五
玄七郎が予測したとおり、江戸城は蛻の殻だった。広大な敷地には、人気はなく、どこまで歩いても、誰何する声一つたりとも聞こえてこない。
江戸城に入るには、辰蔵に今一度、竜に変身させ、玄七郎と深雪は、塀を空から越えて潜入した。上空から見ても、江戸城が無人であるのは、はっきりと見て取れた。
辰蔵の背中に乗り、大手門を跳び越え、二の丸、三の丸を右手に見て、玄七郎たちは本丸前の地面に降り立つ。
玄関から、城内に踏み込む。玄七郎は、式台で履物を脱がず、土足でづかづかと廊下を歩いた。
こんな現場を見つかれば、大騒ぎだろうが、気にせず、ずんずん進んだ。
「将軍は、大奥にいつもいるんだろう?」
玄七郎の質問に、深雪は「さあ?」と首を傾げる。玄七郎はちょっと、不審を感じた。
「さあ……って、お前は将軍が送り出したんじゃないのか? 辰蔵、お前はどうなんだ。将軍には会ったこと、ないのか?」
深雪に抱えられた辰蔵は、自信なさげに、ゆっくりと頭を振った。
「おいら、気がついたら深雪に抱えられていたからなあ……。将軍様の顔なんか、一度も見ていねえよ」
「あたしも、同じ。気がついたら、黒書院にいたわ……」
二人の返答に、玄七郎は肩を竦めた。
まあ、いい。将軍の謎は、じかに会えば判る──はずだが、玄七郎には確たる予感はなかった。
もしかすると……。
玄七郎には、ある考えがあった。
江戸城の内部は、町と同じく、総てが新しく、どこもかしこも、新築の香りが充満している。畳は青々として、木肌はすべすべとしていた。
大奥を目指すといっても、江戸城は広い、
たちまち、玄七郎たちは、城内で迷ってしまった。深雪と辰蔵は、城内で迷子になった事実に、平然としている。玄七郎の不安な心情をよそに、珍しげに城の豪華な内装を眺めていた。
ともかく、奥へ、奥へと盲滅法、歩いてゆく。
襖を荒々しく引き開け、無人の城内を突き進む。
そのうち、ようやく、大奥らしき一画に行き着いた。
長い畳廊下の先に、どっしりとした木の扉が行く手を塞いでいる。扉には、大きく葵の御紋が金箔で浮かび上がっていた。
ここだ……。
訳もなく、玄七郎は、扉の奥が目的の場所だと確信していた。
隠密の冬吉は、将軍の籠もる大奥には、江戸開闢以来、誰も入ってはいないと語っていた。大奥は、江戸創立からの謎である。
玄七郎は、扉に手を掛けた。
開かない!
見たところ、鍵は掛かっていない。しかし、扉はがっちりと行く手を阻んで、玄七郎を拒んでいる。
がんがん! と、玄七郎は自棄になって扉を拳で叩いた。
「開けろ! 糞、誰もいないのか!」
喚いたが、うんでもなければ、すんでもない。
玄七郎は怒りに、身内に思いっきり力を込め、扉に手を掛けた。側にぼんやりと佇んでいる深雪に、鋭く声を掛けた。
「危ないぞっ! 離れていろっ!」
玄七郎の剣幕に、深雪は慌てて離れて見守った。
遊客としての力を最大限発揮して、扉を抉じ開けようと全力を揮う。
「う……おおおおっ!」
踏ん張る足下の畳が、ぐっと凹む。遊客としての、恐るべき腕力を、全解放している。
みしみし……と、扉を支えている鴨居が悲鳴を上げ、壁にぴしっ! と亀裂が走った。ぽろぽろと壁から破片が剥落し、遂に扉は玄七郎の力に屈服した。
がったん……! と大袈裟な音を立て、扉は外れ、玄七郎は横にぶん投げた。
「うひゃあ!」
辰蔵が歓声を上げる。
扉の向こうには、広々とした空間が広がっていた。
ただの空間ではなかった。
ぼんやりとした、白い微光に満たされた空間は、どこまでも果てしなく続き、所々にはスクリーンのような板が浮かんでいる。板には、江戸のあちこちが映し出されていた。
スクリーンに囲まれ、意外なものが玄七郎の目を引いた。
宝塔だ!
