# 灰色の街
――いつだって、雨が降っている。
灰色の街を濡らす雨。夏の湿った空気は重く、どれだけ走っても彼女に追いつくことはできない。仮面さえあれば。声さえあげられれば。あと少しだけ早く真実を知っていたのなら。並べた仮定の数だけ心臓が不規則に脈打って息ができなくなる。
雨の中で、探し人の名を呼んだ。雑踏を縫って彼女を追いかける。黒灰色の髪を追う。あるいはその目を。自分と同じ色を。大切な幼馴染を。
人混みをかき分け、街角を曲がり、裏路地に入る。そうして飛び込んだ廃ビルの先で見つける。
胸から真っ赤な血を流して、地面に横たわる彼女を。
「――っ、ラナ……っ……!」
叫んで、エドは飛び起きた。
しんと静まり返った部屋に、携帯端末のアラームが鳴っていた。窓に引かれたカーテン越しに、朝の光が漏れている。
ベッドの上で荒い息を吐きながら、エドは規則的な電子音を聴く。そうしてしばらくたったところで、彼は弱々しく首を振って端末に手を伸ばした。
アラームを切る。画面に表示された時間を確認し、ゆっくりと目を瞬かせて呟いた。
「……まずい」
*****
「そういうわけで、朝の7時から研究室に来たんです」
「……ちょっと待て、エド。全然意味分かんねぇんだけど」
「何がですか」
目の前のパソコンを睨みながら、エドはぞんさいに返した。
学術機関の研究室――そこに設けられた学生部屋であった。ところ狭しと並んだデスクを、蛍光灯が照らしている。
壁に掛けられたデジタル時計が『21:18』を示す今、人の姿はない。エドと、彼の背後でぐだをまく男――テオドルスを除いては。
エドはキーボードを叩いていた手を止め、口元に手を当てた。真っ暗なパソコンの画面には、白のフォントで幾つもの指示言語が連ねられている。デスクの脇に置いているのは、尾を噛む蛇の模様が彫り込まれた金属片だ。その中心に灯った赤のライトは未だに消えない。
エドはデスクを指先で叩く。
それを気にする素振りも見せず、「いやだってさぁ、」と、テオドルスが安物の椅子をしきりに軋ませて話を続けた。
「今の話、どう考えても遅刻する流れじゃん。妙な夢を見て、飛び起きて、時計を見たら昼過ぎ、ってのが鉄板だろ」
「そうですか」
「なのに、なんだよ、お前のは。妙な夢見て飛び起きたら、朝の6時。おまけに二度寝もしないで朝の7時から研究室に来るとか。ただの優等生じゃん。変態じゃん。クソつまんねぇ」
「夕方からしか研究室に来ないテオドルス先輩とは違うので」
「待て待て、お前今、俺のこと馬鹿にしただろ」テオドルスは、ぎいぎいと椅子を軋ませた。「言っとくけどな、俺のは戦略的撤退なんだよ。可能な限り楽しく華の学生生活を楽しんでるってだけだ」
「寝言は寝てから言ってください、万年留年野郎」
冷めた声音で返事をして、エドはキーボードを叩いた。画面に白色の指示言語が一行足される。次いで警告音。
エドは眉を微かに潜めた。その頭上から影が落ちる。
「はい残念、はずれ」
エドは目だけを動かした。テオドルスが意地悪く笑い、シャツを捲くった腕を組んでいる。
舌打ちするエドを無視し、彼は意気揚々と口を開いた。
「随分手こずってんなぁ、エドワード君?」テオドルスはパソコンの画面を覗き込んだ。「仮面の動作確認か? んん?」
「茶々入れる暇があったら黙ってくれませんか」
「やだね。小生意気な後輩に先輩ヅラできる最大のチャンスを、この俺が逃すとでも思うか?」
「……元はと言えば、こんな妙な指示言語を作った、あんたのせいでしょうが」
