10-1. one Last time
真白の空から陽射しが注ぐ。色のない世界では光が空を染めるのだと、灰色の手をかざしてラナは思った。溢れる光を掴もうと指を曲げる。溢れた陽射しが頬に注いで柔らかなぬくもりを残した。
時計台の鐘が鳴り、午後三時を告げた。大木が植えられた広場に涼しい風が吹き、葉をざわめかせ、行き交う人々の笑い声をさらっていく。
人の往来は絶え間ない。だというのに、人混みの中で確かに目当ての影を見つけて、ラナの心臓が小さく高鳴る。
彼はスーツを無造作に着崩していた。風になびく髪はきっと陽光を弾いて輝いているのだろう。その目もきっと。
鼻先を、煙草と香水の香りがくすぐった。それにひどく胸を掴まれて、ラナは思わず小さく笑う。
「あぁ、ラトラナジュ」すぐそばで立ち止まったアランは、思案深げにラナを見やった。「まさか君がこんなにも早く来ているとは」
「だって、あんたとの約束だもの。待ちきれなかったの」
「待ちきれない、か。それは嬉しいことを言ってくれるな。愛しの君」
穏やかに返しながらも、アランは探るような目つきでラナを見やった。口には出さないが、答えを求めているのは明白だった。自分を選ぶのか、否か。
言外の問いは待ち合わせのきっかけで、アランが答えを望むのもおかしくはない。それでも、どこか性急な様子がおかしくて、ラナは吹き出した。
アランが目を僅かに開く。その右手を、ラナは迷いなく取った。
「まずは買い物をしなくちゃ」
「買い物」
「そうだよ。今日は平日なんだ。だったら、あんたのところで夕ご飯を作らなくちゃ。あぁそれにほら、あそこに花売りの店があるだろ? せっかくだから、テーブルを飾る花も買いたいな。なんてったって、アランの家は殺風景だもの」
「あぁ、それは構わないが……」
歯切れの悪い返事をするアランの手を引いて、ラナは花屋へ向かった。
石造りの店先に、様々な濃淡の花が水桶に入れられて並ぶ。切り揃えられた花の一つにラナは鼻を寄せた。甘い香りに、それが薔薇であることを知る。
「君は花が好きなのか?」
控えめな声にラナは振り返った。どこか緊張した面持ちのアランに一つ頷く。
「好きだよ」
「そうなのか」
「アランは?」
「君が好きだというのならば、俺にとっては注意を払う価値のあるものになる」
「なにそれ」
尊大な物言いにラナが笑えば、機嫌よく両眉を上げたアランが身をかがめて耳打ちした。
「だが、恐らく君が好きなのは花ではなく甘い物だろう?」
「ちょ、ちょっと」
図星を指され、ラナは慌ててアランの袖を引く。
「なんでそれ知ってるの」
「何故と言われても」アランは素知らぬ振りで肩をすくめた。「贈り物を渡した時の君の反応を見ていれば、一目瞭然というものさ」
「そんなに分かりやすかったのかい……」
「恥じる必要などない、ラトラナジュ。そんなところも愛おしいものだよ」
「……でもあの、花が好きなのは本当だからね?」
「分かっているとも」
アランは目を細めて「あとで甘い物でも買おうか」と小声でからかった。ラナは思わずアランを睨む。だが、それさえも彼にとっては心地よいものらしい。
「さぁ、それではどの花を買おうか」
アランはにこりと微笑んだ。ひとまずは気を取り直したといった風だった。あるいは冗談を交わせる程度には、ラナの返事が悪くないとでも思ったのだろう。
そういうところが分かりやすいんだよなぁ、と思いながら、ラナは表情を緩めた。気を取り直して花桶を改めて見渡す。
「じゃあ、私の代わりに色を選んでほしいかな」
「色? 花ではなく?」
「花の名前は書いてあるから分かるけど、色は見えないから」
アランが怪訝な顔をする。ラナは向日葵へ手を伸ばした。
「例えば……そうだね。この向日葵は白に近い灰色かな。それから、あそこの竜胆は白み始める夜の色。秋桜は陽射しの白。そこの軒先に架かってる薔薇は、真夏の地面に落ちる影の色」
