18.転生した悪役令嬢の願いは(上)
私はぼんやりとしたまま、自室の窓から長いこと外を眺めていた。窓に張り付いては垂れていく滴を、雨音の旋律と共に眺めながら時間が過ぎるのを待った。
侍女長であるアマンダから、今日一日勤めを休むように言い渡された。他の侍女も同様で、誰も質問をすることなく頷いた。
皆が皆理解した。
今日、王政が大きく変わるのだと。
静まりかえった城内。最低限の者だけが働いているのか、時折廊下を歩く足音が聞こえてくる。その度、私は扉を見た。けれど思い描いている人が訪れるはずもなく、無駄に緊張をしては弛緩するだけだった。
時間潰しにまた刺繍をとも思ったけれど、そういった気分にもなれない。
今まさに、リゼル様が成されている事を考えると、そんな気分にはなれなかった。
外の景色は暗闇となり、窓には自分の姿が映る。気付けば時刻は夜になっている。
食事をしたい気持ちにもなれず、けれど喉が渇いたので、私は水差しからコップに水を注ぎいっきに飲み干した。
その時、扉から確かにノックの音がした。
急いでコップを置き、扉の前に立った。
「僕です」
静かな声の主はリゼル様だった。
私は扉を開き、リゼル様をお迎えしたのだけれど。
「……リゼル様?」
その御顔があまりにも暗く、哀しみが刻まれていて。
私はそれ以上、言葉を続けられなかった。
黙ってその場に立ち尽くすリゼル様の様子は、重く暗い。
いつも笑顔や優しい表情を見せてくれる彼とは異なる姿に胸が痛んだ。
どれほど辛い思いをされたのか。
そうさせてしまった一因に私は覚えがある。
それが、ローズマリーの記憶だとしても、その責に打ちのめされそうになる。
私は無言でリゼル様を部屋にお通しし、部屋の中にある一人掛けの椅子に案内した。
本来、二人きりで個室にいるなど淑女らしからぬ行為ではあるのだけれど、あまりにもリゼル様の様子が気になったため、失礼を承知で案内した。
リゼル様も少しその事を気遣って下さったけれど、少しだけ微笑まれてから、促されるように椅子に座られた。
彼にお茶を煎れる用意をしようと思ったのだけれど、向かおうとした腕が掴まれたので驚いてリゼル様を見た。
「……大丈夫ですか?」
声をかける。けれど返事は無い。
「リゼル様……?」
「君は…………」
俯いていた瞳が、私を見た。
「君は、ローズマリー・ユベール嬢なの……?」
分かっていたことだった。
あのハンカチと伝言を託したことでリゼル様には気付かれてしまうということを。
分かっていたことなのに、いざ問われてしまったら。
私は指先まで冷たくなったまま、リゼル様の手に触れた。
「……正確にはローズマリーの生まれ変わり、です……」
私は。
誰一人にも伝えたことがない真実を、リゼル様に明かした。
「そうか……そういうこと、だったんだね」
「信じて頂けるのですか?」
少しは疑われると思っていた。
今まで生まれ変わりだなんて人は見たこともない。
自分がそうなのだと告げたところで、嘘偽りだと言われるのが当たり前だと思っていた。
けれどリゼル様は首を横に振った。
「あの刺繍を見たローズ公爵を見たら信じるしかないよ。あの刺繍は、ユベール家の紋章?」
「……はい。ローズマリーが幼い頃にレイナルド……ローズ公爵に贈ったものを模倣しました。紋章に加え、ローズマリーの名前から薔薇を。贈り主の名前や特徴を込めた刺繍が御守りになると言われていた頃でした」
「そうなんだ……」
今から二十年以上前に流行ったまじないだった。好きな相手や家族が無事であるように、贈り主は自身に纏わる刺繍を縫った物を贈ると良い、といった風習があった。名前を表すデザインや、瞳や髪の色の糸を使って贈るのだ。
当時のローズマリーは、アルベルトとレイナルドに自身の名にあやかった薔薇をよく刺繍しては贈っていた。
「ローズ公爵は君を知りたいと言っていた。あんな風に取り乱す公爵を初めて見た」
「……そうですか」
「会いたいとは思わないの?」
少し意外そうにリゼル様が聞いてきたけれど、私は首を横に振ってそれを否定した。
「亡霊が生きている人に関わってはいけません。本当は贈り物も言葉も、伝えるべきではないことは分かっているのです。でも……」
復讐に生きるローズ公爵……レイナルドを見るのは辛かった。氷のように凍てついた心の原因が、過去の自分にあると思うと尚更、その呪縛を解き放ちたかった。
「以前の私……ローズマリーが本当に望んでいた願いは、レイナルドやアルベルトの幸せだけです。レイナルドには幸せになって欲しいと、死ぬ間際まで思っていました」
けれど現実は、ローズマリーの死によって弟を復讐者にしてしまった。
「彼の行為は全てローズマリーの罪でもあります。ローズマリーだったら、亡霊となってでも彼の罪を食い止めようとするでしょうから。だから……」
少しだけでもいい。ローズマリーの想いを伝えたかった。
本当は止めたかった。
愛する弟を血で染めるような現実から引き離したかった。
「レイナルドにローズマリーの言葉を伝えることで、彼が苦しむかもしれない。後悔させてしまうかもしれない。それでも、彼を復讐の中で生かすようなことだけはしたくなかったのです。これは、多分ローズマリーとしての我が儘です」
ずっと胸の中で燻っていたローズマリーの気持ち。
会いたいという想いを打ち消し、それでも彼の幸せを願っていた。
「もう、ローズマリーとしての悔いはありません……正直に言えば、ローズ公爵の事やマクレーン騎士団長のことが気にはなりますが、私はもうローズマリーではなく、マリーで……」
私は、言葉を続けられなかった。
顔を上げて見たリゼル様の頬から、涙が伝っていたから。
「リゼル……様……?」
何がどうなったのか分からなくて。
私は彼の名を呼んだ。
リゼル様の綺麗なサファイアの瞳から零れ落ちる涙は更に頬を伝う。
どうしてだろう。
私はとても、胸がざわついて。
不安に押しつぶされそうになる。
「ごめんね、マリー」
「え……?」
突然の謝罪の言葉に、私は意味が分からなかった。
「ごめん。ごめん……」
こみ上げる悲しみにリゼル様は顔を手で覆われた。
そして叫ぶ。
「君を好きになって……ごめん……!」
その言葉はあまりにも。
私の心を鋭く貫いた。