二
玄七郎は、石段の頂上から、下を見た。
石段の途中では、冬吉が膝をつき、両手を合わせ、一心に祈っている。江戸が無事に救われることを、祈っているのだろう。
冬吉の背後からは、火炎が迫り、燃え盛る杉並木からは、濛々と煙が上がっている。
炎はぐるぐると円を描き、奥宮へ迫ってこようとしていたが、不思議にも、途中で見えない壁に突き当たったように、留まっている。
やはり奥宮は、〝結界〟に守られているのだ。炎の様子を観察し、玄七郎は確信した。
深雪に向き直り、口を開く。
「俺が必要だって? 江戸を救うのに?」
玄七郎を見詰める深雪の顔は、下からの照り返しで赤らんでいる。ふわりと、黒髪が、熱風に巻き上げられた。髪を掻き分け、深雪は頷いた。
「ええ。今まで、自分が何をすれば良いか、まるっきり知らなかったけど、ここに来て、すっかり思い出したの。江戸を正しい姿に戻すには、玄七郎さん。あなたが必要なの」
深雪の口調はしっかりとして、冷静だった。今までの、どちらかというと、幼児じみた態度は、完全に消え去っている。
「ふむ? どうして、俺が?」
「来て……」
深雪が腕を挙げ、招く。
無意識に、玄七郎は、深雪の手を握り締めていた。深雪は平然と、玄七郎と手を取り合って、歩き出す。
深雪は鋳抜門へと玄七郎を誘う。
門を潜ると、宝塔である。
が、宝塔には、異変が生じていた。
さっき、玄七郎の〝分身〟がプログラム作業をしていたときは、周囲にプログラムが表示されていた。
それが今は、宝塔そのものがばらばらに分解し、宙に浮かんでいた。ばらばらに分解された宝塔の部品は、竜巻のようにくるくると円を描き、回っている。
辰蔵が大声を上げた。
「うひゃあ! まさか、こんな酷いことになってるとは、思っても見なかった……。このままじゃ、江戸がバラバラになっちまう! 何とかしないと、おいらたち、最期だぜ」
玄七郎は辰蔵に向かって尋ね掛ける。
「何とか……って、何かできることが、あるのか?」
深雪が鋭く指摘する。
「例幣使の奉幣! あれはどこ?」
言われて、玄七郎は一瞬、戸惑った。が、すぐに思い出す。
例幣使の一行が壊滅し、勅使の駕籠が牛車に変形した一件である。牛車からは、巨象が現われ、姿を消したとき、一枚の錦布を残していった。
あの時は、何も考えず、玄七郎は拾い上げて懐に入れたが、まさか、今、必要とされるとは思わなかった。
玄七郎は懐から奉幣を取り出した。
「これだ」
深雪は奉幣を受け取り、じっと見詰めた。
すると、手にした奉幣が輝き出す。
宝塔が反応した。
それまでゆっくりと円を描いていた宝塔の部品が、出し抜けに速度を増し、激しく回転し始める。
深雪が宝塔に、奉幣を掲げる。奉幣はすっと宙に浮かび、そのまま宝塔へと向かって漂った。奉幣の輝きが増し、宝塔もまた輝き出す。
宙に文字が浮かんだ。
──江戸仮想現実プログラム・上書き保存手続きします
──上書き保存しますか? yes-no?
つまりは、奉幣は、江戸仮想現実データ・ファイルそのものだったのだ。
例幣使が定期的に東照宮に向かうのは、江戸仮想現実を安定した状態にする、必要な手続きなのだ。
宙に浮かんだ文字に、追加が生じた。
──仮想現実プログラム・上書き保存には、ユーザーによる夢想展開操作が必要です。
玄七郎は深雪を見た。
「何のことだ?」
「つまり、あたしたち、三人が必要なのよ。今、江戸世界は非常に不安定になっていて、いつバラバラになっても不思議じゃないわ。本当なら、あたしと辰蔵だけで修正できるんだけど、ここまで酷い状態になったら、もう、玄七郎さんの力がないと、どうにもならない」
玄七郎は、思わず仰け反った。
「俺は、プログラムなんか、何にも知らないぜ! どうして、俺が……?」
「江戸のことを考えて!」
深雪は、ぐっと玄七郎に詰め寄った。二つの瞳が、必死になって玄七郎を見詰める。
「今まで、江戸で暮らした日々を思い出して! 玄七郎さんが、江戸を思い浮かべてくれなければ、成功しないわ!」
「それで俺が必要、なのか……」
深雪は深く頷く。
玄七郎は宝塔を見た。
「ようし……やってやろうじゃないか!」
決意を込め、一歩ぐぐっと前へ踏み出す。深雪も玄七郎と肩を並べ、歩き出した。
宝塔がさらに輝きを増す。宝塔の輝きは眩いほどで、玄七郎は思わず目を細めていた。




