1. これはこれは、ご立派な言い訳ですこと
「納得がいかない」
「そうか。それは困った」
目の前でアランが小さく笑う。それに、椅子に腰掛けたラナは顔をしかめた。
夏の日差しが差し込む小さな部屋だった。彼女が使っているテーブルと椅子の他には、ベッドが一つあるだけだ。開け放たれた窓からは夏風が舞い込み、レースのカーテンをふわりと揺らす。赤、青、黄。真昼の陽光がテーブルの上に置かれた幾つもの輝石を通して色づく。
アランは青い宝石を取り上げ、窓際に腰掛けた。それを目で追いながら、ラナは息をつく。今日こそは。娼館を出て、毎日と言っていいほど新たにした決意を繰り返し、ラナは口を開いた。
「アラン」少しでも自分をよく見せるために、ラナは椅子の上で居住まいを正す。「私がここに――魔術協会に来て二週間だ」
「そうだな」
「その間、あんたには色々と世話になったと思ってる。魔術についても、今みたいに毎日教えにきてくれているし」
「身に余る光栄だな、ラトラナジュ。俺としても嬉しい。君は俺が教えたことをすぐに吸収してくれる。師匠として、これほど嬉しいことはない」
アランがにこやかに応じた。その笑みだけは一級品だと、ラナは苦々しく思いながら咳払いする。
「それほど高く評価して頂けるのならば、いい加減にどうやって魔術を扱うのか、教えてくれないかい? 理論ばかりではなくて」
アランは答えなかった。窓の外から鳥のさえずりが届く。穏やかな夏の日差しに、僅かに冷ややかなものが混じった。
「それは、君にはまだ早い」
「アラン!」
ラナは机を叩いて立ち上がった。並べられた輝石が音を立てる。アランは驚いた素振りもなく、青の宝石で手遊びを始めた。ラナは天を仰ぎ、しきりに首を振る。
「あんたはいつもそう言う! じゃあ、いつになったら使い方を教えてくれるっていうんだ!?」
「さぁ? 俺が安全だと判断したら、というところかな」
「のんびりしてたら、いつまでたっても私は戦えないじゃないか!」
「あぁそうだな。それは大変だ。一大事だ」
アランは大仰に肩をすくめて、窓際から腰を浮かせた。頬を膨らませるラナに向かって、青い宝石を放り投げる。
「さぁ休憩はおしまいだ。この宝石の名前は?」
「アラン」片手で宝石を受け取りながら、ラナは躍起になってアランを睨みつけた。「まだ話は終わってないよ」
「いいや、終わりだ。悲しいことに、時間は有限なのでね」
「そもそも、なんで、私に輝石について学ばせるんだ? 私の魔術は懐古時計を使ったものなんだろう? だったら、」
「その答えを知りたければ」ラナの目の前で立ち止まったアランが、一段声を低くした。「この石の名前を答えろ。それとも、今日の講義は終わりにするか?」
ラナは唇を噛み、片手で受け止めた宝石を見やる。濃紺色の石にはルビーのような透明感はない。どちらかというと岩石に近い。その表面には、星のように細かな金色が散らばっている。
二週間前に、アランから贈られた一冊の本を思い出した。電子端末が普及したこの時代に、本なんて時代遅れもいいところだ。そう文句を垂れながらも、穴の開くほど読み込んだカビ臭い鉱物図鑑を頭の中で開く。
ラナは渋々口を動かした。
「……ラピス・ラズリ」
「よろしい。では、名前の由来は?」
「ラピスが青。ラズリが天上っていう意味だろ」アランが何かを言う前に、彼女はぶっきらぼうに付け足した。「石言葉は、幸福、真実、知性、克服、浄化だ。だからこそ、幸運のお守りとしては推奨されない。持ち主に試練を与え、乗り越えた先に幸福を授ける、っていう解釈になるから」
「素晴らしい。完璧だ」アランが嬉しそうに笑った。「では、この石の別名は?」
「別名?」
ラナは返事に詰まった。もう一度、脳内で図鑑の内容を総ざらいする。が、ラピスラズリの別名に関する記述はなかったはずだ。
