10-3. one Last time
「なに、さして責められるようなこともないさ。ただ、時間の巻き戻しを再現する準備をしていただけのこと」
「っ、てめぇまさか……!」
血相を変えたマリィの鼻先へ、エメリが杖を突きつけた。老いた教授は鼻先で笑う。
「血気盛ん、多いに結構。だが私がアラン・スミシーに協力することなどありえない」
「犯人ほど、そう言うもんだろ」
「犯人ならば声高に主張せず、息を潜めて隠れておるだろうさ」エメリは冷ややかに目を細めた。「言ったはずだぞ、私が行うのはあくまでも再現だ。仮説の立案と検証は科学の基本だからな。そして、時間の巻き戻しほど科学的に再現しがいのある現象はない」
「何言ってんだよ。あれはアラン・スミシーの魔術だ」
「魔術? はっ、その程度の理解で停止するから、貴様らは凡人なのだ」
「んだと?」
「まず一つ。魔術には相応の対価が伴う」
有無を言わさぬ口調でマリィを遮り、エメリは杖で机を叩いた。
「よく考えてみたまえ。世界中の時間を幾度となく巻き戻して、たかが五感を失うだけで済むはずがないのだよ。ならばここにこそ、科学的に記述すべき規則性が潜んでいる」
「屁理屈だ」
「いいかね? そも、時間などというものは自然界に存在しない」
マリィはこれ見よがしに眉を潜めた。無言の反抗を当然のごとく無視し、エメリは淡々と言葉を連ねる。
「動物は午後八時になるから眠りにつくのか? 花は午前六時を迎えたから花弁を開くのか? 否だ。生体反応や日照量がこれらを決定するのであって、決して時間で管理されているわけではない。一年という概念も然り。時間も年数も、全ては人間が活動しやすいように生み出した文明の産物なのだよ。それでは、この事実から立てられる仮説は何か?」
時計台が規則正しく鐘を打ち鳴らし始めた。エメリが杖で年代物の置き時計を突く。
鴉が飛び立ち、時計が倒れる。その盤面を目にしたマリィは、息を呑んだ。二つの針が指し示す時間は、午後八時四三分。疑いようもなく時間がずれている。
エメリは音もなく口角を上げた。
「ご覧の通り。特別な能力など無くとも、時間を好きに制御できるというわけだ」
「……ありえない」マリィはなんとか言葉を絞り出した。「時計が狂ってるとか、そういうことだろ」
「なんて愚問を。この世界の時計は、全て時計台によって管理されているのだ。狂うなんてことはありえない――と、まぁ普段の私ならば、そう罵倒してやるところだがね」
こつこつと時計を叩き、エメリは肩をすくめた。
「今回に限っては、君の勘が正しいとも。そのとおり、これは時代遅れのねじ巻き式で、私が十六分と三十三秒だけ時間を遅らせたというわけだ。さぁ、ここで考察を一つ述べよう。今回は時計台の鐘という比較対象があったから、時間がずれていることに気が付いた。だがもしも、世界中の時計が一斉に巻き戻った時間を示したならば? これこそまさに、時間の巻き戻しだ」
「馬鹿言うなよ。ちょっとした時間なら、それで騙せるかもしれねーけど、十年は無理だ。絶対誰かが気付くはずだろ。記録だって残ってるんだから」
「実に良い着眼点だな。記憶と記録。そう、それらこそが時間の巻き戻しを阻む難敵だ」
もっともらしく頷いたエメリは杖をくるりと回した。
「では、マリィ・スカーレットよ。この世界の記録は何に保存されている?」
「電子端末だろ」
「そして全ての端末は時計台と紐付けられている。正しい時間を受け取るために」エメリは杖で床を叩き、愉しげにマリィの言葉を継いだ。「ならば、時間を初期化するついでに、全てのデータを消去することも不可能ではない。素晴らしい。これで記録の問題も解決だ。それでは、我々の記憶はどうするか?」
時計台の鐘が最後の音を響かせる。エメリは自身のこめかみに人差し指を添えた。
