五
玄七郎が顔を上げると、遊郭の上がり框に、すらりとした姿の女郎が、しどけなく横座りをしている。
卵形の顔。目は切れ長で、やや吊り上がっている。唇は小さく、真っ赤な紅が鮮やかだ。襟は大きく抜いて、首筋から肩の線が大胆に露出していた。
「な、何だ……。吉奴姐さんが、先約なのかい……。それを早く言ってくれなきゃ……」
女郎たちが、吉奴と呼ばれた女郎の出現に、大慌てに虚たえた。そそくさとその場を離れ、新たな客を求めて散ってゆく。
「おい!」
五十八が、思い切り玄七郎の背中をどん、と押した。玄七郎は踏鞴を踏みながら、遊郭の内部へ足を踏み入れた。
くた! と膝から力が抜け、玄七郎は蹲るように上がり框に両手を掛けた。ふっと顔を上げると、こちらを覗きこんでいる吉奴の二つの瞳と、間近に合わせていた。
にいーっ、と吉奴が微笑を浮かべた。薄桃色の舌先が覗き、ちろちろと唇を壮んに舐めまわす。
つい──、と吉奴は視線を外し、出入口で腕を組んでいた五十八に声を掛けた。
「気に入ったよ! なんとも初心いのが、あちし好みさ!」
五十八も、口の端を吊り上げた笑いを浮かべる。
「そうだろう。こいつは俺の親友だからな。おめえに、たっぷりと、もてなして貰いてえんだ!」
親友、という五十八の言葉に、玄七郎は「はたして、そうだろうか?」と思い切り首を捻りたい気持ちだった。しかし玄七郎には、吉奴の顔から視線を外すことが一切、不可能になっていた。
吉奴は再び玄七郎に視線を戻し「今夜は離さないから!」と小首を傾げる。
そろり、と立ち上がる玄七郎に、五十八が背後から「しっかりやれえ!」と声援を送ってきた。
何を「しっかり」やるのだか……?
呆然としていた玄七郎に、遊郭の使用人がわっと取り囲み、履物を脱がせ、手取り足取り、上がり框に上がらせる。
するっと吉奴が身体を寄せて、しっかりと玄七郎の腕に自分の腕を絡ませた。
「ね、あっちへ……」
耳もとに熱い吐息と共に語り掛ける。
玄七郎はぼうっ、となったまま、漂うような気分で足を動かしていた。
ぐいぐいと吉奴は玄七郎に、自分の身体を押し付ける。着物の上からも、吉奴の肌が熱くなっているのが、はっきりと判った。柔らかな身体の線が、粘っこく纏わりついた。
玄七郎の全身は強張っている。ぎくしゃくと木偶人形のように、吉奴に導かれながら、遊郭の奥へと足を前後に動かしていった。
どこをどう、歩いたのか、気がつくと目の前に、ぼってりとした布団が一組置かれている。ふと手をやると、玄七郎の手首まで、ずっぽりと埋まった。
まるで羽根布団である。江戸に羽根布団って、あったかなと、玄七郎は余計な考えを弄んだ。
きいきいきい……と、奇妙な笑い声を吉奴が上げていた。顔つきに似合わない、引き笑いである。
「そう、カチンコチンにならなくても……。あんた初めてなんだね……。大丈夫、あちしが、全~部、教えてあげるから……!」
吉奴の言葉に、玄七郎はカチンとなって何か言い返そうと思った。
その時、襖が音もなく開き、廊下に遊郭の番頭らしき男が座っていた。
男の前には、膳部が置かれ、酒肴の用意がなされている。
「五十八様よりお届け物で御座います」
膳部の酒肴を目にして、吉奴が嬉しげな声を上げた。
「五十八の旦那、気がつくじゃないか! ね、玄七郎様。一杯いかが?」
するりと酒器を手に取り、なみなみと盃に注ぐと玄七郎に差し出した。
玄七郎は十八歳。従って法律上、酒は御法度だが、ここは仮想現実の江戸である。本当にアルコールを摂取するわけではないから、呑んでもいいのだ。
「あちしも、御相伴」
吉奴も自分の盃に注ぎ、目の高さに持ち上げた。
「これが、固めのお酒!」
二人で同時に、唇に近づけ、飲み干した。酒は、意外と玄七郎の口に合った。玄七郎が飲み干したのを見て取り、吉奴はお替りを注ぐ。
同じようにして、二人は二杯目、三杯目を飲み干した。
玄七郎は自分の緊張を解すため、吉奴は……どんな了見か判らない。ただ、酒が好きなだけかもしれない。
ことりと玄七郎の指先から、盃が畳に落ちてゆく。
玄七郎は前のめりになって、上体を傾けた。
不意の眠気が襲ってきた。
それきり、後は何も判らない。