五
「冬吉っ! 殺すなよっ!」
「承知!」
背中合わせになって、玄七郎は冬吉に叫ぶ。
じりじりと、二人を行列の供侍、小者たちが取り囲む。全員、手に手に得物を持ち、いつでも襲い掛かる姿勢である。
奇妙なのは、全員、完全な無表情で、何の感情も表していない。命の遣り取りをするという、ぴりぴりとした緊張感は、欠片も感じられないのだ。
やはり、精神控制されているのか?
ふら──と、緩慢な動きで、一人が刀を振り上げた。恐ろしく鈍重な動きで、待ち構えていると、欠伸がでるほど、のろのろとしている。
玄七郎は手にした三節棍をぐいと振り上げ、楽々と相手の刀を擦り上げた。
からっ、と軽い音がして、相手の刀は明後日を向いて、手から離れてしまった。
がちゃり! と音を立て、刀は地面に転がる。
手から離れた刀を、攻撃してきた小者は、ぼんやりと見やっている。のろのろと膝を突き、じれったいほどゆっくりと手を伸ばす。
玄七郎は呆れた。
相手にするだけ馬鹿らしい。
顔を挙げ、ティラノサウルスと、巨象の戦いに目をやった。
こちらは、本格的な戦いが繰り広げられている。
ティラノサウルスの首には、深雪が真剣な表情でしがみついている。
巨象は二本の巨大な牙を、ティラノサウルスに突き立てようと狙っている。ぐわっ、と頭を振り、牙を突き刺す。
だが、ティラノサウルスの動きも素早く、寸前で躱し、今度は大口を開け、噛み付く構えである。
どちらも動きは敏捷で、お互いに決定的なダメージを与えるべく、攻撃を繰り返している。
かん! かん! という音に振り向くと、冬吉がたった一人、大童になって、数人の相手をしている。
冬吉は自分の差料を鞘に収め、敵から分捕った手槍を使って、攻撃を防いでいる。たった一人で、数人を相手にしているのに、冬吉は楽々と防御できている。
何しろ、相手の攻撃が、眠気を催すほど鈍く、三歳の童子でさえ、逃れられるほどである。遊びの鬼ごっこと、同等であった。
相手に、本気で攻撃する気があるのか、どうかさえも、疑わしい。
「玄七郎殿。これは、どう考えればよろしゅう御座るか? これでは、思わぬ怪我を相手にさせてしまうかもしれませぬな!」
冬吉の声には、不満が目一杯に溢れていた。
江戸城御庭番忍者の冬吉にとっては、今の戦いは、己の腕を馬鹿にされていると感じているのだろう。これでは、戦いとも言えない。
玄七郎は、取り囲む全員に向かって、叫んでいた。
「てめえら、もっと真面目にやりやがれっ!」
くっくっくくくく……。
不意に湧き上がった忍び笑いに、玄七郎と冬吉は顔を見合わせた。
──玄七郎……。東照宮に、早くやって来い……。隠れ蓑など、まどろっこしい真似をしなくても、いいんだぜ……。
聞き覚えのある声に、玄七郎は立ち竦んだ。
野郎……!
ぎょろぎょろと、玄七郎は両目を激しく動かし、声の主を探した。
あの声は、確かに……!
「玄七郎殿っ!」
冬吉の声が、出し抜けに切迫したものに変化した。
「どうしたっ!」
「連中の顔が!」
「何っ?」
口をぱくぱくとさせ、冬吉は向かって来る全員の顔を指差している。
それまで平凡な顔つきであった敵全員の顔が、今や別人に変貌していた。
それは──。
黒須五十八の顔だった。
なぜか、全員の顔総てが、黒須五十八の顔に変わっていたのである。
忘れもしない、自分以外総ての他人を、心の底から馬鹿にしているような、せせら笑いを浮かべた、二枚目顔。
しかしニタニタ笑いを浮かべている顔は、折角の端正な顔立ちを、完全に破壊していた。五十八の本性が現われた、人間の善性を根底から否定している表情である。
一目ちらっと見ただけでも目を背けたくなる、邪悪な面貌だった。
玄七郎の腕が、我知らず動いていた。
ぼくっ!
手近にいる五十八の顔を、思い切り殴りつける。
渾身の力を込めた拳は、まともに相手の鼻柱にめり込み、ぐしゃりと一瞬に拉げさせている。
だらだらと鼻の穴から、大量の血液を迸らせ、それでも相手は、じりじりと接近をやめない。ぶらりと、片方の目玉が眼窩から飛び出し、神経の紐に危うく垂れ下がっている。
「ち……近づくなっ! 寄るなっ!」
玄七郎は狂気に陥ったように、遮二無二、拳を揮い、相手を叩きのめす。
しかし全く、苦痛を感じていない。
のたのたとした動きで、それでもしつっこく、玄七郎に掴みかかった。
──来ーい……玄七郎……俺は待っているぞお……。
周囲の、五十八の顔をした人間の総てが、虚ろな声を上げ、両手を幽鬼のように彷徨わせ、寄ってくる。まるでゾンビだ!
歯噛みをして、玄七郎は三節棍を掴み、無二無三に振り回した。
ごつっ! がっ! がきっ!
棍の先が人体を直撃し、肉を抉り、骨を断つ厭な音が響いていた。その音は、玄七郎の神経の総てを、ごりごりと鑢で削っているようだった。
歯を食い縛り、玄七郎は無我夢中になって三節棍を揮っていた。
畜生! いい加減、倒れやがれ!
終いには、三節棍が血液でぬるぬるとなり、玄七郎は全力を振り絞って、はあはあと息を荒げていた。
「もう、お終いになされ」
肩をポンと叩かれ、玄七郎は我に帰った。
すでに周りには、立っている敵は一人もいない。
玄七郎の周囲を、かつての人体であった残骸が、いくつも地面に横倒しになっている。
鼻腔に、ぷーん、と血潮の匂いが直撃した。阿鼻叫喚、酸鼻の極み、という表現すら、今の状態を一分一厘も表してはいない。
からり──と、三節棍を玄七郎は手放していた。
自分は恐怖のあまり、遊客の力を全解放していたのだ!
今まで何度も喧嘩に巻き込まれたが、一度だって遊客の全力を揮って、戦った経験はない。
必要がなかった。どんな修羅場でも、玄七郎は余裕綽々、遊び半分、退屈しのぎ半分で参加していたのだ。
我を失った結果に、玄七郎は慄然としていた。
まさに殺戮、といって良かった。
冬吉と目が合うと、やはり相手も同じ思いを抱いているようだった。冬吉の目には、怪物を見る感情が、ありありと表れている。
うげえええええっ!
玄七郎は、その場に蹲り、吐いていた。しかし胃にはほとんど何も入っておらず、胃液だけが込み上げるだけだった。
玄七郎は思っていた。
俺は、完全に怪物になってしまった……!
怪物!
そうだ、深雪は、どうした?