「答えは簡単だ。鐘の音を利用すればいい。檸檬を見れば食べてもいないのに唾液が出るだろう? それと同じことだ。ある規則で鐘が鳴れば、保持していた記憶を丸ごと失うよう、我々の頭に条件付けする。これにより記憶の制御が可能となる」
マリィは唸った。
「暴論だ。そう簡単に、人が記憶を失うわけないだろ」
「無論、最初の数回はそうだっただろうさ。だが、この世界は既に何万と繰り返されている。なれば、鐘の音によって記憶を失いやすい人間が選択的に生存するようになっても、なんら不思議はない」
「それでもおかしい」マリィは刺々しく返す。「あんたの理論でいくと、私達は時間が巻き戻ってるって勘違いしてるだけ、ってことになる。それって裏を返せば、私達の体の方は変わらず成長して、老いて、死んでいくってことだろ。じゃあ、いつかは皆、気付くじゃないか。自分の体と、自分の年齢が一致しない……って……」
マリィの言葉は尻すぼみに消えた。エメリが音もなく笑う。
「気づいたな? それこそがまさに、タチアナが患っている病だ。あるいは、この世界の全員が至るべき末路とでも言うべきか。いずれにせよ、これで分かったろう。時間の巻き戻しに潜むカラクリの九割は、科学的に再現可能だ。魔術が絡むのは精々、残りの一割といったところだろうよ」
*****
「時間の巻き戻しに関わる魔術は、二つだ」
奇しくもエメリの言葉を継ぎながら、ラナは灰色の血が滴る懐古時計を見やった。
「一つは懐古時計を使った私の魔術。発動すれば、その人の時間を巻き戻して肉体ごと回復させる、正真正銘の時間の巻き戻しだ。でも、私一人の命じゃ救える人間は多くない。せいぜい、死にかけの自分と、私が親しいと感じた人間を助けておしまいさ。だからこそ、アラン。あんたは、私の魔術が及ばぬところを補おうと考えた。時間の巻き戻しのカラクリもその一環だ。でも、いくら周到にやったところで、上手くいく確率は限りなく低い。まして、それを何度も成功させるなんて奇蹟以外のなにものでもない」
黙り込んだアランを見つめたまま、ラナは小さく笑った。腹に力を込め、痛みを追い出す。
「そう言ったら、ねぇ。エメリ教授に笑われたよ。何度も起こる奇蹟は、奇蹟なんかじゃないって。でも、それこそが正解だった。悪魔と人間は契約を交わして、それぞれ力を得る。私が一番最初に死にかけた時、不完全ながらも契約は結ばれてたんだ。死にかけの私は、生き延びるために時に関する魔術を得た。そしてあんたが得たのは確率を操作する力だ。どれだけ低い確率であろうと、あんたが望めば全ては現実になる。だからこそ、こうして時巡りは成功しているんだ。時巡りが成功する世界を、あんたが常に選び続けているから」
*****
「まさしく科学都市サブリエは、アラン・スミシーにとっての壮大な演劇舞台だろうよ」
エメリはアランの能力について述べた後、一本ずつ指を立てて説明を始めた。
「ラトラナジュが死に瀕し、小規模ながら魔術的な時間の巻き戻しが発動したとする。これにあわせて世界全体の時間を巻き戻そうと考えた時の、成功条件は合わせて三つ。一つ、世界中の時計が操作され、巻き戻った時間を示すこと。二つ、端末に保存されていた記録が全て消去されること。三つ、全ての人々が鐘の音を聞き、保持していた記憶を丸ごと失うこと。これら三つの条件が同時に達成された世界をアラン・スミシーは選択し、次の世界を開始させる。まさに演劇の支配人のごとく、都合の良い舞台を創りあげるというわけだ。さて、それでは素朴な疑問を一つ投げかけて、研究成果の締めとしよう」
エメリはすいと青鈍色の目をマリィの背後へ向けた。
「時間を管理するはずのプレアデス機関は、何故アラン・スミシーを見逃し、あまつさえ協力しているように見えるのか? これについて、何か述べておきたい意見はあるかね、テオドルス・ヤンセン?」