「待ってくれ、ラトラナジュ」アランは顔を強張らせた。「色が見えないのか、君は」
「そう言ってるじゃないか。だから、あんたに色を選んでほしいの」
唇を尖らせてアランを見やれば、彼は信じられないと言わんばかりに天を仰いだ。
「あぁラトラナジュ、愛しの君! 花なんて選んでいる場合じゃないだろう! 会わない間に一体何があった? それとも七日前からなのか?」
「うーん、予想通りの反応だねぇ」
「何を呑気なことを」
苦笑いするラナに、アランは硬い表情で詰め寄った。彼の瞳の色がいっそう濃くなる。
「由々《ゆゆ》しきことだ、これは。やはり、ほんの少しでも君から離れるべきではなかった」
「大したことじゃないよ、アラン。目はちゃんと見えるもの。ねぇ、それよりも花を買ってしまわないかい?」
「そういうわけにはいかない。一体、どこの誰に手を出されたんだ?」
「ねぇ、アラン」ラナはうんざりしてアランを睨んだ。「いいから、色を選んでよ」
「不届き者が。即刻排除すべきだ。今からでも俺が、」
「アランってば! その話はいいから、色を言って!」
「赤色だ!」
ラナが強く請えば、アランは怒鳴るように返した。騒ぎを聞きつけたのか、店の中から不安げな顔をした店主が姿を現す。
憤懣やるかたないと言わんばかりのアランの腕を強く引き、ラナは店主に笑顔を貼り付けて声をかけた。
「このひまわりと、赤色の花を使って小さい花束を一つお願いできるかい?」
*****
アランの怒りは、彼の家に戻った後も収まらなかった。
予想通りの反応とはいえ、ここまでしつこく問われるとうんざりする。無理矢理に座らされたソファの上で、ラナはぐるりと目を回した。
「あんたがそんなに怒ってるところなんて、はじめてみたな」
「茶化さないでくれ、ラトラナジュ」眼前のアランが刺々しく返した。「これは正当な怒りだとも」
「なにが正当なんだか」
「真面目に話を聞きなさい。一体、どこのどいつにやられたんだ」
ラナは溜息をついた。せめてもの反抗に指先をくるりと髪に絡める。
「誰かにされたわけじゃない。取引をしただけ」
「取引」
「悪魔に頼んで、あんたの記憶を見せてもらったの。その代わりに色を持っていかれたってこと」
「なんて無謀な」
アランが目を軽く見開いた。彼の表情がこんなにも変わるのも珍しい。思わずそれに見とれていれば、再びその表情が険しくなった。
「そんなもののために、どこの馬の骨とも知れない悪魔に体を許したのか」
「そんなものじゃあない」ラナは負けじと声を大きくした。「そりゃあ、勝手に覗いたことは謝るけれど……でも、あんたの大切な記憶でしょう。それもたぶん、一番最初の」
「失敗した世界だよ、ラトラナジュ。何の価値もない」
「価値ならある。あんたの記憶というだけで」
アランが神経質そうに髪をかきあげた。嫌気が差したラナはソファから立ち上がる。
制止の声を無視して床に転がった買い物袋を拾い上げ、炊事場に入った。まったくもって雰囲気は険悪だったが、それでも無事に夕食の買い物を終えた自分を褒めてやりたいくらいだ。
鍋に水を注ぎ、香辛料を組み合わせて作られた粉末を入れて火にかける。根菜類を掴み、水で洗って皮を剥く。背後で足音がした。それが立ち止まったのも分かった。けれどそれに気づかぬふりをして、ラナは包丁とまな板を出して野菜を刻む。
「ラトラナジュ。君は怒っているのか」
野菜を全て切り終えたところで、やや控えめな声がした。まな板から落とした灰色の野菜が、白のボウルの上でごろごろと音を立てて踊る。
最後のひとかけらを入れ終えたところで、ラナは振り返る。戸口に立ったアランは、どこか途方に暮れたようにも見える。
ラナは仕方なく手招きした。
「怒ってないから、こっちに来なよ」
「だが、俺は君の機嫌を損ねたのだろう」
