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プレアデスの鎖を解け  作者: 湊波
EP3 : Al2O3 ただ、君を想う
63/113

9-2. 追い詰められたのは、あんたの方だよ

 茜差す教会は、しんと静まり返っていた。


 ベッドの上で身じろぎしたアイシャは寝返りをうつ。神父様達は出かけてしまったのだろう。シーツの折り目をぼんやりと見ながら、アイシャは思った。昨日の今日だ。ラナの手助けに行ったに違いなかった。


 自分も行くべきだ。そんなことは分かっていた。けれど今更、どんな顔をしてラナの前に行けば良いのだろう。自分は彼女に嘘を吐いていた。それが最悪のタイミングで露呈した。


 言いようのない違和感と息苦しさに、アイシャはベッドの上で膝を抱える。自分がどうしたいのか。いくら考えても答えは出ない。


 結局アイシャが起き上がったのは、窓から差し込む夕日が沈みきって、部屋が真っ暗になってからだった。水でも飲もうと部屋を出て、陽の沈んだ二階の廊下をとぼとぼと歩く。


 そこで、廊下に並び立つ扉の一つが開く。驚いて足を止めたアイシャの眼前に、アランがふらりと姿を現した。薄金色の髪は僅かに乱れ、皺の寄ったシャツを羽織っただけの彼の横顔は青白い。瞼で半分ほど覆われた金の目は何を見ているのか。


「ちょ、ちょっと……! どこに行くの!」


 ゆらりと歩き出す男を、アイシャは慌てて引き止めた。アランの金の目がゆっくりとアイシャに向けられる。


「……ラトラナジュの場所を教えろ」

「それを知ってどうするの? 傷が痛むんでしょう。だったら、じっとしてなきゃ、」

「ラトラナジュの場所を教えろと、言っているんだが。アイシャ・カディル」


 アランの責めるような眼差しが、アイシャの陳腐な気遣いの言葉を奪う。口を開けたまま幾度か呼吸をした彼女は、ゆるゆるとアランの腕から手を離した。


「……分かんない」

「分からないだと?」

「アイシャはずっと部屋にいたんだもん」

「何故」

「……それは……」


 だって、自分にはラナを助けに行く資格なんてない。彼女に合わせる顔がない。嘘つきなんだもん。言いたいことは山程あって、けれど、何一つ言葉にならなかった。アイシャが沈黙すれば、アランが再び歩き始める。


「っ……ちょっと待って……! 何処に行くの!」

「ラトラナジュを探す」


 アランの淡々とした返事に、アイシャは唖然とした。


「探すって……場所なんか分からないでしょ……」

「行き先は限られているだろう。家か、天秤屋か、学術機関か」

「それ以外の可能性だってあるじゃない。この都市は広いし……それに貴方は怪我してるのよ? ちゃんと歩けないのに、」

「出来ない理由は要らない」


 アランが吐き捨てた。アイシャが喉を震わせれば、暗闇の中で金の目が向けられる。冷え冷えとした、けれど明確な怒気を孕んだ視線にアイシャは身体を震わせた。


 時計塔の鐘が鳴り始める。月明かりが差す中でアランの影がぐっと濃く、大きくなった気がする。


「――不可能など、飽きるほど見てきた」アランが低く呟いた。「だが、それが何だと言うんだ? そんなもの、俺が彼女を見捨てる理由にはならない」

「それは……」

「お前はどうなんだ。出来ない理由を並べ立てて、挙げ句ラトラナジュを裏切るのか」

「……そん、なの」


 目を伏せたアイシャは、ぎゅっとスカートの裾を握った。ラナと過ごした短い時間が蘇る。たった二週間だけの思い出だった。一緒に懐古症候群トロイメライを探して、ご飯を食べて、ラナに嫌われて、でも最後は一緒に戦ってくれて。


