三
将軍は、こうなるのを判って、俺を東照宮へ向かわせたのだろうか?
光の中へ歩みながら、つい、玄七郎は奇妙な考えを弄んだ。まるで、将軍が未来を予見していたように思える。
そう言えば、開闢遊客の、鞍家二郎三郎が「将軍のお考えは、常に謎だ。だが、後で総てが明らかになると、将軍の指示は間違ったことは、一度もないのに、気付く」と玄七郎に言い聞かせていた。
開闢遊客にとっても、将軍は謎の存在である。玄七郎には、謎以上である。見えぬ手で動かされるようで、腹立たしいほどだ。
が、今は江戸仮想現実を救うのが、任務だ!
将軍のことは、綺麗さっぱり忘れよう……。
光の中は、何も見えない。真っ白に塗り潰され、眼底を通して、脳髄まで達するような光に、玄七郎はくらくらとなっていた。
ただ正気を保つのは、手にしっかりと握られている深雪の掌の温もりだ。
深雪のいる方向を見るが、何も見えない。総て強烈な光に溶け込み、前後左右、ただべっとりとした光輝に包まれている。
江戸──江戸──江戸のことを考えろ!
自分が暮らした、江戸の町を思い浮かべるのだ……!
一人、一人、江戸で出会った町人、侍、商人、棒手振り、百姓、漁師たちの顔を思い浮かべる。どの顔も、典型的な日本人の顔つきで、誰もかれも懐かしい。
玄七郎は、自分が江戸に対し、強烈な愛着を抱いているのに、気付いていた。
なぜだろう?
まるで、江戸仮想現実が、自分にとって最高に居心地の良い場所に思えてくる。
そうだ!
玄七郎は愕然となっていた。
それは、自分が、江戸仮想現実遊客となって、一度も現実世界で味わったような、居心地の悪さを感じていないせいだ!
なぜか現実世界では、玄七郎は常に自分が間違った場所にいるような気分を味わっていた。
しかし江戸仮想現実においては、最初の〝ロスト〟を経験した直後は別として、思い返せば、伸び伸びと行動していた。
そうだ、江戸仮想現実こそ、自分が暮らすべき世界なのだ!
たった今、ほんわり胸に湧いた結論に、自分が歩いている感覚も失せていた。
玄七郎は、頼りなさに、つい声を上げた。
「深雪! いるか?」
「ええ、玄七郎さん。あたしは、ここよ!」
「おいらもお忘れなく!」
辰蔵のきんきん声に、玄七郎はつい、吹き出していた。自分が笑えるという事実に、玄七郎は安心していた。
まだ正気は失っていない!
「もうすぐ……中心に……着くわ……」
何の中心だ? という疑問を、玄七郎は押し殺した。
不意に、玄七郎の視覚が、元に戻った!
「うわあああああっ!」
玄七郎は絶叫していた。
落下していた!
玄七郎は、空中を落下していた!
周囲を見回すと、紺碧の空に、もくもくと積乱雲が盛り上がり、その間を、玄七郎は深雪の手を握り締め、落下していたのだ。
もう一方の手を伸ばし、深雪の両手を握る。二人は手を取り合い、お互いの顔をしっかりと見詰め合い、墜落している。
「深雪! これは、夢か? 俺たち、本当に墜落しているのかっ?」
轟々と、空気が風切り音を立てる。玄七郎が思い切り喚いていても、自分の声すらほとんど聞き取れない。
それでも、深雪は空中で頷いていた。
「下を……見なさい……!」
深雪の指示に、玄七郎は恐怖を押し殺し、視線を下にした。
雲間から、江戸の町が俯瞰で見えてくる。
江戸湾、千葉房総半島、横浜など、現実世界でよく見た、地図の形がはっきりと見て取れる。玄七郎は、まっしぐらに、江戸の町へと落下していた。
「俺たち、このままお陀仏かい?」
玄七郎は、やっとの思いで、軽く深雪に尋ねていた。深雪はちら、と玄七郎に目を合わせ、微かに笑って見せていた。
深雪が、玄七郎の腕に掴まっている辰蔵に顔を向ける。
「辰蔵! 竜になるのよ!」
「よし来た!」
辰蔵が元気良く返事して、玄七郎の腕からぱっと離れる。
忽ち辰蔵は二人から距離を取り、空中で大きく手足を広げた。
こんな場所でティラノサウルスに変身して、どうなるってんだ……。
思わず言い掛けた玄七郎の口が、ぽかりと丸く開きっぱなしになってしまう。
見よ!
辰蔵は、今度は、本物の竜に変身していたのである!
ぐぐーっ、と辰蔵の胴が伸びていき、むくむくと直径が数倍になる。顔は長く変形し、鹿のような角が生えてくる。口許には髭が生え、空中を滑るように飛行していた。
「お待ちどうっ!」
相変わらずの甲高い声を上げ、竜に変身した辰蔵は、するりと玄七郎と深雪の身体を背中に掬い上げた。そのまま、空中を優雅に漂って行く。
玄七郎は必死に、辰蔵の背中に縋りついた。
くいっ、と辰蔵が空中で身を捻り、玄七郎と深雪に顔を捻じ向ける。
「さて、どこへお運びしやすかい?」
ニタリと辰蔵は笑って見せた。