「その自覚があるなら、あんなに不機嫌にならないでくれればいいのに」
「それとこれとは話が別だ」
隣に立ったアランは、不安げな表情に苛立ちを滲ませるという器用なことをしてみせた。
「俺は君のことを大切にしたい。それだけのことなんだよ、ラトラナジュ。だというのに、俺が目を離したせいで、君に要らぬ代償を払わせてしまった」
「はぁ……もう分かったから。ほら、じゃあ、味見をして」
視界の端で、火にかけた鍋が湯気を上げる。即席のスープをお玉ですくい、小皿に入れてラナは押し付けた。
アランが一つ目を瞬かせる。視線だけで念押しすれば、彼は一口飲んだ。
「味の加減はいかが? 雇い主さん」
当然と言わんばかりに、アランは微笑んだ。
「いつもと変わらず、美味しいよ。ラトラナジュ」
「でも味なんて分かってないんでしょう。あんたは何かと引き換えに味覚を失ったから」
「……それは、事実だが」
「それで? 次はこう言うんだろ。味覚を無くしても、生きるのに支障はない。だから心配しなくて良いって――ねぇ、それって、私が言ってることと同じなんだよ。なら少しは、私の気持ちが分かるというものじゃないかい?」
ゆらりと揺れる湯気の向こうで、アランが押し黙る。ラナは煮立った水面をぐるりとかき混ぜた。一口味見をし、大げさに肩をすくめる。
「あぁやっぱり。全然味が薄い。これじゃ、野菜を入れたらほとんど水みたいになっちゃうね」
「……そう、なのか」
「そうだよ。ねぇ、そこの棚から赤い色の小瓶をとって。もう少し味を濃くするから」
アランはいそいそと頷き、指示に従った。渡された小瓶は、ラナの目から見れば濃い灰色でしかない。それでも迷いなく、彼女は瓶を振ってスープに入れ、再び味見をする。
目的通りの、ほんの少し濃い塩味だ。
「ん、美味し」
「そうか」アランが目に見えてほっとした。「それなら良かった」
「アランが正しい色の瓶を選んでくれたおかげだね」
「君が味を見て調整してくれたからだろう」
「じゃあ、両方が頑張ったから出来たってことで」
「両方」
「そうだよ」
ラナはゆったりと鍋をかき混ぜた。
「そんなもの、なんだと思うよ。私が失ってしまったもの。アランが失ってしまったもの。でも足してしまえば、ちゃんと形あるものが残せる。スープだけじゃなくてね」
「……君は、後悔していないのか。色が見えなくなって」
「アランは後悔してるのかい?」
「するはずがない。俺の全ては君のためにあるのだから」
「即答だなぁ」ラナは小さく笑って、頷いた。「でも、うん。私も全く同じ気持ちだよ。あんたのために失ったんだから、何も後悔なんてない」
こう考えると私達はそっくりなんだねぇ、と付け足せば、湯気の向こうでアランが虚を突かれた顔をする。普段の彼からはまるで想像できない表情に、ラナは思わず吹き出した。
*****
スープとつけあわせのサラダ。主菜には白身魚を使ったムニエル。テーブルの上に飾られた花を挟んで、アランと共に食事をする。食べ終えれば、これまた一緒に皿を片付けた。
特段、多くの話をするわけではなかった。それでも、始終スープの湯気のような暖かさがあって、ふわふわとした心地のまま、ラナはソファに足を投げ出して座る。
肘掛けに体をもたせかけながら、炊事場の方を眺めた。時おり、入り口からアランの姿が見える。ぴんと伸ばした背筋と、無造作に腕まくりされたシャツ。白黒の世界でも彼の色はよく映えた。
あんなに色々なことがあったのに、結局自分はいつもと変わらず彼を追いかけてしまうのだ。ひとかけらの呆れが滲んだぬくもりに身を任せるまま、ラナはそっと目を閉じる。
「あぁ、起こしてしまったかな」
不意に声を掛けられて、ラナはぱちりと目を開けた。はっきりしない頭を振りながら身を起こし、自分がいつの間にかベッドで眠っていることに気付く。
