二
「出立で御座る! 出立で御座る! 各々方、用意はよろしゅう御座るか? 遅れるでないぞ!」
大声が響き渡り、早朝、勅使は動き出した。総勢、五十人以上の大所帯である。先触れが先行し、勅使を乗せた駕籠が、ゆったりと動き出す。
朝食もそこそこに、玄七郎は冬吉に急き立てられ、街道に出た。
「おい、深雪はどうした?」
出立の準備で、大童の行列に、深雪の姿がない。玄七郎の言葉に、冬吉は「あっ」と両目を見開いた。
また、あいつ、面倒を掛けやがる!
ちょっと中っ腹になって、玄七郎は庄屋屋敷に戻った。
「深雪殿! 出立で御座るぞ!」
庭に生えている楠の大木に向かって、冬吉が叫んでいる。
叫んでいる方向を見上げると、どうやって登ったものか、深雪が太い枝に腰掛け、足をぶらつかせている。
手にはお気に入りのスルメを握り、時々むしゃむしゃ口に入れていた。
「おおーい! 何やってんだ! 出掛ける時間だぞ!」
玄七郎は、両手を喇叭の形にして、深雪に向かって叫んだ。深雪はてんで気にしておらず、無表情に辺りの景色を眺めている。
呆れて、二人は顔を見合わせた。
「いかがいたそう?」
「どうも、こうも、ねえ! 無理矢理にでも、引き摺り下ろすしか、ねえだろ?」
「では、拙者らも、登るしか御座らんな」
「まあな」
そんな会話を交わし、玄七郎と冬吉は楠の大木に手を掛けた。玄七郎は着流しなので、登り難い。冬吉はするすると登って行く。
「深雪殿、良い加減になされ!」
真面目腐って、深雪を叱る。深雪は冬吉をまるきり、無視して、遠くを見ている。
やっと深雪の腰掛けている枝に登った玄七郎は、何を見ているのだろうと同じ方向に視線をやった。
「あっ!」と叫び声を上げた玄七郎に気付いて、冬吉も同じ方向を見る。途端に、表情が驚きに染まった。
「こ……これは……? 夢でも見ているので御座ろうか?」
視線の先、遠方に連山が見える。方角からすると、赤城山であろうか。その赤城山の、頂上付近が、真っ赤に染まっていた。
紅葉である。
四月なのに、赤城山の頂上は、秋の景色であった。
視線を転じ、平野方向に目をやると、こちらは桜が満開であった。桜の季節は、すでに過ぎているはず。季節が混乱している!
「何が起きているので御座る?」
呆然として、冬吉が玄七郎に尋ねた。質問されても、当然、玄七郎にも判らない。
冬吉は、完全に恐怖の表情になっていた。厳つい顔が強張り、毛穴が開いている。両目は虚ろで、総毛立っていた。
「うーむ、これは恐ろしい……」
冬吉は重々しく唸った。玄七郎は冬吉の言葉を聞き咎めた。
「何が恐ろしいんだ?」
「季節が混乱しており申す。これでは、百姓供は、種まき、植え付けの時季を間違え、収穫ができなくなり申す。まさに、凶作の予兆は、正しい……」
成る程、と玄七郎は思った。
玄七郎は、深雪に注意を戻した。
「深雪。お前には、判っているのか?」
深雪は答えず、プイとばかりに座っている枝から空中に飛び出した。
あっ、と思ったが、深雪は軽々と着地し、すたすたと歩き出す。
玄七郎と、冬吉は、無言で地面に降り立った。深雪は意外と身軽であった。
屋敷から外へ出ると、例幣使の行列は、すでに動き出している。長持、櫃を担いだ人足に、背に荷物を積んだ馬が通り過ぎた。
行列の先頭近くには、勅使の駕籠が堂々と進んでいる。担ぎ手は、前後に二人づつの、四人である。
庄屋屋敷門前には、一行を見送るためか、庄屋一家が勢ぞろいしていた。顔には、はっきりと安堵が浮かんでいる。
勅使から解放されたからだろう。
玄七郎たちは、行列の後ろ辺りに陣取り、歩調を合わせた。
先触れが人家に差し掛かると「相談せんか! 相談せんか!」と、しきりに呼ばわっている。
つまりは「勅使様のお通りだぞ! 係わりたくなければ、金を寄越せ」と脅しているのだ。
街道沿いの人家では、戸をぴったりと閉じ、息を殺して通過を待つ気配がしている。
先触れに、一人の町人が慌てて近づき、何かを差し出した。
金である。
差し出した町人は「入魂」と呼ばれている、地元の相談役である。
静かにお通りを願うため、紙包みに金を差し出している。先触れは当然という顔つきで、横柄に差し出された金を受け取っている。
そんな遣り取りが、何度か繰り返され、玄七郎は、段々、不快になってきた。
玄七郎の顔色を見て、冬吉がそっと袖を引いた。
冬吉を玄七郎が見ると、微かに頭を振る。無言で「我慢なされ」と言っている。いくら不快でも、ゴタゴタは回避すべきである。
玄七郎は百も承知だ。
先頭の、勅使が乗る駕籠を見詰める。あの中で、勅使はふんぞり返り、金勘定をしているのだろうか?
玄七郎は眉を寄せた。
隣を歩く、冬吉に話し掛けた。
「おい、何だか、妙だぜ!」
玄七郎に注意されて、冬吉も駕籠を見詰めた。駕籠を見詰める両目が見る見る、驚きに見開かれた。
「何が起こっているので御座ろう?」
「判らねえ……」
玄七郎は頭を振った。
先頭近くを悠然と進む駕籠が、歪んで見えていた。ふらふらと、陽炎のような揺らめきが駕籠を包む。
駕籠は変形し、両側に円盤が見えてくる。円盤は車輪になり、駕籠を担いでいた担ぎ手の人影が、逞しい牛に取って代わる。
牛車になっていた!
勅使の乗る駕籠が、御所車になっていたのである。




