五
ともかく、玄七郎は「隠密」とやらになったらしい。外記との会談の後、玄七郎は隠密としての手続きが必要とかで、江戸城の奥深くへと連れて行かれた。
迷路のような廊下を引っ張り回され、方向感覚を喪失する頃、ようやく案内された先は、信じられないほど大きな広間だった。
玄七郎は裃姿である。無理矢理、着せられたのだ。
「何でこんなもの、必要なんだ!」
「良いから、身につけよ!」
着せられるとき、玄七郎はブウ垂れたが、外記と冬吉は抗議の声も無視して、どんどん進めてゆく。
髪の毛も梳かされ、薄っすら伸びていた無精髭も綺麗に剃られてしまう。
何だか、ひどく仰々しい。
そこに玄七郎は座らされた。外記と冬吉は、ひどく緊張している。
目を上げると、百畳敷きと思われる広大な広間に、御簾が下りている。御簾の向こうは、何があるのかさえ、判らない。
「おい、何だか、妙だな……」
玄七郎は冬吉に声を掛けた。冬吉は、顔を真四角にして、かちこちになっていた。
「何がおっ始まるってんだ?」
問い掛けに、外記が応える。
「今より、大樹様の謁見がある!」
驚きに、玄七郎は膝立ちになった。
「何だって! そりゃ、将軍のことか?」
「左様。この江戸では、新たな隠密を指名するときは、必ず征夷大将軍様がご引見なさるのが、決まりである。そちは、御目見となったのだ」
征夷大将軍……。江戸仮想現実を作り上げた創立者の、中心人物である。
江戸が完成した後は、自らを征夷大将軍として、江戸城大奥に籠もり、以後はほとんど他人目に触れない生活を続けているという。
「頭を下げよ!」
外記が玄七郎の頭を、ぐいっと掴み、畳に向けて押し下げた。
「何しやがる!」
玄七郎は、むかっ腹を立て、抵抗した。
──構わぬ……。
御簾の向こうから、大広間に響き渡る、低い声が伝わってきた。ぎくりと、外記、冬吉は動きを止める。
──その遊客は、元々は江戸の人間ではなかろう……。無礼講といたす……。
「ははあーっ!」と外記は大いに恐縮し、がばりと畳表に平伏した。すでに冬吉は畳にべったりと平伏して、ぶるぶる、がたがた、痙攣したように震えている。
玄七郎は全身に冷たい汗が流れるのを、どうしようもできないでいた。御簾の向こうから、何やら得体の知れない気配が漂ってくる。これが、征夷大将軍か?
恐怖とは違う、もっと別の気配が、圧迫感となって大広間を満たしていた。今すぐにでも、外記や冬吉と同じく、平伏したいという衝動に駆られる。
だが、玄七郎はその衝動を、必死に押さえつけていた。
不思議だった。玄七郎は、現実世界で暮らしていた頃は、このような反抗的な性格ではなかったように、思えた。江戸での〝ロスト〟が、自分の性格を、どんどん変化させてゆくようである。
「あんたが征夷大将軍だってな! 俺を隠密にするため、ご苦労なこった!」
玄七郎の言葉に、外記と冬吉は真っ青になる。二人を見て、玄七郎は「へっ!」と嘲笑って見せた。
じろりと御簾を睨んで、言い放つ。
「さて、俺を隠密にするって話だが、これから何がおっ始まるのかね?」
早速、御簾の向こうから返答があった。
──そちを隠密とするため、登録をいたす。
「登録?」
──左様。そちの個人データに、新たな《隠密》項を書き加える。この処置により、そちは他の《隠密》と識別が可能となる。遊客が、他の遊客を感知するのと似た機能である。
将軍の言葉が終わると同時に、御簾の方向から、何かのエネルギーが玄七郎に向けて迸った。
目には見えない、また、手で触れて感じ取れない流れであったが、玄七郎は全身が揺すぶられるような衝撃を感じていた。
「うあ──あ……!」
絶叫し、玄七郎は、ばったりと仰向けに倒れていた。高電圧のスタンガンを浴びたかのように全身が痺れ、手足の自由が失われる。
──今より、漣玄七郎は、公儀隠密となった。ゆめゆめ励むように……。
言い終わると同時に、御簾の向こうから気配が消えた。
「玄七郎っ!」
外記が玄七郎の顔を、上から覗き込む。冬吉も、同じく心配そうな表情で覗き込んだ。
「大事ないか?」
玄七郎は、ぶるっと頭を振った。
ゆっくりと、身を起こす。
手を挙げ、顔をごしごしと擦った。掌に、脂汗が浮かんでいた。急いで、玄七郎は自分の身を探った。
苦痛はない。怪我はしていない。が、恐ろしいほどの衝撃が、全身を貫いたのを感じていた。
いったい、何が起きたのか?
玄七郎の視線が、冬吉に止まった。冬吉は玄七郎の視線を感じ、にやっと笑い掛けた。
ああ……。
と、玄七郎は納得した。将軍は、隠密同士は感じ取れると言っていた。遊客が遊客の存在を感知するのと同じ仕組みが、隠密にもあるのだと。
確かに玄七郎には、冬吉が、自分と同じ隠密であると、確信した。
「お主、隠密になったのだぞ? 気分はどうかな?」
冬吉の言葉に、玄七郎は一人、頷いた。
隠密は隠密を感知する。多分、同士討ちなどを避けるためだろう。だが、もっと重要な理由があるに違いない。
それは、裏切りを防止するためではないか?
いつでも隠密同士、感知し合えれば、隠密の仕事から一人だけ抜けるなど、絶対不可能になるに違いない。どこに逃げても、隠密の標識が付いて回る。
自分は一生ずーっと、いつまででも隠密でいなければならないのだ、と玄七郎は暗鬱な心持ちであった。