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第五話 高熱の夜

 アウリールがシュツェルツの侍医になってから、一年が過ぎようとしていた。

 シュツェルツは背が伸び、風邪を引きにくくなった。アウリールが風邪の原因を突き止めたからだ。


 シュツェルツが風邪を引きやすかった理由は、水分をあまり摂らないことにあった。その結果、喉が乾燥して炎症を起こしやすくなっていたのだ。


 シュツェルツを二週間見守った末に、アウリールはそう結論づけた。シュツェルツはアウリールの言葉に不思議そうな顔をしていたが、言われた通り、食事の合間に香草茶ハーブティーを飲むようになった。

 その結果、風邪を引く頻度が減ったので、シュツェルツはアウリールを見直したようだ。


「これからも、昼食を一緒に摂ることを、特別に許す」


 そうシュツェルツが言い出したので、アウリールは思わず相好を崩した。すると、シュツェルツは慌てたようにつけ加えた。


「いつもではない。時々だぞ」


 アウリールにとって、それは吉兆に思えた。

 ある日、アウリールが朝の拝診に向かうと、シュツェルツが寒気を訴えた。脈を取ると、いつもより少し速い。アウリールは控えめに、だが、口調はしっかりと、シュツェルツに上申した。


「殿下、大事をお取りになって、今日は授業をお休みなさるのがよろしいかと存じます」


「うむ、そうだな……」


 シュツェルツは素直に頷き、アウリールは薬を用意した。夕方までは、シュツェルツの様子は朝と変わりなかった。


 しかし、夜の拝診にアウリールが訪れると、状況は一変していた。脈が朝とは比べ物にならないほど速く、高熱を出していることが明白だったのだ。


「なぜ、わたしをお呼びにならなかったのです」


 自分は、そんなに頼りにならないのだろうか。不甲斐なさと目の前の状況に、内心で動揺しながらアウリールが問うと、シュツェルツは苦しそうに答えた。


「寝ていれば、良くなると思った……」


「わたしの責任です。もっと強い薬を差し上げていれば良かった」


 最近では、シュツェルツはすっかり丈夫になっていたから、完全に油断していた。この熱の高さは、アウリールがシュツェルツの侍医になってから、初めて経験するものだ。


 シュツェルツの灰色がかった青い目は、熱のせいで潤んでいる。

 早く、苦しみを取り除いてあげたい。アウリールはその一心で、女官たちに燕麦の粥(オートミール)を用意してもらい、シュツェルツに食べさせてくれるよう頼んだ。その間に、高熱に効く薬を用意する。


「食欲がないのでしょう。殿下は、あまり召し上がらなかったわ」


 女官の言葉に、アウリールは、やはり、と思った。それでも少しは食べることができたのだ。あとは薬と水分を摂らせ、少しでも熱が下がるのを待つしかない。他にできることは──。

 アウリールは、ふと一人の女性のことを思い出した。真剣な顔で女官に尋ねる。


「今、王妃陛下をお呼びすることは、可能だろうか」


 女官は、言いにくそうに告げた。


「多分、無理だと思うわ」


「なぜ」


「今日は、朝から王太子殿下が熱を出しておいでなの。王妃陛下は、そちらにかかりきりかと……」


「そうか……」


 アウリールは、それ以上言葉を続けられなかった。何かあった時、マルガレーテが優先するのは、シュツェルツではなくアルトゥルだ。そのことを、この一年で嫌というほど思い知らされてきたアウリールは、シュツェルツを不憫な思いで見つめるしかなかった。


 何もできないまま、アウリールが寝台脇の椅子に腰かけていると、女官が声をかけてきた。


「あの、ロゼッテ博士はお帰りにならないの? あとは、わたしたち女官が、交代でシュツェルツ殿下を看ているけれど」


 王族の夜通しの看病は、この東殿に部屋を与えられている彼女たちの役目だ。アウリールは女官を見上げ、口を開いた。


「いや、今夜は俺が殿下を看ている。また、協力をお願いすることになると思うから、その時はよろしく頼むよ」


 苦しんでいるシュツェルツを放って帰ってしまったら、自分はきっと後悔するだろう。

 女官は納得したようで、それ以上は何も言わなかった。


 夜が更けても、眠り込んだかと思えばすぐに目を覚ます浅い眠りを、シュツェルツは繰り返した。彼が目を覚ますたびに、アウリールは吸い飲みで水を飲ませるのだった。

 やがて、何度目かの眠りに落ちたシュツェルツは、熱に浮かされ始めた。


「……母上、怖い、怖いよ……」


 悪夢でも見ているのだろう。シュツェルツのまなじりを一筋の涙が伝った。彼は、何もない空間に向けて、まだ小さな手を伸ばす。

 胸を締めつけられる光景だった。アウリールは思わず、シュツェルツの手を取り、固く握り締めていた。


「大丈夫ですよ、殿下。怖いことは何もありません」


 わたしがおります。シュツェルツがうわ言を呟くたびに、アウリールはそう繰り返した。


     *


 シュツェルツは切れ切れに夢を見ていた。それは、酷い悪夢ばかりで、何度目かの夢の中で、シュツェルツは黒い熊のような化け物に襲われていた。追い詰められたシュツェルツは、断崖から足を踏み外し、真っ逆さまに落ちてしまった。


