6. これは冗談かしら、本当かしら
「やめて……っ!」
悲鳴を上げたラナの口は、見知らぬ男に瞬く間に塞がれた。
冬の森は夜を迎えていた。風が吹き、木々に積もった粉雪をばらばらと散らしていく。雲一つない空に半月がぽつりと浮かび、澄んだ月光を大地に振りまく。森を切り開いて作った小さな空き地に、粗末な小屋がぽつんと立っている。
その何もかもが、ラナにとっては大切な光景だった。冬の夜の、静かな森。時折聞こえる雪の落ちる音に耳を傾けながら、養父の胸の中で眠りにつく。貧しくとも、ただそれだけあれば良かった。
なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。涙で濡れた目で、ラナは辺りを見回した。
小屋が燃えている。無粋な炎の灯りが、夜の森の静寂を暴く。ラナの目と鼻の先で、養父が地面に両膝をついて項垂れている。養父の首元に剣をつきつけた男達は、興奮したように囁きあった。純血、魔術師の家系、リンネウス伯爵。
煌々と燃やされた松明の灯りを弾き、男達の声に応じるように刃がぎらりと輝く。お義父さん。声にならぬ声を上げ、ラナは必死に拘束から逃れようとする。けれど体はびくともしない。
ついと養父が顔を上げる。男たちの声が一層大きくなる中で、彼はまっすぐにラナを見つめた。いつもと変わらぬ優しい瞳で、彼は言う。
大丈夫。そう、口を動かす。
その瞬間に、男たちが剣を閃かせ鮮血が宙を舞った。
*****
「――っ、お義父さん……っ……!」
ラナは勢いよく身を起こした。返事はなく、伸ばした腕は宙をかく。
辺りを見回した。ベッドと机しかない簡素な部屋は、教会にあてがわれた自室に違いなかった。
カーテンを引くことを忘れた窓からは、朝の日差しが静かに差し込む。鳥のさえずりが羽ばたきと共に遠ざかる。ラナの枕元で懐古時計がカチリと鳴る。
ベッドの上で、ラナは震える息を吐き出した。夢だ。言い聞かせるように胸中で何度か繰り返し、額を押さえる。
そこで、音を立てて扉が開いた。
「ラーナーっ……!」
「っわ……っ……!?」
ラナが身構える間もなかった。黒のワンピースをはためかせ、アイシャが勢いよくラナに抱きつく。バランスを崩して倒れたラナの頰に、灰色の猫のぬいぐるみがすり寄せられた。
「よかったにゃ……! 怪我は!? 怪我はないかにゃっ……!」
「ちょ、ちょっと待ってニャンうぷっ」
「にゃー! 確認にゃ! チェックにゃ!」
ごそごそとニャン太が容赦なくラナの服をめくる。ラナが慌てて止めようとすれば、アイシャの手がそれを妨害した。細腕からは考えられないほど強い力にラナが苦戦している間に、アイシャとニャン太が気の済むまで確認し、騒ぐことしばし。
「擦り傷一つ、青あざ四つ、骨折なしにゃ!」髪の毛をぼさぼさにしながら、アイシャがぱっと顔を上げてニャン太と頷きあう。「完璧ではにゃあですが、大事なくて良かったですにゃ!」
「……あーそうかい。それはどうも……」
ベッドの上で大の字になったラナの頭上を、ニャン太とアイシャの勝利宣言が通り過ぎていく。息一つ上がっていないアイシャに、ラナは内心で舌を巻きながら首を横に向けた。
「というか、アイシャの方こそ大丈夫なのかい? あの青い靄に巻き込まれたりとかうぷっ」
ラナの唇をニャン太の小さな手が塞いだ。目を丸くするラナへ、ニャン太がゆらりと首を振る。
「それは、大丈夫ですにゃ」
どこか拒絶するように、一語ずつ区切るように言う。アイシャの目が暗く光った。けれどそれも一瞬で、瞬きの間に彼女の目に気遣わしげな色が宿る。
「はーい、戯れはそこまでにして頂戴」
実に面倒臭そうな声と共に、乾いた拍手が鳴った。顔を青くしたアイシャが飛び退いた。ラナが止める間もなく、彼女はニャン太を両腕で抱えて部屋の片隅に駆けていく。
開け放たれた扉から、女が一人近づいてくる。金髪をきっちりと結い上げていた。黒スーツを着込んで尚、女性らしい柔らかな体のラインがはっきりと見える。
ピンヒールを鳴らし、彼女はピタリと立ち止まった。薄い銀縁眼鏡の向こうで、はしばみ色の目をぎょろりと動かす。
「化粧なし、髪の毛はぼさぼさ、服も着替えてない」
「は?」
「35点ね」矢継ぎ早に言ったエドナは、すんと鼻を鳴らした。「あらやだ、香水もつけてない。10点減点」
ラナが眉を潜めれば、エドナが胸を揺らして笑う。
「やぁねぇ、冗談よ」
「……誰だいあんた」
「エドナ・マレフィカ。魔術師で、アイシャの指導役よ」