そこで初めて、マリィは自分以外の人間が会話に参加していないことに気付いた。沈黙はそのまま違和感となり、急き立てられるように振り返った彼女は息を飲む。
入り口の近くで、驚いた様子もなく短剣を構えているのはエドだ。その刃が向けられた先で、テオドルスが深緑色の目を細めて形ばかりの苦笑いを浮かべる。
「アラン・スミシーはプレアデス機関を恨んでいるわけじゃない。とうの昔にプレアデスを管理下に置き、自身の計画に利用しているから、だろ」
「素晴らしい」エメリは口角を釣り上げた。「さすがは、プレアデスを悪魔に売り渡した張本人だ。情報の重みが違う」
「売り、渡した……?」
唖然とするマリィへ、エドが低い声で「そのとおりですよ」と応じる。
「テオドルス先輩は……いいえ、テオドルス・ヤンセンはもう一人のプレアデス機関の守り人であり、アラン・スミシーの協力者だ」
*****
全てを話し終え、ラナは血の伝う顎を上げてアランを見つめる。
しばしの沈黙の後、彼は「あぁ」と感嘆するように息を漏らした。
「まさか、君がここまで辿り着くとは。素晴らしい……実に素晴らしいな」
「っは……お褒めいただき光栄、だけどね」ラナは小さく咳き込み、引き攣った笑みを浮かべた。「残念ながらこれも……エメリ教授の受け売りさ」
「そんなことは、どうでもいい」
アランが、おもむろにラナの顎を掴んだ。彼女が痛みに顔をしかめる中、白黒の世界でもそれと分かるくらい、アランは目に昂ぶった光を宿して微笑む。
「重要なのは、君がその情報を手にしたということだ。あの老獪を説き伏せてな。そして勝算が無いと知ってなお、今までと何一つ変わること無く、俺の前に立ってみせる」
煙草と香水が艶かしく香る中、アランは恍惚とした声音をラナの耳に吹き込む。骨ばった指先が、ラナの輪郭をくすぐるようになぞった。
「まったく、俺は見込み違いをしていたようだ。真実を知れば君が悲しむだろうと思った。ところがどうだ、今の君はいつになく美しい。たまらないな。本当に、気高く、愚かしい。一体、何がそこまで君を駆り立てる? この柔い体を喰んで、暴いて、滴る蜜の一滴までも味わい尽くせば、見えてくるものもあるだろうか?」
「……よくもまぁ……口が回るね……」
「愛ゆえだ、ラトラナジュ」アランは金の目を獰猛に光らせた。「君は俺にとっての光そのものだよ。だからこそ、君のための永久の箱庭を贈ろう」
「臆病者からの贈り物なんて、こっちから願い下げだよ。アラン・スミシー」
ラナはきっぱりと返した。微笑を浮かべたまま、アランは耳飾りを揺らして首を傾ける。
「おかしなことを、愛しの君。俺に恐れるものなど何一つ存在しない」
「冗談。怖いから選べないんだろ。自信がないから、いつまでも惨めに過去にしがみついてるんだ」
「失敗作の世界に、未練は何一つないさ。だが今回の世界は成功した。だからこそ、繰り返す価値がある。それだけのことだよ」
「ほんと、随分と幼稚な言い訳だよ。もう、全然、負ける気がしない」
ラナは息を詰めて、ナイフを引き抜いた。白黒の世界で血が舞う。アランの柳眉が動く。それを気にもとめず、ラナは彼の胸元を掴んで引き寄せた。
濡れた唇を重ねる。痛みと鮮血に彩られた苦い口づけは刹那。
「せいぜい笑ってるがいいさ、アラン・スミシー」まつげが触れ合う距離で、ラナは睦言のように甘く、どこまでも挑戦的に囁いた。「私は、必ずあんたに勝つ。そして今度こそ、臆病なあんたに私を選ばせてあげる」
アランの目が僅かに見開かれる。それを見据え、ラナは胸元の懐古時計を掴んで高らかに願った。
時よ、廻れと。
*****
「あーもー、最悪だよな。カディルの野郎はプレアデス使って好き勝手してるみてぇだし、アランは相変わらず無理難題ばっか言うし」
張り詰めた空気が満たす診療所の一室で、テオドルスは黒髪を乱暴に掻いてエメリを見やった。