「ええと……私……」
「疲れて眠ってしまったんだよ、ラトラナジュ。俺の部屋に連れて行っても良かったんだが……君が使うというならば、こちらの方が適切だろうと思ってね」
穏やかに言いながら、アランはベッドサイドの明かりを点けた。柔らかな灰色の光の中で、彼の耳飾りが揺れる。
「さぁ、愛しの君。暖かくして待っていなさい。紅茶を淹れてこよう」
アランが去った後、ラナはゆっくりと部屋を見て回った。部屋自体は小さいが、整理は行き届いていた。明かりの届かぬ夜闇にクローゼットと一人分の机が見える。
部屋の奥には棚があり、まるで美術品のように小物が並べられていた。紙のファイルには、数枚の絵が綴じられている。小さな箱には柔らかな布で包まれた耳飾りが納められていた。石が嵌っていたらしい台座は空っぽで、ひしゃげている。耳飾りの隣に並ぶのは、掌に収まるほどのテープレコーダーだ。
そして、棚の真ん中には畳まれたハンカチがある。乱暴に裂かれたそれには見覚えがあった。
「君がくれたものだな」
アランの穏やかな声に頷いて、ラナはハンカチを棚に戻した。
「ここ、秘密の部屋だね?」
「そうだとも。正確に言えば、以前の世界で君が使っていた部屋だ」
紅茶と林檎、それに果物ナイフを載せたトレイをベッドサイドに置き、アランは困ったように肩をすくめた。
「本当は秘密のままであればよかったんだが。聡明な君は、この世界のからくりに気づいてしまった」
「私が気づいたわけじゃないよ」ラナは苦笑いしながらベッドに腰掛けた。「エドと、エメリ教授が手伝ってくれただけ」
「なるほど、その二人が君をそそのかしたというわけだ」
「……ちょっと、変な気を起こさないでよ?」
「もちろんだとも。君がそれを望むというのならば。さぁお嬢さん。隣に座ってもいいか?」
ラナは慌てて居住まいを正した。アランが小さく笑いながらマグカップを手渡す。ほんのりと暖かいカップを両手で包み、ラナは一口飲んだ。蜂蜜の優しい甘さがじわりと滲む。
ラナはぱちと目を瞬かせた。
「これ、美味しい……」
「それはよかった」アランが満足そうに目を細める。「紅茶用の蜂蜜でね。いつか君に渡そうと思って用意していたんだ」
「……ええと、ちなみにいつから用意してたのか、聞いてもいいかい?」
「君と出会って数日後だったかな」
「呆れた。それって、例の贈り物をたくさんしてた時期じゃないか……」
「そうだとも。思えば、あの時も君は俺に怒っていたんだった」アランは紅茶へ口をつけ、しみじみと呟いた。「君は、いつだって少しばかり難しい」
穏やかな沈黙に、アランの声がぽつんと響く。ラナはマグカップへ目を落とした。灰色の水面の先はようとして見通せない。
胸元で、懐古時計が音を立てて時間を刻んだ。ラナは一度ゆっくり瞬きをする。世界は相変わらず色のないまま、懐古時計が穏やかに今を過去に変えていく。
「ねぇ、アラン。手は大丈夫だったのかい」
「手?」
「右手。エドに切られてたでしょう」
マグカップをテーブルに置いて、アランの右手をそっと掴んだ。白い肌に引き連れた灰色の痕がある。きっと、ろくな手当もしなかったんだろう。染みるような寂しさと共に親指の腹で傷をそっと撫でた。
「痛くは、なかったの」
「心配する必要はないさ、ラトラナジュ。痛みはないと言っただろう?」
「それって、痛みを感じられないってことだろ」
「後悔はない」
「知ってる」ラナは薄く開いた唇から溜息を漏らした。「知ってるよ」
「ラトラナジュ?」
ラナはゆっくりと立ち上がった。不思議そうな顔をするアランの前に立ち、改めて彼と両手を繋ぐ。
「難しいと、言ったでしょう。さっき」
ラナは、ぽつぽつと話し始めた。
