一
ちゃぱり……と、微かな水音がして、忍び装束の男が、江戸城坂下門、蛤堀から石垣に這い上がった。装束の色は、闇に紛れるために、灰色に染められている。
真っ黒な忍び装束というのは、本来あり得ない。闇に紛れるには、灰色、茶色、藍色などの中間色が最も効果的なのだ。
正月が終わって二月となっても、お堀の水は、皮膚を切り裂くように冷たい。凍るよう……など形容するのも、生温い。まるで刃物のような、冷たさを伝えている。
が、お堀から石垣に這い上がった忍び装束の男は、一切気にしていない。僅かな石垣の凹凸に指先を引っ掛け、するすると驚くべき速さで登って行く。
時刻は真夜中で、中天に冴え冴えとした月が昇っていた。月明かりを頼りに、男は無言で登攀を続けて行く。
江戸城に忍び込もうとしているのか?
だとしたら、大胆不敵、この上ない。
石垣を登り終わり、男はちょっと休憩して、夜空を見上げた。
江戸城の屋根が覆い被さり、忍び返しが行く手を塞いでいる。漆喰の壁は、手懸り一つなく、すべすべとした面を無愛想に見せていた。
忍び装束の覆面を捲り上げ、男は素顔を顕わにした。
月明かりに、男の顔がくっきりと浮かび上がる。
若い。
やっと二十歳を越えたばかりに見える。いや、もっと若く見えた。
夜気に、男の吐く息が白くなった。
漣玄七郎であった。
はっ! と玄七郎は白い歯を見せた。挑戦的な笑い顔を浮かべる。
ちょっと身動きして、玄七郎は懐から、細引きを取り出した。先に鉤がついている。
二、三度ぶらぶらと揺らして、玄七郎は大きく腕を振った。細引きが円を描き、先端の鉤が「かちゃっ!」と、どこかに食い込む手応えを伝えた。
ぐい、ぐいと危なっかしい格好のまま、玄七郎は細引きの安全を確かめる。納得がいったのか、玄七郎は細引きを握り締め、屋根の軒にぶら下がった。
細引きは特殊な編み方をしているのか、玄七郎の体重を完全に支えていた。
両腕の力のみで、玄七郎は庇に取り付き、ぶらんとぶら下がった。そのまま懸垂の要領で身体を引き上げ、一瞬のうちに屋根に這い上がる。
音は立てない。爆発的な筋力と、猫のような反射神経、平衡感覚ゆえの、忍びの技だ。
目の前に、江戸城の全景が広がっている。
江戸城は別名、千代田城と呼ばれ、名称の通り、東京の千代田区がすっぽり入る巨大な規模を誇る。建造された十七世紀以降、世界最大の城郭の座は揺るがない。
月明かりに浮かび上がった江戸城は、無数の櫓、通廊、曲輪が目の限りに広がっていて、一つの巨大な都市とさえ、言えた。
今、玄七郎は、江戸城に潜入しようとしている。
目的は……特にない。
ただ、己の忍びの技を験したいだけであった。
品川遊郭で、黒須五十八により、強制的に〝ロスト〟の罠に掛かって以来、玄七郎は荒んだ生活をしていた。
関所で支給された百両という大金は、焼け落ちた遊郭の弁償として、あっという間に消えうせ、江戸の生活に慣れない玄七郎は窮迫した。手っ取り早く、金を手に入れるため、玄七郎は盗賊の仲間に飛び込んだのである。
やむなく……ではない。何も盗賊の仲間に加わらなくとも、遊客の能力なら、仕事は幾らでもあったろう。
玄七郎は捨て鉢になっていた。
もう、どうにでもなれ! という気持ちになっていたのだ。
玄七郎の遊客としての能力は、盗賊として抜群の適性があって、あっという間に盗賊中で一目も二目も置かれるようになった。
それ以来、玄七郎は江戸で盗賊としての名を売ったが、心の中は荒涼として、満たされぬままであった。
こんな毎日で、明日があるのか……。
もちろん、あるわけがない。盗賊に明日など、ありようがない。
玄七郎の遊客としての能力と、十八歳という若さは目的を求め、どこにも繋がれない強力なジェット・タービンが無目的に回転するように、虚しく唸りを上げるだけだった。
屋根から屋根へと、玄七郎は飛鳥のように飛び移る。月の明かりに、玄七郎の影が不気味に躍った。
ひらり……、玄七郎の身体が浮き上がり、音もなく地面に着地する。全身で気配を探り、敵を探す。
江戸城を警護する、忍者を警戒している。警護の役に就いているのは、伊賀組、甲賀組、根来組などだが、最も警戒を要するのは、御庭番だ。
玄七郎には、御庭番については、噂程度の知識しかなかった。それによると、きわめて優秀な忍者集団で、能力はほぼ遊客に匹敵すると言う。
するすると地面に落とした建物の影から、影へと玄七郎は進んでゆく。途中、警護の番士と何度か行き逢ったが、相手は玄七郎の存在に、まるっきり気付くことなく、行過ぎた。
悪戯心に、玄七郎はわざと警護の鼻先をすり抜けるという放胆な真似をして見せた。それでも、相手は何も怪しむ気配は見せない。
玄七郎は、自分の技に酔い痴れていた。
俺は無敵だ……! 俺を止めるなど、誰にも不可能なのだ……!
遊客の力が、全身の隅々に行き渡る。
風のように、玄七郎は江戸城内を突き進んでいた。
目の前に、巨大な城郭が聳え立っている。
江戸城天守閣である。五層五階の、高さ三十間。本来の江戸には、初期を除いて、二百年近く、天守閣は存在しなかった。明暦の大火で焼け落ちた後、再建計画はあったのだが、結局財政上の理由で建造されぬまま、幕末を迎えたのである。
が、仮想現実の江戸では違う。江戸仮想現実にやって来る多数の遊客からリクエストがあって、建設が決まったのだ。
二十間四方の石垣に、天守閣の建物は、ずっしりと聳えている。
これだ! 俺が忍び込むには、江戸城天守閣ほど、相応しい標的はありっこない!
天守閣を見上げた玄七郎の耳が、微かな音を捉えていた。
瞬間、玄七郎の身体は、地面に投げ出されていた。本能的な行動で、後から玄七郎は、自分が何かの攻撃を避けていたのに気付いたくらいだった。
地面に、ぐさ! ぐさ! と音を立て、数枚の手裏剣が突き刺さる。月明かりに、手裏剣は十字型をしているのが目に入った。
ぱっと玄七郎は膝立ちになって、上を見上げた。天守閣の屋根に、玄七郎は人影を認めていた。
暗闇に、玄七郎の瞳がぼうっ、と怪しげな光を湛えた。
遊客の能力の一つ、〝暗視モード〟である。梟の眼球のように、網膜に反射板が形成され、僅かな光でも昼間のように映し出される。しかし色覚細胞の働きは抑えられるので、視覚には色がついていない。
玄七郎と同じ、忍び装束。
御庭番だ!
おいでなさった……!
玄七郎はニヤリと笑った。