# Eve
「いいかげんにしろよ、お前」
怒気をはらんだ声で、エドはベルニの胸ぐらを掴んだ。
二人がいるのは、夜を迎えた病院の待合室だった。等間隔に並んだ長椅子が薄暗闇に沈んでいる。遠くからは慌ただしい看護士達の足音が響く。
「っ……俺は悪くないだろ……ッ」
非常口を示す看板が放つ緑色の蛍光。それに照らされて、ベルニが顔を歪めた。
「あの女が悪いんだ! 俺のやること成すこと文句つけやがって! 酒を飲むな!? 絵を描け!? あなたならできる!? 上から目線で指図するから黙らせてやっただけだ!」
「タチアナ婦人はお前みたいなクズ野郎の心配をしていたんだろうが」
「心配!? ハッ、あんなババアみたいな女からの心配なんざ、気味が悪い!」
酒臭い息を吐きながらベルニが喚く。それにエドは唇を引き結び、男を床に放り出した。尻もちをついた男が無様な悲鳴を上げる。ぼさぼさの頭も、薄汚れた服も、昨晩エドが青の絵を奪った時と同じ格好のままだ。いや、それ以上に酒臭い。
エドはくしゃりと前髪を握りながら椅子に座った。深く息を吐き、ここに来るまでのことを思い出す。
物音がしたのは深夜もすぎてからだ。言い争う声と、何かが倒れるような鈍い音。二階の別の部屋で休んでいたマリィと共に、一階に駆けつけた時には遅かった。
酒に酔ったベルニが床を見下ろしていた。視線の先ではタチアナが床に倒れていた。その鼻先からは人工呼吸器の管が外れていた。立て続けに蘇る記憶にエドは眉間を揉む。機械の警告音が耳について離れない。
「お前……あの杖ついたヤブ医者んとこの学生だろ」
ぎょろぎょろと目を忙しなく動かしていたベルニが呟いた。エドの視界の端で、薄汚れた画家はニヤついた笑みを浮かべている。
エドは眉をひそめた。
「エメリ教授はヤブ医者じゃない」
「は、ははっ。笑わせんな。俺の病気一つ治せねぇんだ。昨日だって結局、俺に偉そうに忠告するだけで終わったじゃねぇか」
「懐古症候群の患者が、笑わせるなよ」エドは吐き捨てるように呟いた。「全て考えあってのことだ。凡人のお前には理解できないだろうが」
「凡人!? それはお前らの方だろうがッ」
ベルニは突然、怒りに満ちた声を上げた。血走った目を剥き、エドへ唾を飛ばす。
「俺の絵を奪いやがって! その上、絵を展覧会に出すな!? あのヤブ医者! 俺の作品をなんだと思ってやがる!」
エドは冷え冷えとした視線を送った。
なるほど、確かに昨晩は強引な方法でベルニから絵を取り上げた。けれど件の絵は、精査の後にベルニに返却したはずだ。絵を展覧会に出すなというのも、普通に考えれば納得できるだろう。見た人間を狂わせる絵など害悪でしかない。
ベルニは垢まみれの爪をがりと噛む。
「見られなきゃ意味がねえんだよ。作品は。まして、この俺の……天才の作品だぞ……画商から幾つも声がかかってんだ……見られるチャンスなんだ……見られなきゃ……俺は……」
ベルニの唇の端から唾液と共に血が溢れる。
エドは鼻を鳴らした。今だってこんなに無様なんだ。薄汚い男を見下ろしながら、胸中でせせら笑う。懐古症候群が進行すれば、どれほど見るに耐えない姿になることか。
「――エド坊、ちょっといいか」
エドは振り返った。柱の影からマリィが手招きをしている。
「マリィ先輩。タチアナ婦人の様子は」
「容態は、安定したよ。なんとか。今のところは」
疲労の色を滲ませたマリィは、近づいたエドへやけに歯切れの悪い返事をした。
彼女が片手に持った携帯端末が青白い光を振りまいている。それが妙に胸をざわつかせ、エドは眉をひそめた。
「何かあったんですか」
「……教授から連絡があった」
「エメリ教授から、ですか」
「タチアナ婦人を殺すようにと」
「……は……?」
