# Memory-2
見え透いた誘いだった。それでもエドナは抵抗できず、カディルに手を引かれるまま歩き出す。
閑散とした屋敷の廊下は、場違いなほど明るい陽光に照らされていた。その廊下を抜け、見知らぬ扉をいくつか潜る。階段はなかったから、地上であるのは間違いない。だというのに、最後の扉を抜けた瞬間、夜を迎えたような闇が押し寄せてきた。
強烈な寒さと血の臭いに、エドナは思わず身震いする。カディルがエドナから手を離した。黒衣に身を包んだ翁の姿は見えなくなるが、間をおかずして部屋を囲うように燭台の炎が灯る。
床一面には、紅色の魔法陣が描かれていた。
「あぁ、お姉ちゃん!」
陣の中心に立って、妹が白銀の髪を揺らして微笑んだ。腕の中には安らかに眠る赤子を抱えている。妹は真っ白なワンピースを着ていて、その裾が血で濡れてさえいなければ、幸せそうな母子の姿に見えなくもない。
「嬉しい。お姉ちゃんも来てくれたのね」
「貴女……何しようとしてるの……?」
「もうお姉ちゃんったら。魔術に決まってるじゃない」
妹は照れくさそうに微笑んだ。
「ほら、私はお姉ちゃんみたいに魔術の力が強くないでしょ? でもね、代償を捧げて悪魔に願えば、強い魔術師になれるのよ。ねぇ、そうでしょう、カディル様?」
「そうだとも」カディルはことさら優しく頷いた。「安心おし、ミカよ。君が悪魔を喚べば、儂がその体に悪魔を繋いでみせよう。さすれば君も、良き魔術師になるだろうて」
「待ちなさいよ」
エドナはたまらず声を上げた。妹とカディル、両方の不思議そうな視線が突き刺さる。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「どうしたもこうしたもないでしょう」エドナは震える言葉を吐いた。「あなた達がやろうとしてるのは、悪魔と人間を混ぜる魔術でしょう? それはまだ完成していないはずだわ」
「まぁ、嬉しい! お姉ちゃん、私のことを心配してくれるのね! でも大丈夫よ。今度は絶対に上手くいくって、カディル様が約束してくれたもの」
「約束なんて! 口ではどうとだって言えるのよ?」
「安心したまえ、エドナや」カディルが絡みつくような声で口を挟んだ。「なるほど、たしかにこれまでは失敗してきた。それを成功させたいがために、君に協力を依頼したのだからね。だが、確実な方法を待っているだけでは魔術は発展しえないのだ。だからこそ、試行錯誤の地道な努力を重ね、今回の方法論を編み出したのだよ」
「……一度だって成功したことのない方法論だわ」
「大丈夫よ、お姉ちゃん。私が成功させるわ」
妹が美しく笑う。カディルは慈愛に満ちた目で頷く。吐き気がするような光景にエドナが思わずよろめいたところで、床に引かれた魔法陣に紅の光が灯った。
歌うような詠唱が流れ始める。空気がざわつくのをエドナは肌で感じた。風もないのに炎が揺れ、赤子を抱く妹の影が大きく歪む。
悪魔が姿を顕そうとしている。それを直感し、エドナはしかし呆然と見ることしかできない。
もしかすると、本当に魔術は成功するのかもしれない。彼女の生来の好奇心が、再び頭をもたげた。だとすれば、これはまたとない機会だ。どうして止める必要があるだろう。なにより、妹もカディルも同意の上で魔術を行使するのだ。ならばわざわざ、これを阻止するなんて。
火が付いたように赤子が泣き始めたのは、微笑を浮かべた妹が片手で短剣を握った時だった。
彼女は刃を掲げ、その切っ先を赤子に向けている。
魔法陣から吹き出す紅が緋色に変わった。この世ならざる何かが顕現しようと空気を揺らす。
カディルは恍惚とした表情を浮かべていた。成功を確信しているようでもあった。そして事実、エドナもこの魔術は成功するだろうと直感して。
彼女は、自分でも気づかぬままに小瓶を取り出し魔術を紡ぐ。
『戦乙女の手枕 死神の鎌 祝福なき者を斬り伏せよ』
手の中で小瓶が砕けた。
漆黒のドレスをまとった骸骨が顕現する。
それは虚を突かれたような顔をするカディルの横をすり抜ける。それは魔法陣を越え、甲高い笑い声を上げながら大鎌を振り上げる。そしてそれは、一切の迷いなく妹の背中へ刃を突き立てる。
詠唱がぶつと途切れ、刃の代わりに鮮血が赤子にかかった。
「お、ねえちゃん……?」床に倒れ込んだ妹がぎこちなく首を動かし、信じられないと言わんばかりの顔をする。「な、んで……? 嘘……お姉ちゃんは、こんなことをする人じゃ、なかっ……」
か細い声は、野獣のような唸り声でかき消された。魔法陣に亀裂が入り、緋色が激しく明滅する。空気がびりびりと痛いほどに揺れた。悪魔が来る。制御を失った悪魔が。
エドナは弾かれたように走り出した。カディルが鬼のような形相で何かを叫んでいる。それを無視して、緋色で埋め尽くされる魔法陣に飛び込んだ。
妹の骸の隣で、赤子はうるさいくらいに泣きわめいていた。そこに何かがまとわりついているのも見えた。けれど考えるのも億劫で、まとわりついた何かごと赤子を取り上げる。
小瓶を取り出し、エドナは転移のための呪文を怒鳴った。空気が歪む。音がねじれる。髪留めが砕け、ばらけた金髪が頬を打った。その中で赤子を失わぬよう、エドナは抱きしめて身を折る。
そして全ては、唐突に終わった。
ひやりとした空気が頬を撫でた。次いで、エドナの耳が靴音と扉の開く音を拾う。
「な、なんだ。みょ、妙な物音がすると思えば、君か」
どもりがちな声音に、エドナはそろりと目を開けた。身体を起こして顔を上げれば、祭祀服の男がじっとこちらを見下ろしている。既に日が沈んでいるらしく、その手には蝋燭の灯された燭台があった。
だとすればここは教会なのだろう。エドナがぼんやりと思ったところで、ヴィンスが再び口を開いた。
「ど、どうにも怪我をしているようだが、何かあったのか」
「なにか、なんて」
なんて、無粋な質問だろう。そこは何も聞かずに手当をするべきところだ。いつものとおりの文句が浮かび、けれどそれは、さして心にも残らず消えていく。
ひどい虚無感に襲われて、エドナは項垂れた。腕の中で、赤子が眠っている。それがしかし、喜ばしいことだとは思えなかった。むしろ疑問しかない。どうして自分は、この子供を助けたのだろう? どうして、魔術を中断させた?
