一
本殿の前に辿り着くと、冬吉が玄七郎を待ち兼ねたように、飛び出してきた。
「玄七郎殿! おりましたぞ!」
四角い顔には、興奮が差し上っている。が、用心のためか、声はやっと聞き取れるくらい。
冬吉の表情を見て、玄七郎は小声で囁き返した。
「深雪か?」
冬吉は強く頷いた。
それ以上の会話を続けることなく、玄七郎は無言で本殿に向かった。すでに本殿には、五十八によって呼び集められた村人や、侍、商人たちが、建物の中にぎっしりと詰め込まれている。
全員、気味が悪いほど静かで、しわぶき一つ聞こえてこない。
本殿内部は薄暗く、戸口からの明かりだけが頼りだ。
玄七郎は遊客の力を封印しているので、視覚を暗視モードにして、暗闇でも見えるようにはできない。
それでも、立ち尽くすうちに、瞳孔が暗闇に慣れてきた。
窓という窓は、総て閉め切られ、奥のほうに、護摩壇のような施設が設えてある。榊に御幣が飾られ、鏡が据えられている。
護摩壇に向かって、一人の人物が背中を見せ、座っている。姿形は行者に見え、頭には蓮華笠を被っていた。阿闍梨と呼ばれる、行者の姿である。
阿闍梨は、何やら一心不乱に、真言を唱えているようである。
背中側なので、顔は見えない。が、玄七郎は、阿闍梨が五十八の変装と見抜いていた。
なぜなら、阿闍梨からは遊客の気配がしているからだ!
いったい、何が行われているのか。しかし玄七郎の胸に湧いた、当座の疑問は消えうせていた。
護摩壇の向こうには、深雪がいた!
阿闍梨が何かを護摩壇に投げ入れると、ぼっと赤い炎が立ち上り、深雪の顔を明るく染め上げた。
深雪は無表情に、護摩壇を見詰めている。ぴくりとも身動きせず、視線は真っ直ぐ、前を見詰めたままだ。
「先ほどから、ずっと、ああで御座る。よっぽど、声を掛けようかと思いましたが、堪えました」
冬吉が玄七郎の耳元に囁き掛けた。玄七郎は無言で、頷いた。
深雪の背後には、曼荼羅が掲げられている。曼荼羅に、護摩壇からの炎が照り返し、複雑な影が踊る。見ていると、吸い込まれそうになる。
玄七郎は、やっとの思いで、曼荼羅から視線を引き剥がした。
周囲の人々は、ぼうっとして、目を虚ろに見開いたまま、曼荼羅を見詰めている。どうやら、曼荼羅には催眠効果があるようだ。
「何がおっ始まるってんだ?」
「極楽浄土が、開くので御座る」
答に、玄七郎は慌てて冬吉の四角い顔を見た。冬吉は片頬に皮肉な笑みを浮かべる。
「無論、拙者は信じてはおりませぬ。ただ、ここに集まる人間が、そう信じておるようなので、御座いまするよ」
阿闍梨の真言が、甲高くなった。
絶叫するごとく真言を唱え、阿闍梨は背筋を反らし、両手を細かく震えさせる。
その時、本殿に集まる群衆から、低い唸りのような声が漏れてくる。
云──ん……。
云──ん……。
響きは一つになり、本殿を包み込んだ。
玄七郎の背筋が、ぴりぴりと緊張していた。何か、とんでもない出来事が勃発する、そんな予感に、玄七郎は身を強張らせた。
曼荼羅が輝き出した!
阿闍梨の前に置かれた鏡も、呼応するかのように、光り始める。
護摩壇の炎が勢いを増し、火炎は天井を焦がすほど立ち上った。熱気が、塊のように、玄七郎にまで届く。炎のせいで、向こうにいる深雪の姿が隠れてしまう。
「行くぞ」
低く囁き、玄七郎は、するすると移動を開始した。冬吉も、後に続く。
床に這い蹲るほど姿勢を低くし、人々の間を掻き分けるようにして、阿闍梨に近づく。
阿闍梨の顔を確認した。
間違いない、顔は黒須五十八だ。
身に着けているのは、行者姿であるが、顔は忘れもしない、五十八のものだ。今は、両目に熱狂的な光りを湛え、忘我の表情になっていた。
玄七郎は遊客の能力を蘇らせた。同時に、遊客としての気配が生じる。
ぎくり、と五十八は玄七郎の気配に気付いた。顔がぐいっとこちらを向き、両目が爛々と光った。
玄七郎は、それまでの変装を解いた。冬吉も、菰から両刀を取り出し、腰に差す。
「玄七郎っ! 来たかっ!」
「来たとも! お前の招きに応じてな! 何をするつもりなんだっ!」
玄七郎は声の限りに叫んでいた。
五十八は「はっ!」と笑顔になった。邪悪さを孕んだ、五十八独特の笑顔である。玄七郎を〝ロスト〟の罠に掛けたときと、まるっきり同じ笑顔である。
「大分、俺のことを嗅ぎ回ったらしいな。確か、鞍家二郎三郎とかいう、江戸仮想現実開闢遊客が現実で、俺を調べていたらしい。だから、俺の狙いは、お前も承知しているはずだ。違うか?」
玄七郎は、ゆっくりと頷いて見せた。
「ああ。聞いているよ。お前は、仮想現実環境デザイナーになりたいそうだな? 生憎だが、それには、ちっとばかし、いや、大量に才能がないと聞いているけどな」
わざと挑発すると、五十八の顔に、一瞬だが怒りがよぎった。
さっと立ち上がり、玄七郎に向かって、指差した。
「ふざけるな! 俺を馬鹿にするつもりだろうが、そうはいかん! お前はもう、俺の罠に掛かっているんだぞ! ざまあ見ろ、もう逃げられん! お前は、俺のために、もう一度、役に立ってもらう……!」
五十八の態度は自信たっぷりで、微塵の揺らぎもなかった。玄七郎は、奇妙に思った。五十八の狙いが、さっぱり読めない。
周囲の群衆は玄七郎と五十八の罵り合いに、全く動揺を見せてはいない。相変わらず、ぶつぶつと口の中で念仏を唱えたり、身体を左右に揺らして、唸り声を唱和している。
まるで意思と言うのが、群衆からは感じなかった。深雪もまた、微動だにせず、まっすぐ護摩壇の炎を見詰めているだけだ。
「教えろ、五十八。何をするつもりだ?」
五十八の顔に、再び邪悪な笑顔が戻った。背筋を反らし、腰に両手を当てる。
「お前の才能を、俺が頂くのさ!」
「何っ?」
玄七郎は、五十八の言葉に、戸惑っていた。