一瞬、マリィが何を言っているのかエドは理解できなかった。看護士たちが廊下を行き交う足音が大きくなる。ベルニの怨嗟に満ちた声が低く低く響いている。
マリィが何度か唇を舐め、己を鼓舞するように携帯端末を握る。
「勿論、大っぴらにやれってわけじゃない。折よく病院に戻ってきてくれたからな。計器の誤作動か何かを装ってやれっていう指示だ」
「待って……ください。どうしてタチアナ婦人を殺す必要があるんです? 俺たちは元々、ベルニの懐古症候群を調査するために派遣されたはずだ。その口実のために、タチアナ婦人の面倒を見ていただけじゃないですか」
「教授の仮説はこうだ」マリィは苛ついたように一段声を大きくした。「懐古症候群の症状が進行するためには、外部からの心的ストレスが鍵となる。そして人間にとって最も有効な心的ストレスは、親しい人間の死である」
「だから、殺すんですか」
エドは顎を震わせながら呟いた。マリィは一度目を逸す。深く息を吐く。携帯端末の電源ボタンを押し、スリープモードに切り替える。
明かりが消える。
「エド坊。これが研究だよ」暗がりの中で瞼を上げたマリィは、エドを見下ろし顎を引いた。「命の重さを私情で決めてはならない。ベルニを殺せて、タチアナを殺せない。それは不平等だ。まったく科学的じゃない」
「あいつは懐古症候群だからだ」エドはマリィに詰め寄った。「懐古症候群の患者はいずれ死ぬ。だからこそ、その死を有効活用し、治療法を見つける。うちの研究室は、そういう方針だったはずだ……!」
「タチアナだって不治の病だ。機械で誤魔化してはいるが、あの体はもう限界なんだよ」
「だからって、」
「いれこむなと、再三言ったはずだ。エドワード・リンネウス」
マリィの突き放すような声に、エドは言葉を失った。己の鼓動の音がやけにはっきりと聞こえる。夏だと言うのに、体中が冷え切る。
マリィが深々と息をついた。長髪を乱暴に掻いた彼女は、少しばかり声を和らげる。
「お前がうちの研究室に配属されてから七ヶ月だ。その間ずっと見てきたが……エド坊、お前はそろそろ、私情と研究を分けて考える癖をつけろ。このままじゃお前のメンタルが持たないぞ」
「……そんなこと、出来てます。別に、俺は、私情に流されてなんかいない」
「出来てないから言ってんだろ。正直、あの幼馴染ちゃんと話してた時から怪しいとは思ってたけどな」
「じゃあ逆に聞きますけど」エドは拳を握りしめ、マリィを睨みつけた。「先輩は出来てるんですか。タチアナ婦人を殺せという指示を、黙って受け入れることができると?」
「……できるさ、勿論。だからこうやって話をしてるんだろ」
マリィは頷く。
それはけれど、ほとんど囁き声にも近い声音だった。その目が伏せられる。暗闇の中で、彼女のしなやかな体が震えたような気がする。
エドは鼻で息を深く吸い込んだ。良かった。彼女も決して罪悪感を感じていないわけではないのだ。
ならばきっと。エドがそう思った時だった。
不意に廊下が騒がしくなる。看護士がタチアナの名をしきりに叫ぶ。ただならぬ緊迫感に、エドはマリィを押しのけ駆け出した。
病室に駆けつけた若い医師が薬と処置の名を叫んでいる。看護士達が悲鳴じみた声で読み上げるのは心拍数、呼吸数、脈拍、そして。
「先生……ッ、機械の誤作動です……!」
そう叫んだ看護士を押しのけ、エドは異常音を撒き散らす人工呼吸機の前に跪いた。不審の声を上げる周囲を無視し、機器を制御しているパソコンの画面を起動させる。浮かび上がる文字の羅列を読み上げ、システムの異常箇所を見つけたそばから修正する。
なりふりなど構っていられなかった。マリィの警告ですら頭から飛んでいた。
間に合えと、ただそれだけを呟きながら、エドはひたすらにキーボードを叩き続けた。