「いやー、ごめんな? 俺ってば天才だから、凡人のお前の気持ちが全然分かんねぇなー」
エドはぐっと奥歯を噛み、テオドルスの腕を乱暴に押しのけた。
鞄から電子端末とペンを取り出し、端末の画面を叩いて参考資料のデータを表示させる。
呆れたようにテオドルスが呟いた。
「ほんっとお前、クソ真面目だよな。一番初めにプログラミング教えた時からそうだったけどさ」
「…………」
「数ヶ月前のことだってのに、懐かしいなー。あの頃のお前と来たら、『Hellow, world』って表示させる簡単なプログラミングも作動できなかったし」
「…………」
「で? 今は今で、日付超えるまで研究室にいるのが当たり前の生活だろ。いやー、正直変態だぜ? 恋だの友情だの青春だの、そういうのに熱くなっても良い年頃じゃんか」
「…………」
「それこそ、ラナ、だっけ? 朝に叫んでた女の子の名前。夢に見ちゃうほどってことなら、絶対好きってことじゃんか。おう、そうだ。そうに違いねぇわ。だったらもう湿気た研究室にいる意味なんて、」
「俺が? あの女のことを好き?」
吐き捨てるように呟いて、エドは振り返った。
得意げな笑みを浮かべているテオドルスを睨む。
「えぇ、そうですね。ラトラナジュは確かに俺の幼馴染でした。でも、それは十年も前のことで、クソみたいな故郷を出てからは一度も会ってない。会いたいとも思わない」
「またまた……」テオドルスは頬を引き攣らせた。「そんなに照れなくてもいいんじゃんか。十年も経てば可愛くなってるかもしれないぜ? 同郷なら、昔話でも盛り上がれるだろうしよ」
「昔話で盛り上がる? 先輩は俺の家のことを知ってるくせに、本気でそんなこと言ってるんですか?」
そう言って、エドは――リンネウス家の最後の生き残りであるエドワード・リンネウスは酷薄な笑みを浮かべた。
「俺の家は純血の魔術師というくだらない肩書に踊らされて滅んだ。あの女はそれに関わってたんだから、むしろ消し去ってしまいたいくらいだ。存外、今日見た訳の分からない夢も、そういう願望の表れかもしれませんけど」
「……いやいや、エドワード君? 目がマジなん、」
「くどい」
「痛って!?」
エドの投げたペンが、テオドルスの眉間に直撃した。もんどりうって倒れる男を一瞥し、エドは椅子を軋ませながらパソコンに向き直る。
眉間を揉んだ。頭の奥が重く、少しばかり目眩がする。テオドルスのせいで気分は最悪だ。胸中で悪態をつきながら、エドは手探りで机の引き出しを開け、錠剤を取り出した。
水なしで薬を飲みながら、エドは壁に掛けられたデジタル時計を見やる。『21:38』――教授との待ち合わせ時間が近い。
エドは仕方なくパソコンの電源を落とした。金属片をポケットに入れて立ち上がる。
「ほら先輩。いつまでも床に転がってないでエメリ教授のところに行きますよ」
薄手の上着を羽織りながら、テオドルスの脇腹を足蹴にする。テオドルスが床に仰向けになったまま呻いた。
「げっ……もうそんな時間かよ……」
「そんな時間です。誰かさんが無駄口叩いてたせいで」
「ぜんっぜん、やる気しねぇわ……せめて綺麗なおねーさんと遊べんならさぁ、俺もさぁ、考えるけどさぁ……」
「その言葉、今度お見舞いに行った時に、マリィ先輩へきっちり伝えておきますね」
「やめろよ! あいつ、怒ると滅茶苦茶怖いんだからな!?」
顔を青くしたテオドルスが勢いよく起き上がる。それを一瞥し、エドは歩き始めた。
目指すはエメリ教授との待ち合わせ場所――科学都市サブリエで圧倒的な人気を誇る娼館だ。