3. 何よりアランが喜びそうにゃ
それから一時間と経たずに、ラナはアイシャと共に喫茶店を訪れていた。
男から指定された待ち合わせ場所だ。柔らかな間接照明で照らされた店内に洒落たソファや椅子が点在している。夕方間近だが客は多く、ほとんどの席が埋まっていた。
それらを眺めながら、ラナは入り口近くに置かれた無料の水をコップに汲み、トレイの上に載せた。ついでとばかりに、近くにあった雑誌を小脇にはさみ、窓際近くの席へ足をすすめる。
椅子に腰掛けたアイシャは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夏の陽光が白銀の髪を光らせる。ひどく浮世離れした光景に、ラナは思わず足を止めた。
そもそも、とラナは遅ればせながらに思う。彼女は一体何者なんだろうか。魔術師にはとても見えないけれど。
「ラナ!」
視線に気づいたのか、アイシャがぱっと振り返った。ラナに向かって、ニャン太が声を上げ、小さな手を振る。その仕草に目元を緩ませながら、ラナは歩を進める。
「わわっ……! 申し訳ないにゃ……っ、お水……っ」
「もうすぐ注文した飲み物も来ると思うけどね。こういうの、自分で準備しないと気がすまなくて」
「にゃにゃっ? そうなのにゃ?」
「前働いてた場所が、そういう仕事だったから……あぁそれからこれ。好みが分からなかったから、適当にとってきたけど……約束の時間まで随分あるし、暇だったら読んで時間を潰して」
椅子に座りながら、雑誌を手渡せば、アイシャがぱっと目を輝かせた。
「『STELA.』に『リンド』にゃ……っ! しかも最新号……っ」
「ニャン太はこういうのが好き?」
「んんっ! 服もモデルのおんにゃの子も可愛いから好きなのにゃ!」
アイシャの眩しい笑顔に、ラナはぱちりと目を瞬かせた。アイシャとニャン太が首を傾げる。
「どうしたにゃ?」
「あーいや……」ラナは頬を掻いた。「意外だなと思って……」
「意外にゃ?」
「ここに来るの、反対してたじゃないか」
「うにゃ……」
ニャン太が言葉を探すように、ゆらりと体を動かした。
「それは……そのう……もちろん、反対は反対なのにゃ。でもでも……ニャン太としても、外に出てみたかったというかにゃ……」
「どういうことだい?」
「一人で出歩くなって、言われてるにゃ。エドナから」
アイシャが顔を曇らせた。ニャン太の手が、グラスの表面をなぞる。途切れた言葉の先はなかったが、ラナにはそれだけで十分だった。
もしかすると、彼女も自分と同じような境遇なのかもしれない。大人から何かを押し付けられて、それに納得できなくて。
そう思えば、ラナの中で、目の前の少女が急に親しみやすく感じられた。
「……そこのモデルの子が来てる服、さ」
極力明るい声になるように努めながら、ラナは開かれていた雑誌の1ページを指差した。大人びた少女が薄水色のワンピースを翻して、海をバックに微笑んでいる。
「アイシャにも似合いそうだと思うな。折角の夏なんだから、スカートは外せないよ。君もそう思わないかい、ニャン太?」
アイシャがおずおずと顔を上げた。ニャン太がラナの指先にそっと体を寄せる。
「……うん。そうにゃ。アイシャはスカートが大好きなんにゃ」
「あぁやっぱり! ということは、こっちの濃い青色のブラウスも好きなんじゃないかい?」
「ちっちっちっ……残念ハズレにゃ。アイシャは明るい色が好きなんだにゃ」
ニャン太が得意げに胸を張る。それにラナが思わず吹き出せば、アイシャも微笑んだ。
額を寄せ合い、雑誌を覗き込む。そこから話が尽きることはなかった。服の好み。マニキュアを塗るとしたらどの色がいいか。海にも旅行したいけれど、花火も外せない。注文していた飲み物片手に言葉を重ねる。
懐かしいなぁ。そう思いながら、ラナは運ばれてきたアイスティーに口づける。娼館にいた頃は、シェリルとよくこういう話をした。限られた装飾品や化粧道具で、いかに自分を飾れるか。それは究極的にいえば客を喜ばせるためのものだったが、ラナ達にとっては小さな楽しみでもあったのだ。
と、雑誌をぱらとめくっていたニャン太の手がピタリと止まる。両開きのページに、一人の女性が寝そべっている。身につけているのは、繊細な意匠の施された濃い赤色の下着だけだった。
下着の宣伝のページらしい。何故か、アイシャが難しい顔をしている。
「アイシャ?」
「にゃ……でも、ラナにはこういうお姫様みたいにゃ下着も似合うかもにゃ。何よりアランが喜びそうにゃ」
ラナは思わず咳き込んだ。アイシャが慌ててラナの背中をさする。
「だっ、大丈夫かにゃ……っ!?」
「い、いきなり何言うんだい……!」
口元を吹きながらラナが顔をしかめれば、アイシャが目を丸くする。
「にゃっ!? ラナはアランと付き合ってるんじゃないかにゃ?」
「付き合うって、そんなわけないだろう……!? なんでそんな勘違いを」
「んにゃにゃ……も、申し訳ないにゃあ……でも……」
「でも、なんだい?」
「その……そうじゃにゃきゃ、あのアランが毎日教会に来る理由が見つからないにゃ……」
ラナは手を止めた。アイシャの言葉には含みがある。それも、良くない方の何かだ。
「アイシャ、君は……」
思わずラナが、目の前の少女に問いかけた時だった。
喫茶店の外が騒がしくなる。二人は揃って窓へと目を向けた。
痩身の男が歩道の上で尻餅をついている。ぼさぼさの髪の毛に、ひどく身なりの汚い男だった。その足元に落ちているのは、布でくるまれた長方形の包みだ。薄い、大きな板。
帽子を目深に被った少年がそれを拾い上げた。男が何かを喚く。何を言っているのかは聞き取れない。けれど、声音には聞き覚えがある。
嫌な予感と共に、ラナは椅子を蹴った。店の入口に駆け寄り、躊躇うことなく扉を開ける。夏のむっとした空気がラナの体を包む。遊歩道の真ん中で、男がよろよろと起き上がるのが見える。
そして少年が包みを開き、青の光がラナの視界いっぱいに広がった。