一
がらがらと崩れる本殿から、玄七郎は冬吉や深雪、辰蔵を伴って脱出した。
顔を挙げ、空を振り仰ぐ。
無数の黒雲が、凄まじい速度で、天空を動いていた。空には昼間だというのに、星空が輝き、ぐるぐると回転している。その間を、月が猛烈な勢いで動き、びゅんびゅんと太陽が中天を駈けていた。
不思議なことに、月と太陽という、明るい天体が空を動いているのに、空は妙に真っ暗で、星がくっきりと雲間に見えている。
本殿の炎は、東照宮周りに生えている杉並木に燃え移っている。
ぱちぱちと火の爆ぜる音がして、猛烈な熱気が、周囲の空気を熱していた。
玄七郎たちは、本殿から廻廊へと急ぎ、奥宮へ続く石段を駆け上がった。
深雪は冬吉が背負い、辰蔵は玄七郎の腕に縋りついている。
跳ぶように駆け登る一同を、ぐらぐらっと大きな揺れが襲う。
「今のはっ!」
冬吉が叫んだ。
玄七郎は直感で叫び返した。
「もしかしたら、浅間山が噴火したのかもしれねえっ!」
まったくの当てずっぽうであるが、玄七郎は自分の直感を信じていた。五十八が仕出かした〝荒らし〟が、遂に不安定さを露呈し、浅間山を噴火させた。
冬吉の顔色を見て、玄七郎はもう一度、叫んだ。
「愚図愚図してられねえぜっ! 急ぐぞ!」
玄七郎の叱咤に、冬吉は我に帰ったかのように、大きく頷き返す。
そうだ、一刻も無駄にはできない。
本殿から発した炎は、意思あるもののように動き、坂を駆け上がり、玄七郎たちの背後に迫っていた。
背中に、ちりちりと炎の熱を感じ、玄七郎たちは、石段を駆け登った。かなりの揺れだったが、石段はさすがに持ち堪えている。石組みには、一ミリとしてずれはなく、しっかりとしていた。
駆け上がった奥宮は、恐ろしいほど森閑としている。ここには燃え盛る火炎は、一切、近づいてはこない。もしかすると、一種の〝結界〟ができていて、奥宮を守っているのかもしれない。
ふと振り返ると、冬吉が蒼白な顔色で、階段の途中に立ち止まっていた。
「い、いけませぬ! 拙者、どうにも、こうにも、足が動きませぬ!」
深雪が身動きし、するりと冬吉の背中から降りて階段に足をついた。ひた、と冬吉を見詰め、頷く。
「いいわ。あなたは、ここで待ちなさい」
「深雪……」
言い掛ける玄七郎を、深雪は視線で抑えた。
「冬吉には無理だわ。行きましょう。これから先は、あたしと、玄七郎さんが江戸を救う役目を負うのよ」
深雪の言葉に、冬吉は、がっくりと首を垂れた。
「まことに、相済みませぬ! 冬吉、一生の不覚……!」
すたすたと階段を登っていく深雪に、玄七郎は思わず尋ねていた。
「深雪、どうやったら、江戸仮想現実を正常に戻せるか、お前には判っているのか?」
上りきった深雪は、じっと玄七郎を見詰めた。二つの瞳は、瞬きもせず、冷え冷えとさえしている。玄七郎が初めて見る、深雪の表情だった。
「ええ。今ようやく思い出したの。江戸を正常に戻すのには、あたしと……」
深雪の視線が、玄七郎の腕に縋りついている辰蔵に向かった。
「そこの辰蔵。それに……」
再び深雪は、玄七郎の顔を見詰めた。
「あなたが必要なの」
「俺が?」
玄七郎は、驚きに、江戸仮想現実の崩壊という恐怖を忘れていた。