 アイシャはすごいな、って思って。そう言って、頬に絆創膏を貼りつけた彼女は笑ってくれた。それは全部、アイシャにとって大切な時間だった。


「裏切るつもりなんて、ない……」ややあって、アイシャは鼻をすすりながら顔を上げる。「そんなの、あるわけないじゃない……! だって、ラナはアイシャの友達なんだもの……!」

「……そうか」

「そうよ! だからアイシャは、ラナを助けたいの! 助けて、もう一度、ちゃんと謝るの!」


 そうだ。それがきっと自分のしたいことなのだ。やけくそに喚いて、やっとアイシャは気づく。そこから覚悟を決めるのに、さしたる時間はかからなかった。


 アイシャはアランの腕をぐっと掴んだ。何も言わぬ男を引きずって、己の部屋に連れ込む。


「協力するわ。ちょっとだけ時間をちょうだい」怪訝な顔をするアランへ、アイシャは早口で付け足す。「ラナ達はきっと、エメリを追いかけてるはずだわ。なら、あの男がどこにいるのか探す」


 アイシャは壁一面に貼られた科学都市サブリエの地図を睨んだ。大小様々な書き込みと、そこかしこに貼られたメモは、全て最近発生した懐古症候群についての情報だ。プレアデス機関が無くとも、なんとか懐古症候群の行方を追うことは出来ないか。そう考えたアイシャが、苦心の末に編み出した方法だった。


 考えるのよ。手近なティッシュで鼻を乱暴にかみながら、アイシャは言い聞かせる。


 ラナ達は昨晩エメリによる襲撃を受けた。アランが重傷を負い、エドという名の学術機関アカデミアの少年は懐古症候群を発症し、そしてエメリは闇夜に乗じて逃げた。


 エメリは自身の所属する学術機関に戻った。普通に考えれば、それが妥当だ。けれど、アイシャはすぐに否定した。エメリは教会にわざわざ幻影を仕掛けたほど用心深い男だ。分かりやすい場所に行くだろうか。まして、エドと呼ばれた少年は懐古症候群を発症していた。あんなに目立つものを公的機関に置かないだろう。


 ならばきっと隠す。あるいは隠れられるような場所にエメリはいる。人の流れ、噂、これまでの懐古症候群が発見された日付。地図に記された全てをくまなく吟味し、やがてアイシャは指先で地図の一点を叩いた。


「ここだわ」アイシャは確信をもってアランを見やる。「ラナ達は間違いなく、娼館にいる」



 *****



 銃声と共に放たれた弾丸は、目の前を飛び交うカラスに掠りもしない。しゃがれた鳴き声を上げ、鴉がラナ達に襲いかかる。

 ラナの前を走るシェリルは、階段を駆け上りながら腕を振り回した。


「もう、刑事さん! こんな時くらいしっかり当てなさいよ!」

「っ、無茶言うなシェリル! 普通に生活してたら拳銃を使う機会なんてそうそうねぇだろうがよ!」

「刑事さん、申し訳ないけど!」ラナは声を張り上げた。「もう一回撃って!」


 ラナとシェリルが身を低くする。それと同時にロウガが再び銃を撃ち、鴉がそれを避けることで空いた隙間を三人は駆け抜けた。


 娼館は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 割れた窓から鴉が舞い込む。談笑していた少女達は豹変し、覚束ない足取りで中庭をたむろする。それらに混じって、懐古症候群の異能と思しき黒い人影があちこちで蠢いている。


 それらがラナ達のところにまで来ないのは、中庭でヴィンスとエドナが相手取っているからに他ならない。けれど、それもどこまで持つか。数の上では明らかにこちらが不利だ。少女達を傷つけないように配慮しているのか、ヴィンスとエドナは黒い人影を祓うための強力な魔術を使えないでいる。