「教授。はじめから、俺に聞かせるつもりで話してただろ。エドはずっと入り口を塞いでたしさぁ」
「無論、そうだとも」肘掛け椅子に腰掛けたまま、エメリは口角を釣り上げた。「そのために、わざわざプレアデス機関からデータを盗み出してやったのだ。なかなか良い釣り餌だったろう?」
「やっぱり罠かよ、アレは。ったく、どこで俺の正体に勘付いたんだか」
「アラン・スミシーの動機が恨みだなどと、滑稽な嘘をつくからこうなる」
「お前も肯定してただろ」
「適度な肯定は、人間の本音を引き出す最も効率のいい方法だ。 言っただろう? 人心を解するのも、研究者には必要な能力の一つである、と」
「……本当、いい性格してるよ、あんた」
テオドルスがげんなりと首を振る。まるでいつもと変わらぬ仕草だった。だからこそマリィを混乱させる。
「どういう、ことだよ……テオ。敵なんて……」
「言葉のとおりさ、マリィ」テオドルスは深緑色の目を緩めて笑った。「教授が言っただろ? 時間の巻き戻しを成功させるには、時間と記録と記憶を制御する必要がある。プレアデスを利用して、それを実現させるのが俺ってわけ。あとは、アランの尻拭いだな。あー、ちなみにカディルは、ほとんど噛ませみたいなもんだぞ? 良い塩梅で小物だからさぁ、今回は利用させてもらってるけどな」
「っ、そうじゃなくて! なんで、あんたが敵になってるのかって、聞いてるんだよ!?」
「そりゃあ、決まってる」
肩で息をするマリィを見つめ、テオドルスは困ったように笑った。
「傍観者じゃいられねぇんだ。ならもう、俺の願いを叶えるために行動するしかないだろ」
テオドルスの持つパソコンが小さな駆動音を立てたのは、その時だった。
時計台の鐘が狂ったように鳴り始める。同時にテオドルスが動いた。拳銃を取り出し、エメリの方に向ける。
部屋中の鴉が鳴く。エドが弾かれたように駆け出す。その中で、テオドルスは笑う。
「――さぁ、時間だ」
引き金が引かれた。飛び立った鴉が、エメリを庇うように銃弾を受ける。耳障りな音と共に飛び散った機械部品が、書斎机に置かれたデスクトップを穿つ。
エドがテオドルスの懐に入った。短剣の刃を閃かせ、エドは叫ぶ。
「逃げる気か、テオドルス……!」
「おうとも! 逃げるが勝ちってやつだよ、エド坊!」
短剣を銃身で器用に受けながら、テオドルスはにやりと笑った。その腕の中で、パソコンが合成音を吐き出す。
『|戯盤展開: type 司教《Latrones open: Episcopus》』
エドが身を引く。一拍遅れてパソコンから放たれた金切り音は、不可視の爆撃となって部屋中の物を破壊した。
*****
共喰いを蹴散らし、アイシャは息を切らしてヴィンスの元に辿り着く。
ヴィンスを中心に展開された結界は、アイシャだけを通して、周囲の共喰いを拒絶する。強度も、編み込まれた術式も、アイシャがこれまで見たこともないほど緻密だった。
だというのに、それを張った当人は血まみれのエドナを抱きかかえたまま、途方に暮れたように地面に座り込んでいる。
「っ、エドナ……っ!」
「あら……馬鹿な子。こんな時に来たの……?」
アイシャの声に、エドナが掠れた笑い声を立てた。その胸の動きはしかし、ひどく鈍い。
「なにを、してるんですかにゃ……」アイシャは唇を震わせた。「なんで、神父様をかばったりなんか……」
「おかしなことを、言うわね……神父様を愛してるからに決まってるでしょう……?」
「っ、だったら共喰いを倒せばよかったんですにゃ!」
「できないわよ……ねぇ、神父様。それは、嫌、でしょう……?」
ヴィンスは答えなかった。けれど地面に落ちた端末こそが、答えのようなものだった。
端末は、プレアデス機関の狂った声を吐き出し続ける。共喰いを殺してはならない。カディル伯爵を守らねばならない。
真に守り人であるならば、優先すべきは。