ちなみに、これは本当ね。投げやりに付け足して、エドナは検分するように部屋の中を歩き回った。辛気臭い部屋ね、とこれ見よがしに呟いた彼女は、部屋の真ん中で立ち止まり胸ポケットに手を入れる。
取り出されたのは、銀に輝く羽毛が一枚。
『蝶の羽ばたき 駿馬の大翼 我が望みを形にせよ』
ぱちん、と空気が弾ける音と共に、空中に馬の頭を持つ小人が現れた。彼は抱えたラジオ――ラナからすれば掌に収まるサイズだが、小人からすれば全身で抱えるようなサイズだ――をエドナへ放り投げ、じろとラナの方を見やって、くるりと宙で反転し姿を消す。
今のは魔術だろうか。ラナは何もない空間をまじまじと見つめるが、エドナは説明する気もないようだった。
「朝っぱらから湿っぽい空気なんて御免よ」
ラジオのつまみを捻りながら、彼女はぼやく。
『連続不審死事件については、未だ犯人の手がかりなく』『さて、終わらぬ都市開発について、ゲストにお招きした経済ジャーナリス、』『再歴2058年8月23日、今日の天気は晴れ。熱中症に、』『8月生まれのあなた、今日は頭上に注意してください。懐かしい人との再会の予感。一方で、親しい人とは距離を置いた方がいいかも』……眉間に皺を寄せながら指を動かしていたエドナが満足そうに手を止めた。本を乱暴に押しのけて机の上にラジオを置いた後、すぐ隣に足を組んで腰掛ける。
「さて、と。早速だけれど仕事よ、お嬢さん」
流れ始めた陽気な音楽がラナの神経を逆撫でする。それに顔をしかめ、ラナはのろのろと口を動かした。
「……仕事って、なんのだい」
「いやねぇ、しらばっくれないでよ。魔術協会の、に決まってるでしょ」エドナは指先の甘皮をめくりながら、面倒臭そうに口を動かす。「欲しかったんでしょ? だから昨日はアイシャまで巻き込んで、私たちに黙って依頼を引き受けた。違う?」
「え、エドナ……」
アイシャが恐る恐る声を上げるが、エドナが鼻を一つ鳴らすなり黙り込んでしまった。
ラナは唇を噛む。沈黙を肯定と受け取ったのか、エドナはゆるりと足を組み替えた。
「やっぱりね」
「……アランに聞いたのかい?」
「はあ? この私が? あの気障ったらしいインチキ魔術師に? あなた、冗談のセンスが無さすぎね」
女の勘よ。そう言いながら、エドナは胸元から端末を取り出した。赤のマニキュアで彩られた爪は美しく、端末の上で指が動く度にきらと輝く。そうしてしばし端末を操作していた彼女は、おもむろにそれを放り投げた。
「この場所へ行ってきなさい」
ラナは慌てて手を伸ばした。受け取った冷たい端末には地図が表示されている。時計台の東側だ。地図を指先で拡大しても、目立った店や建物はない。ぎゅうぎゅうにひしめきあった建物の一つに赤いピンが立っている。
「なんだい、ここ」
「昨日の騒動を起こした懐古症候群がいるところ」
「……殺して来いってことかい?」
ラナはぎゅっと端末を握った。呪いの絵の依頼人であるベルニの顔が浮かんで消える。
エドナの目に嘲笑の色が浮かんだ。
「まさか! なんの冗談かしら。私はただ、チャンスをあげようってだけよ」
「チャンス?」
「あんた、妙な力を持ってるんでしょ。懐古症候群を治す、だっけ。神父様が大喜びしてたわ……でもね。私は自分の目で見るまでは何事も信じない性格なの。だから、実際にあんたの魔術を見たいってわけ」
でも最初から行くのは面倒じゃない? だから魔術を使う時になったら電話して頂戴。尊大に告げたエドナは、わざとらしく声を和らげる。
「少なくとも今日は、神父様もインチキ魔術師も三機関会議に出かけてるから、邪魔は入らないわ。明日以降だって、いくらでも私が協力してあげましょう。まぁ、神父様はあなたを絶対に咎めないでしょうけどね。だって、あんたに魔術を使ってほしいと心の底から思ってらっしゃるんですもの」
「……でも」
「それとも、アラン・スミシーにバレるのが怖いのかしら。お姫様」
ラナは顔を跳ね上げた。否定の言葉はしかし、ラナの喉につっかえて出てこない。
エドナがゆるりと首を傾げた。金髪が一房溢れて頬にかかる。
「心配しなくても大丈夫よ。むしろ喜ぶべきだわ」
「……どういう意味だい?」
「アラン・スミシーはもう、貴方の指導役じゃないもの」
ラナは全身の筋肉がこわばるのを感じた。ラジオの音がぐんと遠ざかる。指導役じゃない? エドナの言葉を何度か舌先で転がして、やっとの思いでその意味を理解する。同時にジワリと体中が凍えるような気がした。
呆れられたんだ。ラナはぼんやりと思う。自分が身勝手な行動ばかりとるから。
薄く開いたラナの唇から、微かに空気が漏れる。