お姉ちゃんは、こんなことをする人じゃない。死の間際の妹の声が、耳朶を打つ。
流れ落ちた金髪に顔を隠したまま、エドナは耐えきれずに呟いた。
「……私は、変わってしまったでしょう」
「? そ、そうは思わないが」
「嘘よ」エドナは顔を上げ、しつこく食い下がった。「だってそうでなければ、こんなことになんかならなかった」
ヴィンスが顎に手を当て、首を傾けた。そうしてしばしの沈黙の後、「あぁ分かったぞ」と納得したような声を上げて教会の中に引っ込む。
遠ざかる足音に、エドナは不意に惨めな気持ちになった。そこに至ってようやく、自分は変わっていないと言って欲しかったのだと気付く。馬鹿らしかった。馬鹿らしくて、笑える。
「こ、これだろう」
ヴィンスの得意げな声が降ってきた。のろのろと顔を上げたエドナは、彼の手の上に載せられた物を見て目を丸くする。
「か、髪留めだ」黒髪の隙間から深緑色の目を輝かせて、ヴィンスが言う。「き、君はいつも、髪をまとめているだろう。ど、どこか違うと思ったら、こんなところとはな」
ほら、つけてあげよう。上機嫌に付け足して、ヴィンスがエドナの背後に回る。地面に膝をついた彼は、相変わらずの不器用な手付きで髪をまとめ、髪留めで止めた。やはり下手糞だった。顔を俯ければ、髪がすぐに解けてしまいそうな程度には。
それでも神父は真面目くさった顔で「い、いい出来だな」などと呟いている。
「……馬鹿ね」エドナは呆然と言った。「馬鹿だわ。私が話しているのは、そういうことじゃないのに」
「そ、そうなのか?」
「そうよ。もっと内面とか、そういうことを話してるの」
「そ、それなら微塵も変わっていないだろう。き、君はいつだって君の好きなようにしか行動しない」
ヴィンスが実に迷惑そうな顔で言う。それに今度こそエドナは呆気にとられ、やがて笑った。
「そうね、そうかもしれないわ……神父様ほどではないにせよね」
「お、俺はプレアデス機関の導きに従うのみだ。な、悩むのならば君にも紹介するが」
「いいえ、結構よ。それよりも、貴方の方がよっぽど信じられるもの」
目の前のヴィンスが曖昧な表情で頷く。あぁこれは絶対に分かっていない。エドナは即座に見抜いたが、以前ほど不快には思わなかった。
胸元で赤子がむずがる。とりあえず中に入れてくれないかしら、とエドナは気の利かない男に声をかけた。
*****
「アイシャちゃん……!」
鋭い声に、アイシャはぱっと目を開けた。
真っ先に飛び込んできたのは、心配そうな顔をしたヒルだった。その後ろには天井。背中にはベッドのシーツがある。
「あぁよかった……!」ヒルがそばかすの浮かぶ顔を緩めた。「いきなり倒れるから、どうしたのかと思ったよ。大丈夫だったかい? やっぱり、色々と無理をしてたんじゃ……」
「ヒル、先生……」
「うん、どうしたんだい?」
「……先生、どうしよう、私……」
先程見たばかりのエドナの記憶が蘇り、アイシャは言葉をつまらせた。暗かった。怖かった。おぞましくもあった。最後にはエドナは救いを見たようだった。それは喜ばしい。けれど。
アイシャはくしゃりと顔を歪めた。
「……わたし、やっぱり、要らない子なんですにゃ……」
だって彼女の記憶に、自分がいなければならない場所なんて、どこにもなかった。
*****
暗闇に、パソコンの画面が光を吐き出す。
そこに浮かぶのは、巨大な歯車を組み合わせた装置だ。時計台の人工知能はしかし、今は沈黙している。当然のことだ。プレアデス機関は、問われない限り答えを述べることはない。そこが唯一にして最大の良いところであると、守り人は考えている。
そして守り人の視線は今、パソコンに映されたもう一つの画面に注がれていた。黒の背景に白のフォントで文字が綴られる。
プレアデス機関のアクセス記録だった。そこに覚えのない記録がある。
守り人は眉を潜めた。何者かがプレアデスに侵入を試みたのは明白だ。幸いにして、プレアデスの要には触れていない――あそこはパスワードがあるのだから当然だ――ようだが、幾つかの機密レベルが低い情報に触れた形跡がある。
ならば、侵入者はどこまでの情報を得たのか。そもそも、侵入したのは何者だ。候補は容易に浮かび、守り人は椅子を軋ませて、うんざりしたように呟いた。
「……対処するしかないか」
 




