五
奥宮拝殿に続く長い石段を登る。石段は、総て一枚石だ。霜などで浮き上がり、石組みが壊れないための、配慮である。一段、一段、念のために数を数えると、二百七段もあった。
玄七郎は、東照宮に足を踏み入れたときから、遊客の気配を消している。その代わり遊客としての、爆発的な筋力、底なしの体力は封印される。気配を殺している間は、普通の江戸NPCと変わらない人間となるのだ。
江戸仮想現実で、最初に出会った電脳オカマ──吉奴──から習った技術だ。吉奴は、自分が本当は男であるのを、他の遊客から隠したいために、気配を殺す技術を編み出したらしい。
東照宮にもし、五十八がいれば……いるに決まっている! 玄七郎を確実に待ち受けているだろう。
そんな罠があると判っている所へ、自分の存在を宣伝する馬鹿はいない。
だから玄七郎は、自分の遊客としての気配を消して行動している。
その代償は、長い階段を喘ぎつつ、えっちらおっちら、登って行くという辛さである。遊客の能力なら、息も切らさず、鼻唄混じりに、駆け上がっている。
ようやく、玄七郎は、階段を上りきった。
上りきった所が、拝殿となる。黒漆が柱や、造作に使われ、屋根は銅板を葺いている。
人気は感じられない。
玄七郎は「さて、どうするか?」と考え込んだ。
「入らないのか?」
腕にしがみついている辰蔵が、低く声を掛けて来た。
玄七郎は、黙って拝殿正面の扉に向かった。正面は唐破風造りになっていて、玄七郎は「銭湯みたいだな」と思った。
もっとも、玄七郎が現実世界にいた頃の記憶である。江戸仮想現実の銭湯は、もっと簡素な造りになっている。
そのまま、観察のため、ぐるりと周囲を回った。
拝殿の先には、鋳抜門があった。確か鋳抜門の先に、家康の霊廟である宝塔があるはずだ。現実世界の江戸では、そこに家康を祀っている。
しかし、ここは江戸仮想現実である。家康は、本来は存在しない。
再び、入口へと戻り、今度は思い切って拝殿の階段を駆け上がる。扉を押すと──簡単に開いた。
軋み音など、一切なく、扉は滑らかな動きで開かれた。
何があると期待していたのか、玄七郎自身でも判らないが、拝殿の内部にあったのは、完全に予想を裏切るものだった。
時計だった。
部屋の中央に、一つだけ、巨大な時計が、でんと置かれている。
もし、江戸科学技術史に関心がある人間なら、一目見て、即座に「万年時計である!」と看破しただろう。
正式名称は《万年自鳴鐘》。製作は、後の東芝創立者である田中久重(一七九九~一八八一)である。
一度でも発条を巻けば、一年間ずっと時を刻み続け、不定時法の和時計。月齢、太陽と月の位置、二十四節気、十干十二支、洋式時計、曜日まで表示する。
玄七郎の見ている万年時計は、大きさは優に、玄七郎の背丈ほどもある。本当の万年時計は、こんな大きさではない。
万年時計の知識はないが、何か異様なものを感じ、玄七郎はゆっくりと近づいた。
ふと見ると、辰蔵は身動きもしない。飛び出した二つの目玉は、ひたと万年時計に向けられている。
「おい、どうした?」
「時計が……」
言い掛け、辰蔵は黙り込んだ。
玄七郎は今度は、まじまじと観察する。
笑い出した。
「何だ……。この時計、故障中じゃないか!」
時計の針が、逆回転していたのである。逆回転だけでなく、総ての盤面を指す針が、急速に回っていたり、あっちこっちにふらふら彷徨ったり、てんでんばらばらの動きをしていた。故障と判断したのも、無理はない。
辰蔵は笑わない。
ただ、じっと身動きもせず、時計を見ているだけである。
玄七郎は再び、声を掛けた。
「なあ、どうしたってんだ? ただの、ぶっ壊れた時計じゃないか!」
「いいや。壊れてなんか、いないぜ」
いやにゆっくりと、辰蔵は答えた。
「この時計は、ただの時計じゃない! 時を司る時計なんだ……。時計がこんな動きをしているということは、時が狂っている証拠なんだ!」
玄七郎は、江戸から日光に来るまで、日にちがまるっきり、当てにならなかったのを、思い出していた。
「それじゃ、黒須五十八の仕業なんだな?」
しかし辰蔵は、頭を振った。
「おいらは、そう思わないな。何か、別の原因があるはずだ。何が原因か判らないけど、ものすごく危険な予感がするよ」
「お前の言葉は、さっぱり理解できねえ! 謎解きは、俺の趣味じゃないしな!」
玄七郎は苛々して呟いていた。
と、辰蔵が、ぎくりと身を強張らせた。
「あの音は?」
玄七郎は身を固くして、耳を澄ませた。
かちゃり……と、外で微かな物音。
大急ぎで拝殿から飛び出すと、息を殺して周りの杉並木に飛び込み、身を隠す。
音は、鋳抜門からしていた。
銅板の門が開き、一人の人物が姿を現した。
玄七郎は息を呑んだ。
姿を現したのは、黒須五十八であった!
ひょろりとした痩身、役者にしたいほどの二枚目顔。
玄七郎を〝ロスト〟の罠に掛けた、憎んでも飽き足らない相手である。
怒りのあまり、即刻さっと飛び出して、五十八の首に両手を巻き付けたい。そんな激烈な衝動を、玄七郎は脂汗を垂らして抑えた。
今は、その時ではない!
遊客の気配を殺していて、良かった! もし、遊客の気配を発散させたままだったら、完全に気付かれていた。
五十八は、なぜか苛々しているようだ。
背後を振り返り、舌打ちして叫ぶ。
「何を愚図愚図してやがる! さっさと、出てこねえか!」
「判ったよう……」
五十八の叱声に、弱々しい声が答える。
足音がして、もう一人の人物が、門を潜って五十八に並んだ。
玄七郎は、目を見開いていた。
驚愕に、五十八への憎しみも忘れている。
もう一人の人物とは、何と、玄七郎自身だったのである!