31.ひと時の夢だと言うのなら
アルベルトの気が逸る思いのまま、急いで王宮内を駆ける姿に、周囲の使用人は何事かと驚いていた様子だったが、彼自身は周囲の反応など気にもせず医務室へ向かう。
焦る理由はただ一つ。騎士団の団員からマリーが体調を崩したのだという。
何が起きたのか詳しく問うにも、詳しい事はレイナルドに聞いて欲しいとの一点張りだった。
とにかく話を聞く時間ももどかしいと、受けていた仕事を最低限終わらせてから早馬で王城に戻った時には日が暮れていた。
やっと彼女の障害となり得るものは消えたというのに。
復讐も終わった、王妃も捕まった。もう何も不安になる事は無いという今になってどうして。
王城に到着して直ぐにレイナルドから話を聞いた。
彼は悲しそうな顔をしてマリーからローズマリーの記憶が消えた、とだけ告げた。
「なあ、アルベルト。姉様の記憶が消えても彼女を愛せるか?」
「どういう事ですか?」
「そのままの意味だよ。君が愛する者はマリーなのかそれともローズマリー姉様なのかだよ」
「そんなの……」
言葉に詰まる。
「もし君が姉様に懸想した上でマリーの事を愛しているというのであれば、どうか諦めてもらいたい。この先、記憶を失った彼女を愛し続ける自信が無いのであれば考え直すことも必要だ」
「…………まずは彼女に会いたい」
レイナルドがこの場を以て伝えてくるのか、それほどまでに彼女は記憶に支障があるというのか。
自身の感情などどうでもいい。まずは彼女の安否を知りたかった。
「マリーは隣室にいるよ」
隣の部屋にいると分かると直ぐ、アルベルトは部屋を出た。
レイナルドと言えば。
「さて、どこまで揺らしが効いたかな」
先ほどまでの悲痛な表情をもって話していた態度が嘘のように飄々としながらアルベルトが立ち去った扉を眺めていた。
隣室の扉を軽く叩く。返事が無いためゆっくりと開けた。
医務室の消毒液の匂いが窓が空いて吹く風に乗ってアルベルトの元に届く。
寝台の上にマリーはおらず、窓辺で椅子に座りながら外を眺めていた。
身動きがないため、うたた寝をしているのだろうかと近付いて様子を窺ってみる。
予想通りマリーはうたた寝していた。
特に傷も見えないため安堵し、このままでは風邪を引いてしまうと思い、眠る彼女を起こさないように抱き上げて寝台に向かう。
穏やかに眠る彼女の寝顔が愛しいと思うだけではいけないのだろうか。
レイナルドの告げた言葉が胸に残る。
ローズマリーの記憶を無くしたとしてもマリーを好きでい続けられるか。
そんなこと。
「急に言われても分からないな……」
小さな声で呟いていたと思っていたのに、マリーの目蓋が揺れ出した。
起こしてしまったのだろうか。
申し訳ない気持ちがありつつも、けれども一刻も早く話をしたいアルベルトは彼女が覚醒するのを待つ。けれどもマリーは蜂蜜色の瞳を大きく開いてアルベルトを眺めつつも一言も言葉を発しなかった。
「マリー?」
まさか記憶と共に自分の事まで忘れてしまったのではないかと不安になったが、ようやく笑みを浮かべたマリーの表情を見て安心した。
「大丈夫か? 何があったんだ」
レイナルドから聞いた事を詳しく確かめようと思ったが、予想を反するマリーの反応に全ての思考が止まった。
マリーが寝台から起き上がるとアルベルトの手を両手で掴んで握ってきたからだ。
感謝を示すような触れ方に動揺してしまい、何を聞くべきだったかも忘れてしまった。
こんなに愛おしそうに手に触れる彼女の姿など見たことも触れたこともない。
まるで別人のように変わってしまったマリーの様子に、やはり記憶が混濁しているのだと分かった。
「マリー。レイナルドから聞いたが記憶が曖昧なのだろう? 何か不安に思うことがあれば言って欲しい。少しでも貴女の不安を取り除きたいんだ」
掴まれていた手をそのままに彼女の手を掴み直した。顔を近づけて表情を見てみる。
何処か違和感があった。
顔立ちも姿も間違いなくマリーだというのに何処か違和感が消えない。
「マリー?」
どうしてか、名前を呼んで確認したくなった。
するとマリーは顔を横に振った。
違うと。
マリーではないという。
それでは今この目の前に居る女性は誰だというのか。
掴んでいた手が少し緩め、彼女は一つの髪飾りをポケットから取り出した。
それは二十年ほど前、ローズマリーに贈った髪飾りの一つだったと思う。見覚えがあったのは、安物だというのにローズマリーが好んで長く使ってくれていたからだった。
アルベルトは髪飾りとマリーの顔を交互に見合わせて。
まさかと思う名前を呼んでみた。
「ローズマリー様?」
するとあり得ないことに、彼女が笑った。
マリーと同じようで、それでいて違う微笑みの仕草は貴族らしい上品な笑みだった。
レイナルドから聞いていたことと真逆ではないか。
彼女は、マリーはローズマリーの記憶を失ったと言っていたのに。今の彼女はマリーではなくローズマリーだという。
何が正しいのか分からず困惑してばかりのアルベルトの手を強く握り、意識を彼女に集中するよう促されている感覚がした。
日頃のマリーではしない行動に動揺してばかりいる。もし彼女が本当にローズマリーだとするならば、マリーの記憶は、意識はどうなるというのか。
「アルベルト」
穏やかな口調のマリーが名を呼ぶ。普段付けている敬称の無い呼び方だった。
「今少しだけお時間をください。彼女が、マリーが眠るこのひと時だけ」
「眠る?」
「ええ。彼女が眠っている間のほんのひと時。どうかひと時の夢だと思って話をさせて」
マリーの姿で話をするローズマリーを見るのは、王城でグレイ王に対して復讐を果たそうとしていた時だった。
幻のように現れてレイナルドどころかアルベルトの復讐心を風化させたローズマリーの姿。
どうして今、という気持ちもあるが、再会に喜ぶ自身もいる。
ひと時の夢だというのであれば。
その夢を甘んじて受け止めたい。
「本当に貴方なのですか?」
それでもどうしても信じきれずに問えば。
やっぱり彼女は当時の笑顔そのままに微笑んだ。