二
気がつくと、体の自由が奪われている。
五十八に詰め寄ろうとした玄七郎であるが、一歩も動けない。玄七郎に浮かんだ驚愕の表情を見て、五十八は「くっくくく!」と、肩を震わせて笑った。
「今頃やっと気がついたか! そうさ、お前は今まさに、俺の仕掛けた、金縛りに遭っている! 今から、ゆっくり料理してやるから、楽しみにしていろ!」
玄七郎は、ちらっと、横目で冬吉を盗み見た。玄七郎の視線を感じた冬吉は、否定するように、何度も首を横に振った。つまり、冬吉もまた、五十八の金縛りに囚われている!
首は動かせるが、足はぴったりと床に吸い付けられ、一歩も前へ動けない。いや、動こうという気力が、そもそも湧かない。
五十八は「あっははは!」と、仰け反って笑っていた。
「相変わらず、間抜けで、馬鹿な奴! 俺の誘いに、のこのこ東照宮まで出張ってきて、あげくに俺に奉仕する羽目に陥るとは、お前は史上最低、最悪の、大馬鹿野郎だぜ!」
玄七郎を罵る五十八は、気持ち良さげに言葉を続ける。他人を馬鹿にするときの五十八は心底、楽しそうである。
「ここに集まっている江戸NPCの役割を、考えていなかったようだな。こいつらは、お前を捕まえるための、蜘蛛の巣だ! NPCによる思考の網が、お前を絡め取っているという寸法さ! こいつらは、正真正銘、俺様を信仰している! 一点の疑いもなく、俺が極楽浄土を開いてくれると、信じている。まあ、俺が新たな仮想現実を構築するのが、極楽浄土とは言えるかもしれないがな」
肩を竦め、五十八は頭に被っていた蓮華笠を毟り取った。
「ああ、重かった! さて、玄七郎。お前の才能を、俺が頂く段取りだが……。説明して欲しいか?」
猫が得物を嬲るがごとく、五十八の両目が爛々と煌いた。
火明かりに照らされた五十八の横顔は、黒々と隈ができて、悪魔的な風貌を現出させていた。
「俺たちは仮想現実に、脳パターンをコピーして活動している。見掛けは完全に、普通の状態だ。ところが、知っての通り、俺たちは双方、ただの電子データに過ぎない。データであるから、当然、書き換えも可能だ!」
言い放ち、ゆっくりと頷いた。
「そうさ! お前の、夢想力を司る、電子データ・パターンを、俺様がカット&ペーストさせて貰うのさ! お前には必要のないものだからな!」
一歩、五十八は玄七郎に近づいた。
「さあ、よこして貰おう……。俺が、最高の仮想現実環境デザイナーになるために!」
もう一歩、ぬっと近づいた五十八の顔に、からかう色が浮かんだ。視線は、玄七郎の腕に掴まっている、辰蔵に向けられている。
「さっきから気になっていたんだが、お前の腕にある、そいつは何だ? 縫いぐるみみたいだが、お前がそんなもの、大事にする性格とは、知らなかった」
にやっと笑った。
「それにしても、えらく見っともない、不っ細工な縫いぐるみだなあ! よっぽど、作った人間は、センスがなかったんだろうな!」
途端に、辰蔵の口が、ぱかっと開いた。
「なんだとお! もう一遍、言ってみやがれ! おいらが、何だって? てめえの鼻の穴に、腕ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ・グタグタ言わしたろうけえ!」
五十八の顔色が、さっと青醒めた。両目がぽかりと見開かれ、がくりと腰が抜けたようになり、すとんと、その場に座り込む。
「そ、そいつは、何だっ!」
わくわくと唇を震わせ、腰を抜かしたまま、ずりずりと後じさる。
辰蔵は玄七郎の腕からピョンと床に飛び降りると、そのまま五十八のところまで一気に駈けて行く。ぐっと顔を突き出し、五十八を睨みつけた。
「おう! あんちゃん、さっきから、随分と勝手な御託をほざいてくれたなあ! おいらは、こんなナリをしちゃーいるが、辰蔵様って御立派な名前があるんだいっ!」
五十八の両目に、薄っすら涙が溢れた。いやいやをするように、何度も首を振り、少しでも辰蔵から遠ざかろうとする。
玄七郎は、やっと思い出した。五十八が、お化けとか、幽霊とか、怪談話の類を、死ぬほど怖がっていたのを!
「い……厭だあ……。怖いよお……!」
拳を固め、口許に近付けた。そのまま前歯で、かりかりと噛む。
玄七郎は、身動きできるのを感じた。ふっと、全身を押さえつけていた圧迫感が消え去り、手足が動く!
五十八をすっかり怯えさせた辰蔵は、完全に得意になっていた。
「ざまあ、ねえや! おいらは、こう見えても、征夷大将軍様、直々のNPC様だい! どうだ、畏れ入ったか?」
辰蔵の言葉を耳にした五十八の顔色が、即座に元に戻った。
「何だ、お前はNPCか! ちぇっ! 怖がって、損した!」
さっと立ち上がり、憎々しげな表情になる。
「よくも……俺様を、脅してくれたな! 覚悟しやがれ!」
五十八は懐から独鈷を取り出し、握り締めると、先端をさっと辰蔵に向けた。
ばりばりっ! と独鈷の先端から青白い紫電が放たれ、辰蔵の全身を包み込んだ。
「ぎえ──っ!」
辰蔵は立ち尽くしたまま、悲鳴を上げた。
紫電が消えると、ぱちぱちと辰蔵の全身から煙が上がっている。両目を飛び出させ、辰蔵は、がくりとその場に横倒しになった。
ポイと五十八は、軽く辰蔵を蹴り上げると、さっと周囲を見回す。
「玄七郎っ! 次は、お前の番だ!」
玄七郎は、すでに深雪の近くへ駆け寄っていた。
「深雪っ! 俺が判るかっ!」
両手で、深雪の肩を掴み、揺り動かす。だが深雪は、ぐらぐらと木偶人形のように、頼りなく頭を振っているだけだ。
深雪の目には一片の意思もなく、感情も浮かんでいない。
冬吉は、五十八に倒された辰蔵の側に駆け寄っていた。両手で掴み上げると、真剣な表情で叫び掛けていた。
「辰蔵殿っ! 具合は、いかがで御座るかっ?」
辰蔵の口から、ぽあ──と、煙が吐き出される。
「う──い……。今のは、ちょいとばっかし効いたぜ……!」
冬吉の表情が綻んだ。
「御無事で御座ったか……。それは重畳!」
辰蔵は憎まれ口になった。
「けっ! おいらが、あんなヘナチョコな雷なんぞで、死ぬものけえ!」
さっと冬吉の腕の中で、玄七郎に顔を向けると、大声で叫んだ。
「玄七郎っ! 街道での出来事を思い出せっ!」
玄七郎は、辰蔵の言葉に、街道で起きた自分の変化を思い出していた。
そうだ! 自分には、あの力がある!