それを見て、エドナは美しい笑みを一層深めた。
「さぁ。これは冗談かしら、本当かしら。どちらだと思う?」
*****
どちらかなんて、分かりっこない。
外れかかった石畳を踏みしめながらラナは項垂れる。苦々しいほどの晴天だった。突き抜けるような日差しがジリジリと肌を焼く。気温はうなぎのぼりだが、ラナの気分は沈む一方だ。
ラナは深く息を吐き、懐に入れた端末を取り出した。パスコードを入れてロックを解除し、地図のアイコンを叩いて開く。
赤い点滅が、目的地が近づいていることを告げていた。そういえば、初めてアランを追いかけた時も、こうやって地図を頼りに歩いたのだった。前触れ無く思い出し、胸がつきりと痛む。ラナは逃げるように地図を閉じた。
眩さに目を細めながら、ラナは辺りを見回す。
あちこちでビルの解体や建築が行われていた。その隙間を埋めるように細い路地が見え隠れし、子供達がはしゃいだ声を上げながら駆け回っている。彼らにぶつからないようにしながら歩を進めたラナは、しばらくして目的の場所にたどり着いた。
その家は建て替え中のビルの狭間にあった。ラナは、額の汗を拭って頭を上げる。随分細長い建物だ。ラナが両腕をめいいっぱいに広げたより、少し長いくらいの幅しかない。壁は蔦で覆われているが、夏の暑さにやられて軒並みしおれていた。
二階に嵌められた窓は開いている。白いカーテンが夏風をはらみ、翼のように青空の下で揺れていた。その揺らぎの間で何かが光った――そうラナが思った次の瞬間、彼女の額に何かが当たる。
「痛っ――」
「ああ! ごめんなさい!」
頭上から慌てたような女の声が振ってきた。痛む額をさするラナの足元で、細い絵筆が転がる。拾い上げて顔を上げれば、二階の窓から女が覗いているのが見えた。白髪交じりの髪が太陽の光を弾く。皺の刻まれた顔には申し訳無さそうな表情が浮かんでいた。
「そこのお嬢さん……! それ、私のなの!」
「あ、はい」
「ちょっと待っててくれるかしら! 今取りに行きますから……!」
ラナの返事も待たずに女は頭を引っ込めた。ラナは目を瞬かせ、手元の筆をもう一度見やる。
しまったな、と暑さで湯だった頭で一拍遅れて思った。むしろこれを口実にして家の中に入らせてもらえばよかったのだ。少なくとも、アランならばそれくらいのことは息をするよりも簡単にやってのけるだろう。そこまで考えたところで、ラナは壁に背を預け、ため息をついた。いい加減に、自分はアランのことを考えるのをやめるべきだ。
例えば、寝ても覚めても頭をついて離れない人が出来たとして。
唐突に養父の穏やかな声が蘇り、ラナは目を細めた。彼の言葉の続きは労せずとも思い出せる。
その人のことを想って苦しくなる時もあるけれど、それでも忘れたくないって言える――もしもそんな人を見つけられたのならば、これほど幸せなことはないんだよ。
ラナは手の中で絵筆を転がした。でもね養父さん、とささやかな反論をする。私にはまだ、その言葉の意味が分からないんだよ。苦しいほど誰かを思う、なんて、おかしいことのような気がするんだ。もしもその人のことが大切ならば、考えるだけで幸せになれるはずだろう?
少なくとも、ラナにとって養父はそうだった。それから……そう、彼も。記憶の波の間で、屈託なく笑う幼馴染の姿が浮かぶ。
黒灰色の髪と褐色の肌。ラナの故郷では珍しくもない髪と肌の色を持つ彼は、引っ込み思案で、体力も無くて、ひどい癖毛の前髪の奥でいつも泣きそうな目をしていた。それでも確かに、ラナにとっては大事な友人だったのだ。ラナが村を出なければ、きっと今でも交流していた。確信を持って、そう言えるほどには。
扉の開く音がして、ラナは我に返った。慌てて壁から背を浮かせ、懐かしい記憶を押しのけながら居住まいを正す。
なにはともあれ、まずは絵筆を返さねばならなかった。そのついでに、なんとか口実をつけて懐古症候群の元凶である絵師のベルニに会わねばならない。頭の中でざっと並べ立て、ラナは愛想の良い笑みを貼り付けて中を覗く。
そしてポカンと口を開けた。
先頭に居たのは先程の女性だ。遠目では分からなかったが、鼻下に細い管があてがわれ、足元には車輪のついた仰々しい機械が置かれている。けれどラナが驚いたのは、彼女の背後に控えていた少年だった。
背丈はラナよりも少し高いくらいだった。黒灰色の髪に褐色の肌。その前髪は記憶にあるよりも少し短く、そうであるが故に、見開かれた目がよく見える。
「エド……?」
ラナが呼ぶ名は、まさに今しがた思い出していた幼馴染の名前そのものだった。




