17.その涙は誰が為(下)
雨は尚も降り続ける。
リゼルの問いにレイナルドは答えなかった。
尚もリゼルは続けた。
「先日、襲撃した者を捕らえ問い詰めました。母が用意していた住処で逃げる準備をしていました。母の影は全て捕らえられたと言っていたが、その者だけは逃げ切れていた。拠点に見張りをつけていて正解だよ」
「賢明な判断です」
ようやくレイナルドが口を開いた。
「仰る通りですよ、リゼル王子。私が、マリー・エディグマ令嬢を襲うよう命じました」
その笑顔には、何一つ感情が乗っていなかった。
「理由はと言えば、貴方の意思を固めるためでした。王妃の手の物が愛する者に牙を向ければ、貴方も行動に移すでしょう? 実際に今、貴方はこの場にいるのですから」
「…………」
レイナルドの言う通りだった。
マリーが襲われたと知り、自身の無力を呪った。もっと力ある立場になれば、彼女を守れるとも思った。
それが全て、レイナルドの元で踊らされていただなんて。
何より、そんな自分のせいで怖い思いをさせてしまったことが、リゼルには重くのしかかった。
「気に病まないでください王子。これも私の復讐の一つでした。王子の想い人が誰かに襲われる。その襲撃の黒幕は、王子の婚約者であった……そんな過去の繰り返しです」
かつてローズマリーがティア妃を暗殺しようとした、という話があった。
レイナルドは、その話を踏襲したに過ぎない。加えてリゼル王子の意思を固めるための手段に過ぎなかった。
「たとえ私が手を下さずとも、いずれ王妃はエディグマ嬢に手を出していたでしょうね。貴方の努力が功をなし、王妃にはエディグマ嬢が想い人であると特定されておりませんでしたが、それも時間の問題でしたでしょうから」
「それは、そうだろうな……」
母はそういう女性だった。
自身の手が危ぶまれる直前に鋭い牙で食らいつく。
リゼルがうまくマリーの存在を隠し貫いていたために気づかれる時間が遅れたが、レイナルドの言う通り時間の問題でもあった。
「……僕は貴方を許すわけにはいかない」
「ええ。そう仰るだろうことも承知しております」
「それも復讐のため、だと?」
「当然ですから」
リゼルは、レイナルドが哀れに思えた。
未だ喪に服し、二十年に亘り姉の復讐を果たす彼が。
彼の心を動かすことが出来る者は、リゼルでもなければ王でも王妃でもない。
彼の愛した姉、ローズマリー・ユベールなのだ。
リゼルは自身の言葉が届くことはないと分かり、口を閉ざした。
ただ、最後に一つだけ頼まれていたことを思い出した。
「……ある女性から貴方宛てに贈り物をあずかっている。受け取ってもらえるか?」
「……何でしょう?」
この雰囲気の中で、突然出てきた女性の存在にレイナルドは眉をひそめた。
リゼルとて、この贈り物の意味を理解はしていない。ただ、マリーがあまりにも悲痛な顔で頼み込むのだから、何かレイナルドに思い入れのある物なのだろうとしか思っていない。否、そう思い込もうとしている。
そのハンカチに描かれる刺繍のデザインを見た時から、リゼルの胸のうちに芽生えた不安は、受け取ったレイナルドの表情を見てより深く刻まれた。
「これを……これを何処で……?」
レイナルドの声は震えている。手に持つ刺繍を指でなぞるが、その指すら震えていた。
「王子! どうやって貴方がこれを手に入れたのですか!?」
突然、力強い手で肩を掴まれる。あまりの痛みにリゼルは一瞬身構えた。
「名を告げるなと強く言われた。ただ、それと一緒に伝言を受けている」
「伝言……?」
「ああ」
スッと、リゼルは口を開いた。
一言一句間違えることなく、マリーから受け取った言葉をレイナルドに投げた。
「『私は復讐を望みません。貴方の幸せだけが、私の望み。どうか幸せに』……です」
リゼルにはマリーの言葉の意味が分からなかった。
ただ、その真剣さと勢いに押し負けた部分があった。それほど彼女が深刻な顔をしていた。リゼルが見たこともないほどの深刻さに、リゼルは黙って依頼を受け取った。
彼女とレイナルドには一切の接点が無いことは知っている。彼女自身も言っていたし、レイナルドに至ってはマリーの存在をリゼルの思い人という意識しかしていないことも。
だから、この伝言が本当にレイナルドに伝わるのか半信半疑だった。
けれどそれは間違いだった。
目の前に立ち、先ほどまで無情にリゼルやリゼルの両親を切り捨てたレイナルドが。
静かに涙を零していたからだ。
「…………どうして……?」
その問いは、リゼルに向けたものではなかった。
「どうして私の元に会いに来て下さらないのですか? 私が、私が貴方の望まない復讐を果たしたから? もう、私を愛して下さらないのですか?」
巻き立てるように、責め立てるように続けながら。尚も涙は止まらない。
「こんなっ……こんな贈り物をくださるのなら、一目だけでも姿を見せてください。幻でも夢でも構いません……私の幸せは……姉様がいなければ意味がないのに……」
姉の名前を呼び、レイナルドはその場で顔を覆い泣き出した。
リゼルはやはり、と思った。
マリーから受け取ったハンカチには、小さな薔薇の模様が刻まれていた。それと一緒にユベール侯爵の紋章のようなデザインも。
アルベルトから見せてもらったことがある、彼の初恋の相手だと言っていた故人の。
刺繍したデザインとレイナルドに渡したハンカチのデザインが、全く同じであったことに。
リゼルは確信した答えの先に。
深く深く絶望した。
最後の最後まで、リゼルは贈り主の名前を明かさなかった。レイナルドが懇願しようとも、本人も分からないのだと答えた。恐らくリゼルの言う通り、彼は何も知らないのだろう。
けれど何処か、悲しみを含んだ目を見て、レイナルドは口を閉ざした。
そして考える。
自身の部屋に戻り、赤く腫らした目をそのままにハンカチを見つめ続けた。
真新しい糸。薄汚れていないハンカチは最近のもの。それだけで刺繍は最近誰かの手によって縫われたものだと分かる。
そしてリゼルに託せることが出来る女性など、考えるだけで候補は限られている。
その中で、一つの答えを導き出したレイナルドは、笑い出した。
涙を零しながら。
「私は愚かだ……」
もし。
もしレイナルドが考えるように。
マリー・エディグマ令嬢が、ローズマリー姉様だとしたら。
レイナルドは、彼女を人に襲わせたのだから。
「私は本当に……愚かだ……」
無気力に呟く声は、雨の音にかき消された。