「私もね、そう思ってたよ。少なくとも、七日前のあの時、私にとって一番分からないのはあんただった。私を守りたいって言ってくれたことも、私以外の全部を壊したいと願っていることも、少しだって理解できなかった。だからこの七日間、私はあんたのことを探してたんだ。本当のあんたを。エドナと取引をして、最初のあんたの記憶を見た。あんたが悪魔であることも知った。この世界が繰り返していて、あんたがその元凶なんだろうって答えを得た。それで、思ったんだ」
指先を絡めて、アランの手を持ち上げる。装飾腕輪が微かに鳴り、嵌められた宝石が白光を弾く。
ラナは優しく目を細めた。
「難しいことなんて、きっと何もないんだよ。私はただ、あんたの想いを知りたいだけだった。それを受け止める覚悟がなかったから、怖かっただけなんだ」
「俺は君を守りたいだけだ、ラトラナジュ」
「うん、知ってる」ラナは小さく笑って、アランの右手に頬を寄せた。「ねぇ。それじゃあ、この傷を負った時、あんたは何を想ったの? 耳が聞こえなくなった時、何を感じた? 世界を巻き戻す時、あんたはいつも何を願っているの? 私は我儘だから、あんたの全部知りたいの。知って、その上であんたと全部を分け合いたいの。そのためなら、あんた以外の全部を捨てたって構わない。だから、」
冷たい指先を、ラナはぎゅっと握り込んだ。彼の目をじっと見つめる。
見える世界は灰色だった。それでも確かに、彼の眼差しに追い求めてやまない金を見る。
「だから、教えて、アラン。貴方の人生を。貴方の想いを。貴方の言葉で、私は全てを知りたいんだ 」
「……俺のこと、など」
ややあって、アランが掠れた声で呟いた。
「些末なことだ。なんの価値もない」
「いいえ、それを決めるのはあんたじゃない。だって、そうだろ? あんたが私の人生に価値を見出してくれてたんだ。なら、あんたの人生に価値を見出すのは私のはずだよ」
「何故だ? 君がそこまでする理由など、」
「私はあんたを選ぶ。愛しているから」
アランの目が僅かに見開かれた。待ち望んだ回答だったろうに、まるで予想外と言わんばかりだった。時計の歯車がかちりと鳴る。呼吸の狭間で、彼が呆然と囁く。
「愛する、のか」
「そうだよ」ラナは少しばかりはにかんだ。「愛しているの、あんたのことを。アランは? やっぱり、こんな私じゃ嫌かい?」
「とんでもない。君と過ごす時間は心地いい」
「うん」
「君のぬくもりを、こうして感じることも」
「……うん」
「歌を紡ぐ、その唇も」アランは僅かに目を伏せた。「君は、何者にも代えがたい、人で」
「そんなに褒めてくれるのは、あんただけだよ」
ラナは苦笑して、アランの手を離した。彼の肩へと腕を回す。その髪に指を絡める。煙草の香りと香水を胸いっぱいに吸い込み、どこか怯えたようなアランと額をあわせた。
「ねぇ、アラン。私はもう、あんたを置いていかないよ。嫌だって言っても、置いてなんかいってあげない。だからどうか、私を信じて。あんたからすれば、随分と頼りないだろうけれど」
「……君は、それで幸せか」
「うん、幸せだよ。当然だろ? 愛する人と、一緒にいられるんだもの」
アランが目を細めた。沈黙は長く、けれどその果てに彼は息を漏らす。
アランの体から力が抜けた。彼の中の何かの憂いが去ったようでもあった。それにラナはほっと胸をなでおろし、同時に気恥ずかしくもなった。冷静に考えてみれば、これはなかなかに大胆な姿勢だ。まして、好きだと自覚した人にこういうことをするのは。
誤魔化すように笑いながら、アランから身を離す。
そこからは、一瞬だった。
彼の手がラナの腕を掴んだのも。
その手がテーブルの上の果物ナイフを取り上げたのも。
そして刃が、ラナの胸に突き立てられたのも。
「……え……?」
ラナが呆然と見上げる。その先で、アランは呟く。
その目を、触れれば壊れそうなほどに歪めて。
「そうであるというならば、俺はこの過去を選ぼう。不確実な未来など捨てて」




