七
仮想現実で三日間を過ごし、現実世界に復帰しないままでいると、強制切断が起きる。使用者の健康を守るためである。
仮想現実接続の仕組みは、電脳空間に使用者の脳マップをコピーし、本体の脳は、休止状態になる。目覚める時に、使用者の脳にコピーが体験した記憶が転写され、電脳空間のコピーは消去される。
〝ロスト〟とは、コピーの消去および記憶の転写がなされない状態である。
コピーが電脳空間に立ち往生し、記憶の転写が行われないため、本体は目覚めても、仮想現実で体験した記憶は喪失する。電脳空間のコピーは、現実世界に戻れず、仮想現実で一生を過ごす運命に陥る。
玄七郎が仮想現実接続装置使用の許可を取ったとき、右記の知識は、厭になるほど叩き込まれていた。
うおお──おおお……。
遠吠えのような、泣き声が部屋に響いていた。声は、吉奴の喉から出ている。
卵形の顔を思い切り歪め、上体を投げ出すようにして、吉奴は畳を叩きながら泣き叫んでいた。
「どうしよう……。あちしも〝ロスト〟しちまった……! もう、戻れない!」
玄七郎は、信じられない驚きに、現在の状況を忘れていた。
「あんた、遊客だったのか! しかし、どうして?」
遊客は遊客を感じる。しかし玄七郎には吉奴の、遊客であるというシグナルは全く感じ取ることができなかった。
吉奴は、涙に濡れた顔を、ぐいっと持ち上げた。
「あちしは遊客のシグナルを消す技を習得しているんだ!」
言い終わると同時に、吉奴の遊客のシグナルが玄七郎に感じ取れた。吉奴が発する遊客のシグナルに、ぞくりと玄七郎は背筋に寒気を覚えていた。
「あんた……!」
絶句する。
なぜなら、玄七郎の受け取った吉奴のシグナルは……。
「そうさ!」
五十八の大声が届く。玄七郎が顔を捻じ向けると、五十八は両目をぎらぎらと輝かせ、口は裂けんばかりに笑いに広げている。五十八は玄七郎に向かって言い放った。
「そいつは、男だ!」
遊客のシグナルは、男女の別がある。目を閉じていても、近くに遊客がいれば、性別を感じ取れるのだ。
普通遊客は、自分の性別を変えない。変えるのは特殊な趣味の持ち主で──。
「吉奴は電脳オカマなんだよ! 玄七郎、おめえは仮想現実で、電脳オカマと同衾したんだぜ!」
うひゃひゃひゃひゃ……、と五十八は仰け反って笑っていた。細い体が鞭のようにしなり、両手が蛇のようにうねっている。全身で五十八は笑っていた。玄七郎を。
玄七郎の胸に、静かに怒りが込み上げる。笑い続ける五十八を見上げ、詰問した。
「なぜだ……? なぜ、こんな悪ふざけを仕掛ける!」
ひょいっ、と五十八は思い出したというように、玄七郎の顔を見詰めた。顔には相変わらず、悪魔的な笑みを浮かべていた。
「面白いからじゃないか! 間抜けなお前が、俺の仕掛けた罠に引っ掛かって、しかも、二人一遍に〝ロスト〟するなんて、こんな笑える状況は、そうそう起きねえからな!」
なにい……!
玄七郎は立ち上がっていた。
ニタニタ笑いを続け、五十八は玄七郎に向けて、言い聞かせるように答えた。
「俺は現実世界に戻って、おめえの間抜けな顛末を面白おかしく、言い触らしてやる! ああ、今から目に見えるようだぜ! 現実世界のおめえは、自分が江戸仮想現実で〝ロスト〟したと知って、二度と江戸仮想現実に接続しようと思わないだろうな?」
五十八の言葉に、玄七郎は頷いていた。
そうだ、自分なら、仮想現実で〝ロスト〟したなら、二度と同じ仮想現実に接続しようとは思わないだろう。
いや、もしかしたら、仮想現実そのものを拒否するかもしれない。「羹に懲りて膾を吹く」というやつだ。
玄七郎は、笑い続ける五十八を睨みつけた。
そうだ、これが黒須五十八だ! 他人を踏みつけ、見下し、とことん馬鹿にするのが生き甲斐で、それが自分の頭の良さを証明すると思っている男だ。
卑怯者という言葉さえ、生温い。
怒りが、玄七郎に、それまで考えられない行動をとらせた。
玄七郎の腕が素早く動き、拳が固められ、笑い続ける五十八の顎を捉えていた。
ぼくっ! と籠もった音がして、五十八は殴られた衝撃できりきり舞いをして倒れた。
ずでん、どうっ! と大袈裟な音を立て、五十八は廊下に吹っ飛んだ。はっ、と顔を挙げ、殴られた頬を押さえている。目には、微かに恐怖の色を浮かべていた。
「貴様……!」
端正な顔が、怒りに歪んだ。
玄七郎は呆気に取られ、自分が仕出かした始末に、驚いていた。たった今、五十八の頬を殴りつけた、自分の拳を見詰める。
俺が他人を殴った? 怒りに任せて!
「野郎っ!」
五十八は、ぱっと弾けるように立ち上がり、拳を固めて殴り掛かってきた。玄七郎は思わず、防ぐようにして両手を上げる。
ばしーんっ! とド派手な音がして、五十八の渾身の力を込めた拳が炸裂する。
うあっ、と玄七郎は宙に浮いていた。そのまま背後の壁に、背中を厭というほど打ち付ける。
恐るべき遊客の力である。遊客は、外見は普通の人間と同じだが、筋力、反射神経ともに、数倍の力を秘める。狼並みの反射神経を持つ、マウンテン・ゴリラの筋肉を具えた怪物なのだ。
玄七郎は、ぐいっ、と壁から身を離した。ぱらぱらという音に振り向くと、打ちつけた壁が放射状に罅割れ、破片が散らばっていた。
それなのに玄七郎には、まるでダメージはない。
そうだ、俺は遊客なのだ! 江戸仮想現実では一種の超人といってもいい。
五十八が再び殴りかかる。玄七郎は身構え、衝撃に備えた。
二人の遊客が激突する。
壮絶な戦いが始まった!