二
鹿沼という宿場で、玄七郎たちは休憩を取ることにした。江戸から離れた山間ではあるが、宿場は賑っている。
冬吉の説明では、元々は一万五千石の鹿沼藩として内田氏が治めていたが、第四代の内田正親の改易転封で、例幣使のための宿場町となったという。
飯屋を見つけ、玄七郎は張り切った。
「さあさあ、飯にするぞ!」
暖簾を潜り、店内に入る。入ったすぐが土間になっていて、板の間の席が並んでいる。
江戸では、遊客の影響で、卓と椅子という組み合わせの店構えが多いのだが、ここは昔からの膳部を使うらしい。
席に着くと、すぐに店の者らしい、老婆が注文を取りに出て来た。
冬吉が相手をする。
「婆さん、この店では、何を出す?」
「へえ」と老婆は、息が漏れるような返事をして、軽く頭を下げた。
「旦那様方のお口に合うかどうか、判りませんが、山菜と、川魚の煮しめ、漬物くらいなもんで……へえ……」
「それでいい! 人数分、早く出してくれ!」
玄七郎が急き込んで割り込むと、老婆はまた「へえ」と頼りない返事をして、頭を下げた。そのまま、ふわふわと漂うように、奥へと消える。
大丈夫かな、と思ったが、意外と飯は早く届いた。
白米、煮しめ、漬物、味噌汁などが、膳に運ばれ、玄七郎はにんまりとなった。
惣菜を口に運び、噛みしめる。
まあまあ行けたが、味が濃い。というより、恐ろしく塩辛い。漬物の梅干など、まるで塩の塊である。
江戸ではこれほど、味付けを濃くはしない。遊客が頻繁に訪れる江戸では、きつい塩味は、敬遠されるからだ。
しかし田舎では、そうではない。何しろここは江戸時代を再現した、仮想現実なのだ。当然、冷蔵装置などないから、食品を保存するには、塩をたっぷり、使う必要がある。
さらに、江戸時代の基本として、惣菜は、白米を腹いっぱい食べるための付け合せ、くらいしか認識されていない。近代的な栄養学など、まだまだである。
それでも冬吉の「兵糧丸」よりは、遙かにマシである。玄七郎は、久しぶりに味わう、人間らしい食事に、舌鼓を打った。
深雪を見ると、不満そうである。玄七郎は声を掛けてみた。
「どうした?」
「スルメはないの?」
旅の途中、深雪のお気に入りであるスルメは、とっくに切らしていた。口にできないので、深雪は大いに不満そうであった。
玄七郎は相手するのが馬鹿らしく、肩を竦めた。
食事が終わり、茶を喫していると、外が俄かに騒がしくなった。
「えいえいえい! おうおうおう!」
「わっしょい、わっしょい、わっしょい!」
掛け声と同時に、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ……と鉦の音が混じる。どんどんと、太鼓が叩かれ、大人数の足音が近づいた。
玄七郎は老婆に声を掛けた。
「婆さん、ありゃ、何だ?」
「へえ……。雨乞いでごぜえますだ……」
「雨乞い?」
冬吉が興味を示した。
「田植えには、まだ早過ぎるのでは? まだ、四月で御座るぞ」
冬吉の言葉に、老婆は小さな奥目をしょぼしょぼと瞬いて、精一杯の声を張り上げる。
「あんれまあ! 旦那様、あに言うだよ! 四月はとうに過ぎて、今は皐月だあ!」
玄七郎と、冬吉は顔を見合わせた。
「どうなって御座る? どう考えても、拙者らは、一月以上も、旅をしていたとは思われぬが……」
「時が混乱しているようだな。俺たちには僅か、数日だが、ここいらの人間にとっては、今は五月なのかもしれない」
玄七郎の言葉に、冬吉は不安そうな表情を浮かべた。
「となると、日光東照宮では、すでに神君の御霊を慰める行事は終わっているのかも」
玄七郎は首を振った。
「いいや、そうとも限らないぜ! ここに来るまで、俺たちはごちゃごちゃの季節を旅してきた。ある場所では冬、別の場所では夏、お天道様も、当てにはできなかった。所によって、日にちが進んでいたり、戻っていたりしていた……。東照宮の異常を収拾しない限り、時は正常に戻らないんじゃないか。俺は、そう思っている」
二人が熱心に話し込んでいると、深雪は関心を、外から聞こえてくる、雨乞いの祭りに移していた。
ふらり──と立ち上がり、出口へ向かう。
玄七郎は迂闊であった。
深雪が一旦、興味を示したら最後、制止の声など、完全に無視するのを忘れていた。
からり、という戸を引く音に、玄七郎は目を上げる。深雪が興味津々に、外を覗き込んでいるのが、目に入った。
「おい……」
俄かに不安が湧き、玄七郎は深雪を制止しようと立ち上がった。
「わっしょい、わっしょい!」
「雨降れ、雨降れ!」
轟く足音と、掛け声が近づいてくる。冬吉も立ち上がる。
ぴた! と、祭りの喧騒が止んだ。
不気味な静寂が、時を凍りつかせる。
「姫様じゃあ……!」
歓声が湧き上がった。どっと熱狂が、戸口の外から店内に吹き込んでくる。
「姫様の御降臨じゃ! 目出度い、目出度い!」
わっ、わっと、数十人もの喚き声が突然、集中する。
「きゃあ!」と深雪が叫び声を上げた。
いきなり、数人の腕が伸び、戸口で見物している深雪の手足を掴む。叫び声を上げる深雪は、一瞬にして、外へと引き寄せられた。
しまった! と、玄七郎は臍を噛んだ。
深雪から目を離すのではなかった……。
だだっと玄七郎と、冬吉は深雪を追って、外へと飛び出した。
目の届く限り、半裸の男が褌一丁で踊り狂っている。通りを塞ぐように、巨大な山車が悠然と通り過ぎた。
山車には数十人の男女が鈴なりになって、紙吹雪を撒き散らしたり、笛、太鼓、鉦などを、半狂乱で演奏していた。
深雪の姿は──。
どこにもない。
いなくなっていた!
誘拐されたのだ!