 高いところから落ちたのに、痛みはなかった。ただ苦しく、身体が熱い。

 空を見上げていると、激しい雨が降ってきた。絶望から次々と溢れてくる涙が、雨と混じり合う。今度は寒さに震えながら、シュツェルツは助けを求めるように、空に向けて手を伸ばした。


 一瞬、シュツェルツは目を疑った。


 すぐに、頭上から手が差し伸べられたのだ。ほっそりした指が綺麗な、自分より大きな手だ。虚空に伸ばしたシュツェルツの手を、その白い手が掴み、勇気づけるように、強く握り締めてくる。


 自分はこの手を知っている。シュツェルツはとっさにそう確信した。

 目を凝らしたけれど、手の持ち主の顔は、口元から上はよく見えない。その瑞々しい花びらのような唇を目にして、シュツェルツは思わず問いかけた。


「……母上?」


 その瞬間、空から闇が晴れ、さあっと光が射し込んだ。手を握っているのが誰か、確かめようとしているうちに、シュツェルツは目を覚ました。


     *


「母上……?」


 徹夜による眠気で、うつらうつらとしていたアウリールは、その一言ではっと目を覚ました。

 寝台で仰向けになっているシュツェルツと目が合う。その瞬間、シュツェルツは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。


「ち、違う。今のは言い間違いだ」


 アウリールは、くすりと笑った。マルガレーテに見間違えられたことに関しては微妙な気分だが、慌てるシュツェルツが可愛らしかったので良しとする。


「おや、わたしは何も聞いておりませんよ。殿下」


「そ、そうか。なら良い」


「お加減は、いかがですか?」


「まだ、ぼうっとする。でも、昨夜よりはずっとましだ」


「お手を失礼致します」


 アウリールはシュツェルツの脈を取った。少し速いが、昨夜と比べれば雲泥の差だ。あまり風邪を引かなくなったせいか、シュツェルツは体力がつき、回復も早まったようだ。

 シュツェルツはまだ眠いのか、ぼんやりとアウリールが脈を取り終える様を眺めている。


「殿下、お腹は空いておいでですか?」


 アウリールが問うと、シュツェルツは毛布越しに、腹部に手を当てた。


「……空いている」


 アウリールは、ナイトテーブルの上に置かれていたベルを手に取ると鳴らした。程なくして現れた女官に、燕麦の粥を持ってきてもらうよう頼む。


 食事が運ばれてきた。身を起こして燕麦の粥を食べ始めたシュツェルツは、あっという間に平らげてしまった。アウリールはにこにこしながら、その様子を眺めた。

 女官が盆を下げてしまうと、シュツェルツは薬を飲んだあとで、アウリールに視線を向けた。


「……昨夜、母上は、おいでになったか?」


 辛い質問だった。自分にとっても、おそらくシュツェルツにとっても。真実を述べればシュツェルツは傷つくだろうが、嘘をついても、その場を取り繕うだけだ。アウリールは正直に答えた。


「いいえ。王太子殿下のご看病をなされていた、とのことでした」


 シュツェルツは、毛布の上で、ぎゅっと握り拳を作った。


「……やっぱり、僕は兄上の代わりでしかないんだ」


「殿下……?」


「せっかく生まれた兄上が病弱だったから、父上と母上は仲が悪いのに、仕方なく僕を生んだんだ」


 シュツェルツはまくし立てた。アウリールは、呆然と彼を見つめる。


「そのようなこと、どこでお耳になさったのですか」


「前に、女官たちが噂していた。侍従たちだって、騎士たちだって、みんな知っていることだ」


 シュツェルツは、険しいが泣きそうな顔で、アウリールをキッと見つめた。


「分かっただろう? 僕は望まれて生まれてきたわけじゃない。誰からも見向きもされないんだ。なのに、何の得があって、そなたは僕の傍にいるんだ!? 同情しているだけなら、出ていってくれ!」


 アウリールは押し黙り、シュツェルツの怒りを、ただ受け止めた。この場で何を言っても、彼を傷つけてしまうだけのような気がした。

 ただ、この想いだけは伝えておきたい。何があっても、自分はシュツェルツの味方だ、ということだけは。


 全く驚くばかりだ。王族どころか、神々にさえ感服することのなかった自分が、進んで幼い王子に仕えたいと思っているのだから。


(あなたは、それだけの奇跡を起こされたのですよ、殿下)


 同年代の少年と比べて賢いものの、シュツェルツの資質は、まだ未知数だ。だが、彼のことを深く知れば知るほどに、分かってきたことがある。シュツェルツには、放っておけないと人に思わせる何かがある。それは、単なる気質の良さだけでは補えない何かだ。


 アウリールはシュツェルツの拳に、自らの手を重ねた。熱の余韻か、その手は温かかった。シュツェルツが大きな目を丸くし、こちらを見る。


「何かございましたら、いつでもお呼び下さい。わたしは、少し仮眠を取って参ります」


 アウリールは微笑すると、シュツェルツから手を離し、立ち上がった。シュツェルツが何か言いかける。


「そなた、夢の中で──」


 ノックの音が響いたのは、その時だ。部屋の主であるシュツェルツの返事を待たず、扉は開かれた。

 部屋に入ってきたのは、三十代半ばかと思われる男だった。その顔は端正で、見た者が思わず膝を突かずにはいられないような、威厳のある風貌をしている。


「父上……?」


 一拍置いて、シュツェルツが困惑したような声を発した。

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