日が最後でしょう。どうかその命をもって、かつて貴女によって命を亡くした者達に償ってください」
「ひどいわリゼル……ひどいわ……」
尚も独り言を続けるティアから離れ、リゼルは来た道を戻る。
リゼルにはやる事がまだ山のようにある。一瞬の情けすらかける時間は許されなかった。
微かな光と共に開いた扉は、重苦しい音を立てて閉じられた。