「フェルメール・ブルーだよ」
アランが勝ち誇ったように言った。ラナはムッとして輝石の魔術師を見上げる。
「なんだい、それ」
「フェルメールは、古い時代に活躍した有名な画家だ。彼が好んで使った色が、ラピスラズリを砕いて作った青でね。ラピスラズリの別名はここに由来する」
「そんなこと、図鑑には書いてなかった気がするんだけど?」
「あれはあくまでも基本的な情報さ、ラトラナジュ」アランは金の目を煌めかせた。「輝石の魔術師は、石から想起されるイメージを用いて魔術を行使する。そのためには、俗物的な知識にも精通しておかねばならない。そしてだからこそ、師匠から口伝として情報を学ぶのが重要というわけだ」
「……これはこれは、ご立派な言い訳ですこと」
可能な限り嫌味ったらしく言いながら、ラナは乱暴に椅子に座った。そっぽを向いて頬を膨らませれば、アランがラナの頬を指先で撫でる。
もはや振り払う気にもなれなかった。ひやりと冷たい指先を無視し続ければ、アランが苦笑まじりに言葉を継ぐ。
「へそを曲げないくれ。そうしている君も愛らしいが」
「…………」
「俺は例えを出したかっただけだ。宝石には観賞用以外にも様々に用途がある」
「……それがなんだっていうんだい」
「君の時計さ」
アランが顎でラナの胸元を示す。かちりかちりと、静かに音を立てているのは亡き養父の懐古時計だ。
「時計の歯車には大量のルビーが使われている。そこを起点に魔術が発動した、というのが俺の見立てだ」
「つまり……私はあんたと同じ魔術師だってことかい?」
「そういうことだ」
顔をしかめるラナに、アランは実に嬉しそうに破顔する。折よく時計台の鐘が鳴り響き、その日の講義は終了となった。
結局彼には、ラナを魔術師にさせる気など毛頭ないのだ。
アランが立ち去り、部屋に一人残されたラナはベッドに仰向けに転がった。
窓の外からは、どもりがちな男の声が聞こえている。前髪で目が隠れた祭祀服の青年――ヴィンスの声に違いなかった。この建物の一階は小さな教会で、彼は毎日決まった時間に祈りを捧げている。
天井に夏の日差しが光の柱を描く。風が緩やかにラナの頬を撫でる。
娼館では考えられないような穏やかな日々だった。ラナの両手足に、GPSの埋め込まれた鎖は既にない。名目上は、魔術協会がラナを買い取った形になっていた。けれど、それはほとんど自由と同義だった。ラナがどこに行って、何をしていても、誰かから縛られることはない。
体を横にし、ベッドの上でラナは縮こまる。けれど、だからこそ。心の中で、不安がぽつりとインクのように滲む。
「――誰かの役に立ちたい。そう思ってるにゃあ?」
「!?」
不意に響いた幼い声に、ラナは目を開いて飛び起きた。
足元で、きゃっ、と小さな声が上がる。ばくばくと脈打つ心臓を押さえて、ラナは床に視線を送った。
少女が、尻もちをついていた。真っ白な少女だ。艷やかな肌も、床に散らされた長髪も、雪のように白い。ほんの少し涙で潤んだ赤い目を右手で擦り、彼女はラナの方へゆるりと視線を上げる。
「ぴゃっ……!?」
「ぴゃっ……?」
ラナが少女の奇声に首を傾げる間にも、彼女はわたわたと床の上で姿勢を正した。背筋をピンと伸ばし、綺麗に正座をし、その上で左手に持った猫の人形をラナに突き出す。
「こっ、こんにちはっ! はじめまして……っ! ぼ、僕の名前はニャン太ですにゃあ! こっちの女の子は、護衛役のアイシャっ!」
「えっ、あっ、はい」
「とっ突然で申し訳にゃあですけどもっ! 我らのお助けをして頂けませんかっ!」
「お助け……?」
ベッドの上でラナが目を白黒させる。それに、床の上に座り込んだ真っ白な少女は、懇願するように力強く頷いた。