2. 呪われてるんだよ
教会の一階、入り口に程近い小さな部屋は、参拝客の受付代わりの部屋だった。壁にはガラスの引き戸が嵌められていて、誰もいない廊下がよく見える。
その小さな部屋で、固定電話が鳴り続けていた。
「ほ、本当に申し訳ないにゃあ……」
アイシャは、白い髪を揺らしてラナの方を振り返った。アイシャの手の中にあるニャン太が、小さな前足を顔の前であわせる。
「でもにゃあ、ちょうど神父様もお祈りの時間だし、エドナもいにゃくて……で、でも、ニャン太は電話に出ちゃ駄目って、言われててにゃ……」
「気にしないで。この電話を受ければいいんだろう?」
ニャン太が背を丸めたままこくんと頷く。それを横目で確認しながら、ラナは電話を取り上げた。
「もしもし?」
「……あぁあの……もしもし」
聞こえてきたのは、どこか疲れたような男の声だった。気を抜くとすぐに電話の雑音に紛れて消えてしまいそうだ。ラナは顔をしかめながら、受話器をさらに耳に押し当てる。
「どちら様でしょうか?」
「……ベルニというものだが」
「はい」
「絵の鑑定を、お願いしたいんだ」
「絵の鑑定?」
ラナはちらとアイシャの方を見やった。ニャン太がぶんぶんと首を横に振っている。ラナは眉をひそめる。
「あの……何か勘違いされてませんか? ここは教会ですよ? 画商じゃなくて」
「分かってる。ジルカ教会だろう? 呪いの品を鑑定してくれるっていう」
男の囁き声に、ラナの心臓がひやりと冷えた。教会の名前もさることながら、呪いの品を鑑定する、というのはどういうことなのか。
ニャン太が控えめにラナの袖を引いた。ちらと視線を送れば、机の上のメモ帳にアイシャがペンを走らせる。話をあわせてほしいにゃ。
「あぁ、はい。そうですね」話を合わせるって、適当にするにも程がある。心の中でぼやきながら、ラナは言葉を探した。「ええと、絵の鑑定、でしたっけ。ベルニさん」
「近々展覧会で展示する予定の作品なんだ。ただ、前に別の展覧会に出した時に、その、色々と問題が出てしまって」
「はぁ……問題があるなら、展示するのをやめればいいのでは?」
「とんでもない」
男はやけにきっぱりと答えた。その声が棘を帯びる。
「やっと掴んだチャンスだぞ。それも、サブリエ一権威のある展覧会だ。ほら来週、時計台で開催される、ルベール展覧会。君だって名前を聞いたことくらいあるだろ」
「はぁ」
「ないのか? ないんだな、その反応は」
まるで酒でも引っ掛けたようだった。急に早口になった男は、生返事を返すラナに、やれやれと言わんばかりに息をつく。
「いいか、普通の展覧会とは訳が違う。若手の登竜門なんだよ。ルベール展覧会で実績を残せば、それだけ名前に箔がつく。絵で食っていくためには名前を売らなきゃならん」
「そうなんですか」
「かの奇抜派のカダンとか、印象派のラシャとか、とにかく時代の寵児と呼ばれる画家は、皆ルベール展覧会で見いだされたんだ。そう、例えば、ラシャの場合はな、」
「あの、お客さん」ラナは咳払いをした。「結局、何がいいたいんです? 我々に何を鑑定してほしいと?」
男の声がピタリと止んだ。
「……あ、あぁ」我に返ったのか、男の声の調子が元に戻った。「そう……そうだったな……」
早く言いなよ、と文句を言いたくなるのを飲み込んで、ラナは辛抱強く待った。しばしの沈黙の後に、男がぼそぼそと呟く。
「その……呪いだ」
「は?」
「呪われてるんだよ。見た人間が狂うんだ」
やけに現実味のない言葉に、ラナが返事につまり、ニャン太が不安げに体をゆうらりと動かした時だった。