 自分たちがやるべきことは二つだ。娼館の受付で、シェリルとロウガと共に交わしたやりとりをラナは思い出す。


「エメリ・ヴィンチを探し出すこと。それから、何とかして娼館の嬢ちゃん達を止める方法を見つける、ってぇことだ」


 ヴィンスとエドナの詠唱の声が響く中、中庭からヴィンスの伝言をもって来たロウガは、受付に身を潜めながらそう早口でまくしたてた。


「普通に考えれば」ラナは焦りを飲み込んで、努めてゆっくりと口を開く。「エメリを見つければ、この騒動は収まるってことになりそうだけど」

「そう上手くいくかは、怪しいところだわな、嬢ちゃん。エメリの野郎が俺たちの言い分に素直に従うとは思えねぇ」ロウガがしきりに無精ひげを擦った。「神父の兄さんが言うには、ここの嬢ちゃん達と黒い影を操るからくりがあるんじゃねぇか、って話なんだ。それを見つけさえすればいいんだが」

「……カセットテープ」


 シェリルが小さく声を上げた。ラナ達がそろって視線を向ければ、彼女は目を何度か瞬かせて呟く。


「そうだ……そうだわ。あの録音……」

「どうしたんだい、シェリル?」


 シェリルが顔を上げる。


「前に、ラナがカセットテープに録音してくれてたでしょう? 私と別れてからの行動を」


 ラナは頷いた。シェリルの部屋の盗み聞きが上手く行かず、そうこうする内に部屋に謎の少女が現れて、ラナがそれを追いかける。その先でエドと再会したのだ。その一部始終を録音したテープは、娼館を離れる前にシェリルと何度も聞いたものだった。

 けれど、それが今更何だというのか。ラナが問いかける前に、シェリルは言葉を続ける。


「だとしたらね、おかしいのよ」

「おかしい?」

「テープレコーダーに、鐘の音が録音されてなかったの」シェリルが早口で言った。「でも、私はたしかに、テオドルスと話している時に鐘の音を聞いたわ。これだけ大きな音なのよ? 本当に鐘が鳴っていたなら、レコーダーに録音されてるはずじゃない?」

「それは……確かにそうだね」

「つまり、あれか?」ロウガが口を挟んだ。「テオドルスが意図的に鐘の音をあんたに聞かせた……シェリル、あんたはそれを疑ってると」

「そういうこと。問題はその意図が何か、ってことだけど」


 シェリルは唇を何度か舐めた。


「今だって鐘の音が鳴り始めてから皆の様子がおかしくなったわ。ここの受付にいた女の子も、鐘の音のせいで数週間前と同じ行為を繰り返してる。ならきっと、時計台の鐘の音が娼館の女の子達を狂わせるきっかけなのよ。これを何とかすれば、彼女たちを止められる。そう思わない?」

「待て」


 ロウガが髪をくしゃりと掻き、眉尻を下げた。


「いや……確かに、その案は悪くねぇが……」

「なによ」シェリルがじろりと睨んだ。「はっきり言いなさい」

「その、辻褄があわねぇんだ。俺ぁ教会で黒い影に襲われたがね。その時は鐘の音なんざ鳴ってなかった。ってことは少なくとも、懐古症候群を操るのに鐘は不要だ、ってことじゃあないかい」


 ラナは折り曲げた指の関節で己の唇をしきりに叩いた。ロウガの発言には心当たりがある。エドと彼が連れてきた懐古症候群に襲撃された時のことだ。確かにあの時も鐘の音が鳴っていなかった。


 けれど、そうだ。


「――鴉」ラナはぽつりと呟いて顔を上げた。「鴉が、いたんじゃないかい」


 ロウガがゆっくりと目を見開いた。


「あぁ……あぁ、そうだ。それだ。確かに鴉がいて、鳴いてた」

「鴉なら、私も聞いたわ」シェリルの顔が少しずつ明るくなる。「テオドルスの相手をしていた時に……そうよ。だから今も娼館中に鴉がいて、鳴き喚いてるんだわ。懐古症候群を操るために」