「っ……馬鹿、ですにゃ……」ニャン太をぎゅっと抱きしめ、アイシャは思わずヴィンスを睨んだ。「馬鹿ですにゃ! これがおかしいって、少し考えたら分かるはずですにゃ!? なのに、信じたんですかにゃ!? プレアデスを!? エドナが、こんなことになってるのに!?」
「……ま、間違ってなど、いない」
ヴィンスは顔を上げぬまま、己に言い聞かせるように呟く。
「な、なにも間違ってなどいない。た、正しく、俺は啓示に従ったまで。そ、そうだとも。お、俺は星の守り人。の、望みも、指針も、全てはプレアデスと共にある。あ、アイツのように、規律を破るわけにはいかない。だ、だからこそだ。こ、この結果に……間違いはない……なにも……何一つ……」
「えぇ、そうよ。それでいいのよ」
エドナが身動ぎした。髪飾りが外れ、血で汚れた金の髪が溢れる。なれど、それを気にすることなく彼女は手を伸ばした。ヴィンスの頬を撫で、その黒髪を指先でさらう。
張り詰めた深緑色の目があらわになった。そんな彼を見て、エドナは榛色の目を細める。
「変われなくて、いいの。馬鹿らしくても、愚かしくても。そんな貴方だからこそ、私は好きになったのですもの」
「……エ、ドナ」
「そんな顔なさらないで、神父様。貴方やアイシャと過ごした時間は、確かに私にとって幸せな時間だったのだから」
エドナは微笑んだ。そうして目を閉じ、大きく息を吐きだす。
傷んだマニキュアで彩られた手が落ちた。それきり二度と、動かされることはない。
「なん、ですかにゃ……」アイシャは呆然と呟いた。「いまさら……そんな……都合の、いいことばかり言って……幸せ、なんて……」
最後の最後まで、ヴィンスの方ばかり見ていたくせに。自分の方は一度だって顧みなかったくせに。
ヴィンスが震える声でエドナを揺さぶる。周囲から一斉にエドナの喚んだ悪魔が消え失せ、共喰いが活気づく。アイシャの手の甲に刻まれた紋様が鋭く痛む。
ぐらぐらと足元が揺れ、アイシャは強く目をつぶった。暗い闇がある。その中で、自分と瓜二つの少女が力なく立ち尽くしている。
「エドナは、勝手に幸せを感じてただけだわ」正面に立った彼女は、血の気の引いた唇を動かした。「身勝手よ。本当に、身勝手。こっちはいつだって、振り回されてばっかりだった。邪魔されてばかりだったの。だからアイシャは、幸せなんかじゃなかった」
「…………」
「そうよ。だから、悲しむ必要なんてないんだわ。むしろ清々したって、笑ってやればいいのよ……ねぇ、そうでしょ? そうだよね……?」
気丈に言って、少女は赤の目を揺らす。灰色の猫の人形を持たない彼女は、寄る辺なく黒のワンピースの裾をつかんだ。泣いている。そんな彼女の方が、よほど人間らしいとアイシャは思う。
少女の嗚咽に混じって、外界から騒がしい音が届いた。それは結界が壊れるような音だった。共喰いの咆哮だった。老いた伯爵の耳障りな笑い声だった。そして今更になって亡くした人間の名前を呼ぶ、ヴィンスの声でもある。
ふと、苛立ちが湧き上がった。
「泣くべき、じゃ、ないですにゃ」アイシャはニャン太を抱きしめ、低く呟いた。「泣いてなんか、やる必要ない」
目の前の少女が涙で濡れた顔を上げた。怪訝な顔をする彼女を、アイシャは静かに見つめ返す。
「だって、そうですにゃ。あなたの言うとおり、エドナは勝手に生きたんですにゃ。エドナだけじゃない。神父様も、他の人も、みんな。勝手に生きて、勝手に幸せになるんですにゃ。だったらこっちも、身勝手にやればいいんですにゃ」
「でも……そんなことしたら……」
「誰かに怒られるんですかにゃ? 誰かに嫌われる? いいじゃないですかにゃ。だって、一番理解して欲しい人はいなくなってしまったんですにゃ。それこそ、勝手に生きて」
アイシャは少女に歩み寄った。ニャン太から手を離し、迷子のような自分自身へと右手を差し出す。