ラナ達がいる小さな部屋に、階段を降りる足音と声が響く。声の主は二人。その内の一人――いけ好かない男の声音にラナは顔をしかめた。アランだ。
君にはまだ早い。急に思い出した、ここ最近のアランの口癖。それにラナの反抗心が頭をもたげる。
「ぴゃっ!?」
ラナは傍らに立っていたアイシャの肩を掴み、彼女と一緒にしゃがみ込んだ。目を白黒させるアイシャに向かって、ラナは自身の唇に人差し指を押し当てる。
アイシャがぱっと右手で口を塞ぐ。ニャン太も小さな手で口元に手を当てた。
壁を隔てて、アラン達の足音が礼拝堂に向かう音が聞こえる。話しぶりからするに、アランと女性のようだ。エドナ。顔を青ざめさせたアイシャが隣で身じろぎする。立ち上がろうとする彼女を、ラナは慌てて片手で抑え込んだ。折角身を隠したのだ。ここでアランに見つかれば、何を言われるか。
電話が鳴っていた気がしたんだが。アランの問いに、気のせいなんじゃないの、と女が面倒くさそうに応じている。
「……おい、聞いてるのか」
受話器越しに、男が呻く。もちろんです、とラナは小声で早口に応じた。
「ええと……申し訳ありません。ちょっと驚いていたもので」
「あぁ、まぁそうだよな」男が気落ちしたようにため息をついた。「普通はそう思うよな。呪いなんて……馬鹿げてるし。やっぱり鑑定なんて、」
「いえ、鑑定には伺います」
アイシャとニャン太がぎょっとしたようにラナを見た。男も虚をつかれたようで一瞬黙り込む。それを無視して、ラナは腕を上げた。受付のテーブルから、手探りでメモ用紙とペンを掴み取る。
アラン達の足音は遠ざかりつつあった。それに胸を撫で下ろしつつ、ラナは肩で受話器を支える。
「それが我々の仕事ですから」手際よく紙をちぎりながら、ラナはすらすらと口を動かした。「呪われているのでしょう。えぇもちろん気の所為かもしれませんが、用心するに越したことはない。時間の都合がつくのなら、今日にでも伺いましょう」
「だ、だが……いいのか?」
「もちろん。どちらに伺えばいいですか?」
少し迷うような沈黙の後、男が呟いたのは喫茶店の名前だった。待ち合わせ時刻は夜の七時。ラナがメモに書き留め、復唱したところで、男が電話を切る。
「な、何してるにゃあ」
ニャン太のつぶらな黒い目と、アイシャの宝石のように赤い目がラナを責める。それに気付いた上で、ラナは軽く肩をすくめた。
「何って、依頼を受けただけさ」
「ううう……でも……」
「なんだい」
「依頼は……本当は、大人と一緒に行かなきゃでにゃあ……」
「……大人って」しょぼしょぼと背を丸めたニャン太に、ラナは唇を尖らせる。「私だって、もう子供じゃない。そうだろう?」
「うにゃ……」
ぴく、とアイシャが体を震わせる。そんなに嫌なら、最初から電話を自分で受ければ良かったじゃないか。突き放したくなる気持ちをぐっと押さえて、ラナは努めて冷静に言葉を重ねた。
「話を聞く感じ、絵を見ればいいだけじゃないか。だったら、私だけで様子を見てくるよ。何かあれば、神父様たちに知らせればいいんだし」
「にゃにゃにゃ……」
「心配しなくてもニャン太はアイシャと一緒にここで待っててくれれば、」
「にゃにゃ!」
「っ!?」
勢いよく突き出されたニャン太の前足が、ラナの唇を押し止める。ラナが目を丸くする中、アイシャはぐいとラナの方に顔を近づけた。
「わ、分かったにゃ……! こうなれば致し方あるめぇにゃ! 不肖、ニャン太と護衛役のアイシャがお供つかますりますにゃ!」