 足音高く、娼館の二階へと足を踏み入れる。それと同時にラナは回想から戻った。


 素早く辺りを見回すが、目に見える範囲に人の気配はない。一階から響く戦闘の音。鳴き続けている幾羽もの鴉の鳴き声。それらに混じって、跳ねるように揺れる青玉サファイアの耳飾りの音がやけに大きく聞こえる。


 ロウガが悲鳴じみた声を上げた。


「おいおいおい! 前!」


 ラナは息を呑んだ。天井から黒い人影が落ちてくる。懐古症候群の異能。その数は五つ。

 震えそうになる息を、ラナは意識して強く吐き出した。


「走って!」


 ロウガ達に叫んで、ラナは輝石を掴む。乳白色に淡く輝く石は真珠。


『冠するは風  無垢の輝きを以て荒海を裂け!』


 石が砕け、前方に向かって突風が放たれた。シェリルとロウガの間を抜けた風は、黒い影二つを押しのけて道を作る。


 ラナ達は迷いなく突っ切る。行き着いた先でしかし、三人は揃って足を止めた。物が雑然と積み上げられた袋小路だ。消火栓の場所を示す赤い箱。そこに嵌められた火災報知機の警告灯が暗闇を赤く照らしている。


 黒い影が低い唸り声を上げた。鴉の羽音と共に、軽やかな少女達の足音も近づいてきている。そのどれもが嘲笑のようにも聞こえた。力を持たぬ人間が二人。半人前の魔術師が一人。何も出来ぬと、追い詰めたと、嘲笑うのはエメリ・ヴィンチその人か。


 嫌な想像を、ラナは汗ばんだ手を痛いほどに握ることで振り払った。振り返る。黒い影、果物ナイフを片手に立ち尽くす少女達。中庭に面した手すりには鴉が一羽止まっている。

 紅の目に漆黒の翼。それを見据え、震えそうになる身体に力を込め、そしてラナは無理矢理に笑う。アランがするように艶然と、どこまでも大胆不敵に。


「残念。追い詰められたのは、あんたの方だよ」


 ラナの背後で、シェリルが火災報知器のボタンを押し込んだ。間髪入れず、娼館中に大音量で警告音が響き渡り、そこかしこで聞こえていた鴉の鳴き声を打ち消す。


 少女たちがその場に崩れ落ちた。それにラナは確信する。彼女たちを操っていたのは鴉から放たれる鳴き声だ。だからこそ、その音が掻き消されれば少女たちの動きは止まる。


『冠するは太陽』立ち尽くした懐古症候群の黒い影めがけて、ラナは黄緑色に輝く橄欖石オリビンを突き出した。『恐れを退け宵闇を散らせ!』


 手加減なしの光をまとった風は黒い影の上体に当たり、その尽くを打ち祓う。鴉が鋭い声で鳴いて羽ばたいた。


 間髪入れず前方から膨らんだ殺気。それにラナは咄嗟に身をかがめた。次いで彼女の頭上を空振りする大きな黒い腕。


「っ、エド――!」


 これまでの黒い影よりも一回りも二回りも大きな影だった。ラナの視界いっぱいを覆い尽くすそれが、黒々とした息を吐き出す。ぞっとするほどの冷気も、そこに含まれた愉悦も哀しみも、寸分違わず昨晩のままだった。


 それでもラナは目をそらさない。この時ばかりは魔術を使うことも、手元に懐古時計がないことも頭から吹っ飛んでいた。


「エド、お願い!! やめて!」


 ラナが叫ぶ。視線がぶつかった。ぽつんと灯った一対の紅の目から、黒々とした何かが流れている。そして黒い影が空気を震わせ咆哮する。


 次の瞬間、黒い影から勢いよく闇霧あんむが吹き出た。それはラナの眼前で大きく広がる。シェリルが叫び、ロウガが怒鳴る。


 それでもラナは避けることなく、黒い靄を受け入れた。

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