迷うような沈黙があった。けれど結局、彼女はくしゃりと泣き笑いする。
「……ばっかみたい。いつもだったら、ぴーぴー泣いてるのはあなたの方なのに」
「たまには、こういうのも悪くないですにゃ」
「いやよ。アイシャは、弱みを見せるのが嫌なんだもん」少女は目元を拭った。「でもまぁ、今回だけはあなたが正しいって、認めてあげるわ」
少女がアイシャの手をとった。紋様から燐光が溢れる。それに導かれるように、アイシャは再び目を開いた。
世界が戻ってくる。ヴィンスは相変わらず地面に座り込んだまま、情けない顔でこちらを見ていた。エドナの骸は、やはり動くことはなかった。そして周囲を舞う緋色の光が、アイシャ達を無数の共喰いから遠ざける。
「――おぉ、アイシャ。我が愛しの娘よ……!」
共喰いを引き連れたカディルは、しわがれた歓喜の声を上げた。
「まさか、そこまで完全に悪魔と混じっているとは! やはりお前こそが成功作だ! 唯一にして無二の! あの売女に奪われた時は肝を冷やしたがね! さぁ、こちらに、」
「うるさい」
アイシャの声に応じて、カディルのすぐ近くの地面から炎柱が噴き出す。共喰いの一匹と、端末を持つカディルの右手が丸ごと焼失した。彼の表情が下卑たまま凍りつき、次いで耳をつんざくような悲鳴を上げる。
「神父様、私はあなたのことが嫌い、ですにゃ」
緋色の溢れる右手で、アイシャは風になびく自身の銀髪をかきあげた。黒髪の隙間からのぞく、ヴィンスの深緑色の目を見つめる。
「あなたの愚かさが、この状況を引き起こしたんですにゃ。だったら一生、苦しんで悩めばいい。そのために、今は私が守ってあげるんですにゃ」
「……守る……?」
「そうですにゃ。楽になんか死なせてあげませんにゃ」
時計台が不規則に鐘の音を鳴らし始めた。どこからともなく、何かを警告するような鴉の鳴き声が響く。
カディルが鬼のような形相で共喰いに指示を飛ばす。殺せと、死体の一部だけでも残ればいいと、喚いている。それを冷めた目で見渡し、アイシャは凛とした声音で宣言した。
「もう二度と、後悔するような生き方はしない。これが私の……私達の覚悟ですにゃ」
*****
狂ったように鳴り始めた鐘の音を、シェリルはヤニくさい車内で聞く。苛々と組んだ足先を揺らし、彼女は運転席のロウガを睨めつけた。
「ちょっと、刑事さん! もっと速度は出せないの!? 鐘が鳴り始めちゃったじゃない!」
「い、いや。分かってはいるがねぇ。いくら速度を上げるったって、限度が、」
「この非常時に、くだらない常識に縛られてる馬鹿がどこにいるのよ! ほら、ハンドルちゃんと握って!」
先を行く車がないのをいいことに、シェリルは思い切りロウガの膝を押した。悲鳴を上げたロウガが、急加速した車体を慌てて操る。
最初からそうすればよかったのよ。相変わらず頼りがいのないロウガに鼻を鳴らし、シェリルはダッシュボードで揺れるカセットテープを取り上げた。
鐘が鳴ったということは、二つ目の作戦に移ったということだ。ならば自分たちは、ラナとエメリが立てた計画のとおりに行動しなければならない。
愛する男と、対峙しているであろうラナを思う。シェリルは目を伏せた。自分があの時、ロウガの拳銃を止めていなければ、親友がこんなにも心を痛めることにはならなかっただろうか。
「おい、大丈夫かい。嬢ちゃん」
「……なんでもないわ。それより運転に集中して」
ミラー越しに注がれたロウガの視線を軽くいなし、シェリルはカセットテープの電源を入れた。
*****
その日、科学都市サブリエ中に時計台の鐘の音が鳴り響いた。
狂ったように打ち鳴らされる鐘の音に、人々は手を止め時計台を見上げる。
そして彼らの目の前で、時計台の針が動いた。
軋んだ音を立てながら、反時計回りの方向へ。
それから、世界は――。




