5. 今のは、聞かなかったことにして
かつかつと、靴音が二人分響いている。
夜を迎えた裏通りは、細い弓張月で頼りなく照らされていた。両脇に並び立つ廃屋同然のビルが黒々と空に突き刺さる。
その中を、ラナは大股で歩く。
「ラトラナジュ」
「ついてこなくていいよ」
後ろから飛んできたアランの声に、立ち止まったラナは振り返りもせずに返した。しばしの沈黙。遠く響く車の音。アランが今どんな顔をして、自分を追いかけてきているのか。考えたくなくて、ラナは努めてゆっくりと言葉を継ぐ。
「心配しないで、アラン。教会への帰り道はちゃんと分かってる」
「車で来てるんだ。すぐそこに停めてあるから、君を教会まで送ろう」
「大した距離じゃないよ。自分で歩いて帰れる」
「ラトラナジュ、待ってくれ」
ラナの腕に、何かが触れた。反射的にそれを払いのけて、ラナは振り返る。
腕を宙に浮かせたアランとばちりと目があった。感情の読めぬ金の目を睨みつけ、ラナは短く息を吐く。
「触らないで」
「怒っているのか」
「怒ってない」
食い気味に返して、ラナは唇をぎゅっと噛んだ。アランが目を眇める。この期に及んでもアランの胸中は読めず、それがラナにとってはひどく不安で、居たたまれなくて、苦しかった。
「……助けてくれたことは、感謝してるよ」ラナは慎重に言葉を選ぶ。「でも、ごめん。今はそれ以上言えない」
「そんなにあの狼のことを殺したくなかったのか」
少しばかり責めるようなアランの声に、ラナは黙した。目をそらせば、彼が呆れたように腕を組む。
「理解できないな……まったくもって、理解できない。アレはただの通りすがりの一般人だ」
「それでも、あんたは助けてくれたじゃないか。シェリルの時は」
「他ならぬ君の頼みだったからな」
「なら私が頼めば、あんたは誰も殺さないでいてくれるのかい?」
組んだ腕の上で、アランがぴくりと指を動かす。ラナは項垂れた。違う。そういうことを言いたいんじゃない。じわりと口の中に苦いものが滲む。決して、自分は彼を従わせたい訳ではないのだ。
ならば、自分はどうしたいのだろう。
「……ごめん。今のは、聞かなかったことにして」
アランの返事も待たずに身を翻した。走り出さぬよう精一杯堪えながら足を動かす。
息をする度に、針で刺すような痛みが胸をついた。自分はアランから逃げてばかりだ。分かってはいても足は止まらなかった。暗い裏路地を抜け、人々で賑わう大通りに入って立ち止まる。煌めきも賑やかさも、懐古時計を売り損ねたあの日と寸分違わない。だからこそラナの胸が一層締め付けられる。
自分は、少しだって成長していない。喉奥からこみ上げてくる痛みを唾と一緒に飲み込む。耐えきれず、とうとうラナは駆け出した。