10-1. それでも君は変わらないね
「どうして……どうして俺の絵を見てくれないんだ……」
暗がりから男のすすり泣きが聞こえてくる。それにアランは顔をしかめた。
小さな部屋だ。壁には大小様々な絵が掛けられ、間接照明でぼんやりと照らされている。天井近くには等間隔に小さな画面が取り付けられており、展示作品の解説動画が音もなく流れている。
青の靄から抜けたと思ったらこれだ。目だけを動かし、部屋をぐるりと見回したアランは嘆息する。ラナの姿はない。部屋全体に響く、声の主の姿も見えない。
「なんだ、実につまらんな」
老成した声と共に、一斉に画面の映像が切り替わった。真っ白な壁を背景に、鷲鼻の老紳士が革張りの椅子に腰掛けている。
アランが目を細めれば、画面の男はうっすらとした笑みを口元に刻んだ。
「青の靄からここまで飛ばされてきたんだろう。もう少し驚いてもいいんじゃないかね、アラン・スミシー?」
「はっ、毎度大げさなことだな。エメリ・ヴィンチ。ただの懐古症候群の一事象だ。何を驚けと?」
「相変わらず魔術師の思考停止は嘆かわしい! 空間転移だ。物理学的に言えば光速を越えている。事の重大さが分かるかね? 光速を超えても尚、物質情報の整合性を原型のまま保存している。これがどれほど素晴らしいことか」
「要件は」
アランが短く問えば、眼鏡の奥でエメリの目が鋭く光った。
「なに、君が面倒な女に絡まれているようだったからね。手助けしてやろうと思ったまで」
「戯言だな」
「本心だよ」エメリは薄く笑みを刻んだ。「君と私の仲じゃあないか」
エメリがぱちんと指を鳴らす。
部屋の最奥の灯りが一段と強くなった。みすぼらしい身なりの男が、アランに背を向けるようにして地面に座り込んでいる。
ぼさぼさの頭を上げた男は、青一色で塗られた絵をじっと見つめていた。絵を見てくれと。うわ言のように同じ言葉を繰り返している。
同情を引くにしても、あまりにもお粗末な出来だ。本心を隠しもせずに、アランは嘲笑する。
「いよいよ学術機関は人材不足らしいな、教授? 客人に暇つぶしを用意するのなら、もう少しまともな物を提供すべきだ」
「今の段階で満足頂けないのはごもっとも。我々としても仮説が外れて困っていてね」
「さすがは科学者だ。つまらん言い訳に逃げるしか脳が無いらしい」
「我々の仮説が正しければ」エメリは笑みを収め、椅子を軋ませながら腕を組んだ。「懐古症候群の人間は『何かに固執』しており、その『何か』が害されれば精神に不調をきたして症状が最終段階まで移行する。ところがこの男は、親しい女が死んでも症状が進行しなかった。これが何を意味するか分かるかね?」
アランは目を眇めた。装飾腕輪に嵌められた輝石へ指を伸ばしながら、低く呟く。
「君のお粗末な脳で立てた仮説とやらが違ったんだろう、エメリ・ヴィンチ」
「不正解だ」
何かが爆ぜるような小さな音が聞こえたのはその時だった。照明が一斉に消える。部屋はすぐに元の仄暗い明るさを取り戻すが、それは照明ゆえではなかった。
展示された絵の全てが燃えている。
「あ……あああ……!? 絵が……っ……俺の絵が……!?」
床に座り込んでいた男が引き攣れたような悲鳴を上げた。愕然と開いた目に炎が揺れる。それと共に、炎に照らされた男の影が奇妙に歪む。
アランは舌打ちして輝石を掴んだ。
画面の奥で、笑みを消したエメリが目を細める。
「『ベルニが固執していたのは女ではなく絵画だった』。残念ながら、これが正解よ、アラン・スミシー」
*****
青い靄の中から出てきたエドは、じっとラナを見つめていた。無表情だ。だらりと垂らした片手に奇妙な金属片を握っている。腰元に短剣。それ以外に得物は見当たらない。
ポケットへと手を伸ばしながら、ラナは努めて冷静にエドへ声をかける。
「自分が、何をしてるのか分かってるのかい?」
「当然」エドは表情一つ変えぬまま、肩をすくめた。「君たちを妨害しに来た。ベルニの懐古症候群の進行を見届けるのが俺たちの目的だ」
「そんなことしたら、ベルニが死んでしまうだろ」
