五
夜道を歩きながら、冬吉は語り出した。
「玄七郎殿は、江戸の〝消去刑〟という言葉を耳にしては、おられませぬか?」
玄七郎は首を捻り、首を振った。
「いや、初耳だ」
「左様か……」
冬吉はいかにも、言い難そうだった。
「〝消去刑〟とは、斬首、磔、獄門、火炙りなど、死刑が決まった罪人に対し、適用される刑で御座る。拙者は良く知り申さぬが、玄七郎のいらした現実世界とやらの『仮想現実倫理機構』なる組織が、磔、獄門、火炙りなど、あまりにも残酷すぎるので、江戸幕府に即刻中止をするよう、命令して参った。代わりに、〝消去刑〟なる刑罰を、提案したので御座る……」
玄七郎は、黙って聞いている。冬吉の口調には、微かに怒りが込められているようである。
「その刑罰が適用されると、罪人の存在が、一切合財、消去され申す。完全に罪人は、存在を否定されるので御座る」
玄七郎の胸に、厭な予感が広がった。
「消去されるって、よく判らないが……」
冬吉は厳粛な表情になっている。
「罪人に係わった総ての人間から、罪人の記憶が消去されるので御座る。例えば拙者が消去刑で消されると、今まで拙者と係わった総ての人間は、隠密の冬吉なる男がいた、という記憶を失い申す。親、兄弟、友人区別は御座らん。どんな悪事を重ねた悪党でも、己の存在そのものを、完璧に否定されるので御座る。ある意味、どんな刑罰よりも、残酷で御座るな……」
玄七郎は立ち止まり、冬吉に真っ直ぐ向き直った。暗視モードを使っているので、僅かな星明りでも、冬吉の顔は良く見える。
冬吉の顔には、何の感情も浮かんではいない。
「まさか! それじゃ、俺を見ても、奴らが知らんぷりをしてたのは……?」
「左様。連中は、玄七郎殿の記憶を消されているので御座る。江戸町人、侍、百姓、今まで玄七郎殿をちら、とでも見掛けた人間は総て、記憶からすっぽり抜け落ちており申す。ただし、遊客の方々は、例外で御座る。いくら大樹公が江戸で全能でも、遊客には手が及びませぬから」
冷え冷えとした塊が、ずっしりと胸に居座った気分だった。
俺は江戸の人間たちから消されてしまったのだ! 現実世界から閉め出され、さらに、他人の記憶からも消去されるとは!
冬吉は同情するように頷いた。
「玄七郎殿の今の気持ちは、拙者は痛いほどよく判り申す」
玄七郎は、怒りの声を上げた。
「何が判るってんだ?」
「拙者も、同じ処置を受けており申す」
冬吉は、静かに答えた。玄七郎は唖然となった。
「何だって……お前が?」
「御庭番隠密は、全員同じで御座る。御庭番隠密として大樹公の拝命を受けた全員、それまで係わった人間の記憶から消されており申す。拙者の親、兄弟、親戚、すべて拙者という人間がいたなど、忘れ果てております。そうでなくては、御公儀の仕事はできませぬ」
玄七郎は、足元の大地が、ぐらぐらと揺れているような感覚を味わっていた。すとんと、地面に大穴が開き、そこに真っ逆さまに落ち込むような頼りない気分である。
「それで、冬吉。お前は平気なのか?」
冬吉は重々しく頷いた。
「最初から覚悟しておりました。もし拙者の身元が知れ、親、兄弟、知り合いに敵の手が伸びる事態を考えれば、止むを得ませぬ」
呆然と立ち尽くしている玄七郎に、冬吉は肩を竦め、歩き出した。
先に立つ背中に、玄七郎は声を掛けた。
「知り合いって、どんな知り合いなんだ? もしかして、お前の存在を記憶から消された中には、恋人はいなかったのかい?」
ぴたり、と冬吉は立ち止まった。
しかし何も答えず、冬吉は再び歩き出す。
玄七郎も歩き出す。しばらく、二人は黙ったまま、夜道を歩いていた。