東照宮にあった宝塔と、同じ物が、空間のかなり奥に存在していた。
深雪を伴い、玄七郎は宝塔に近づいた。
宝塔の周りには、玄七郎の〝分身〟が操作していたような様々な表示が浮かんでいる。
深雪は怖々宝塔に近づき、声を上げた。
「なぜ、こんなものが、江戸城大奥にあるの?」
玄七郎は一人、頷いていた。
ふと浮かんだ考えは、今は確信に変わっていた。
深雪に向かって、説明する。が、深雪に説明するというより、自分自身を納得させるためでもある。
「これで、将軍は江戸仮想現実を操作していたんだ。東照宮にあったのは、多分、バック・アップ用の装置だ。東照宮で、データの上書き保存をしたとき、これもコピーされたんだろう……」
「コピー?」
深雪は玄七郎の言葉遣いが、さっぱり理解できない様子である。無理もない。深雪は江戸仮想現実NPCである。
玄七郎は唇を湿らせ、言葉を継いだ。
「つまり、あの時、江戸を修正するため、俺が夢想展開操作をしたとき、江戸がもう一つ生まれたんだ。五十八は、自分で仮想現実を作りたくて、色々と悪さをしたんだが、俺が五十八の意思を、知らない間に引き継いでしまったんだ。ここは、もう一つの江戸仮想現実なんだ……」
判らないながらも、深雪は、玄七郎の最後の言葉に何かを感じたらしい。深雪の大きな瞳が、さらに見開かれる。
「もう一つの江戸? つまり……」
「そうさ!」
玄七郎は頷いた。
「ここは、生まれたばかりの江戸なんだ! だから、人っ子一人、いない! だが、心配しなくても良い。俺が宝塔を使って、この江戸に人々を作り出してやる! 俺たちの江戸を、作るんだ!」
玄七郎の心は晴々としていた。
新しい江戸の出発を、自分が目撃するという展開に、玄七郎の心は躍っている。今、ようやく、玄七郎は新たな目的を見出した気持ちであった。
深雪の肩を抱き寄せ、玄七郎は宝塔に近づいた。
これが仮想現実操作装置なら、他の仮想現実に連絡する機能が付随しているはずだ。それなら、元々の江戸仮想現実がどうなったか、無事かどうかも確かめられる。
冬吉の運命が心配だったのだ。が、玄七郎は、あの江戸仮想現実が、危機を乗り切ったことを直感していた。
それに、新たな江戸の出発に、現実世界から遊客を呼び寄せ、江戸開闢の事業に参加させることも考えていた。
「じゃあ、あたしたち、江戸で暮らせるのね?」
深雪も朧げながら、玄七郎の言葉を理解したようだ。顔には、安心したような表情が浮かんでいる。
不意に、深雪は真剣な眼差しになった。
「それで……聞きたいんだけど」
「何をだ?」
「新しい江戸に、スルメはあるの?」
深雪の質問に、玄七郎は爆笑した。
「あるともさ!」
玄七郎は、宝塔に近づき、早速仮想現実接続掲示板に向けて、布告を発信した。
──江戸仮想現実開闢につき、参加される遊客を求む。当方と協力し、新たな江戸仮想現実を歩まれたし。
すぐに反応があった。何人もの仮想現実環境デザイナーが興味を示し、自分の得意分野を報告する。
──こちら江戸時代の考証について、経験あり! 貴殿の江戸仮想現実プロジェクトに参加したい!
──こっちは、建築設計に経験がある。江戸時代の建築再現の助力を申し出る!
──東京都公認の江戸は堅苦しく、ほとほと暮らし難い。そちらの江戸はどうか?
反響は、驚くほどだった。
ずらりと並んだ、協力を申し出てきた(遊客)の氏名を眺めているうち、玄七郎はある名前に視線を釘付けにされていた。
──鞍家二郎三郎。キャラクター設定の経験あり。
鞍家二郎三郎……! なぜ、今、俺の江戸仮想現実に呼び掛ける?
──そちらのお名前をお教え願いたい。
玄七郎はじっくりと、鞍家二郎三郎のメールを前に、確信を抱いた。
そうか! 俺は時を遡ったのかも、しれない!
最後に少し考え、署名を付け加えた。
──江戸仮想現実責任者《征夷大将軍》。