「それが? 放っておいたっていずれ死ぬんだ。なら有効活用すべきだ」
「……本当に、あんたは」胃がねじれるような感覚に、ラナは顔を歪めた。「学術機関みたいなことを言うんだ」
「みたい、じゃない。学術機関なんだよ、俺は」
エドは唇を歪めた。ラナと同じ黒灰色の目に蔑みの色が浮かぶ。
自分の知る彼とはあまりにも違う表情にラナは愕然とした。こんな時なのに、ラナは十年前の彼の笑顔を思い出した。記憶の中で屈託なく笑う彼と、目の前の彼。
「昔の……昔のあんたは、こんなじゃなかっただろ!」突き刺すように痛む心臓を服の上からぎゅっと押さえ、ラナは一歩前へ踏み出す。「考えてもみなよ! こんなの、タチアナさんが見たら何ていうか」
「死んだよ」
「え?」
「タチアナは、死んだ」
一語一語区切るようにエドが言う。それがひどく遅く感じられたのは気のせいか、否か。
ラナは体を震わせた。
「待って、それは」
耳鳴りがする。不意に蘇ったのは、娼館で出会った男の言葉だった。 研究ってのはな。何千何万という事象の観察から成り立ってんだ。そう告げた、テオドルスは何をしようとしていたのか。
恐ろしい可能性に行き当たって、ラナは唇を震わせる。
「殺したのかい」
エドは返事の代わりに金属片を宙に放り投げた。
『――|生体骨格起動: 豹《Binomen open: Panthera pardus》』
機械的な女性の声と共に、瞬く間に展開された金属片が豹を模した仮面となる。落下してきたそれを迷うこと無く被ったエドは、腰元の短剣を引き抜いて駆け出す。
エドの凶刃を、ラナは転ぶようにして躱した。
「っ……!?」
「ほら、止めるっていうなら本気出さないと」
エドは馬鹿にしたように笑った。止まることのない斬撃を、ラナは必死で避ける。
なんで。どうして。まとまらない感情がラナの頭を埋め尽くす。あんなにタチアナさんと仲良くしていたじゃないか。昔のあんたなら、絶対そんなことしなかった。陳腐でありきたりな言葉は幾つも浮かんだ。けれどどれも脳を滑っていくばかりで、声にならずに消えていく。
ラナの背中がパネルに当たる。逃げ場を無くした彼女を見たエドが笑い、ゆっくりと近づいてくる。
引き連れるような胸の痛みに、ラナは唇を噛んだ。やっぱりエドは変わってしまったのか。
ポケットを弄っていたラナの指先が、硬い何かを掴んだのはその時だった。
慌てて取り出した掌の上で、白色の真珠が転がる。まろい形をしたそれを親指の腹で撫でると同時に、アランの言葉が蘇った。この三日間、何度も何度も繰り返し言われた言葉。
魔術は確たる想像が原動力だ。呑まれるな。想像を乱すな。
「――落ち着いて」
記憶の中のアランと共に、ラナは呟く。顔を上げる。間近に迫ったエドへ、輝石を掴んだ右手をまっすぐにかざす。
『冠するは風 無垢の輝きを以て荒海を裂け』
輝石が砕け、突風がおこった。
エドが驚いたように動きを止めた。けれどそれも一瞬で、地を蹴って素早く後退する。風に髪を揺らしながら、ラナはパネルから背を浮かせる。
次の輝石を掴みながら、ラナは幼馴染をきっと睨む。
「驚いたな」少し離れたところに降り立ったエドが、淡々と呟いた。「てっきりこのまま、泣くのかと思った」
「……子供じゃないんだから、そんなことはしないよ」
「へえ」
エドの声音に嘲笑めいたものが滲んだ。
「そう。じゃあ君は割り切れるんだ。俺と戦うことも、タチアナが死んだことも」
「割り切れるわけない!」
一度叫んで、ラナは震える息を吐いた。服の裾を握り、ゆるく頭を振る。
「割り切れるわけないよ……」ラナは語気を強めた。胸が痛い。何故と今すぐにだって問いただしたい。それでも息を吸い込み、エドを見つめる。「でも、まずはあんたを止める。ベルニさんも助ける。話を聞くのも、泣くのも、それからにする」
「この世界は偽物ばっかりだ。それでも君は変わらないね」
「ならエド。あんたはどうなんだい」
一瞬の沈黙があった。時計台の歯車が軋む。
エドの纏う空気が冷たいものに変わる。
「君がそれを確かめてみればいい」




