第四話 むき出しの感情
新年を迎え、アウリールもようやく仕事に慣れてきた。それにつれて、宮廷での人間関係にも変化があった。女官たち──特に、シュツェルツ付きの女官たちと、親しく言葉を交わすようになったのである。
元から、彼女たちに声をかけられてはいたのだが、仕事や宮廷のしきたりに不慣れなうちは、応対する余裕などなかったし、貴族や郷紳(地主)階級の出身者が多い女官たちへの気後れもあった。それが、このところになって、ようやく女官たちと会話を楽しむゆとりを持てたというわけだ。
七年もの間、大学という男社会で過ごしてきたせいで気づかなかったのだが、どうも、アウリールは女性受けが良いらしい。
アウリールは自分の有利な立場を遺憾なく活用し、役立てることにした。即ち、王室関連の情報収集に、である。
(初めから、エイベ博士ではなくて、彼女たちに訊いてみるべきだったな……)
アウリールがすぐにそう思ったくらい、女官たちの情報網は大したものだった。
その内容はというと、国王と王妃マルガレーテの冷え切った関係や、マルガレーテのアルトゥルへの溺愛ぶり、シュツェルツが両親にほとんど顧みられていないことなど、多岐にわたった。
特に、アウリールが聞き捨てならなかった情報がある。
「シュツェルツ殿下がお風邪を召しても、王妃陛下がお見舞いに見えないのは、ご自分を介して、王太子殿下に風邪がうつらないようになさるためなのですって。シュツェルツ殿下もおかわいそうよねえ」
それなら、なぜ、シュツェルツが健康な今ですら、顔を見せようともしないのだ。
アウリールの胸は痛んだ。このままでは、マルガレーテの愛を得られないばかりか、心ならずも母親を独占している兄を憎むしかないシュツェルツが哀れだった。
それにしても、父親である国王は何をしているのだろう。
「国王陛下は、政務と狩猟、女性にしか、ご興味がないみたい。王太子殿下のことも、シュツェルツ殿下のことも、王妃陛下や臣下に任せっきりでおいでよ」
アウリールは憤ったが、どうしようもなかった。ユーモアがあり、誰に対しても親切な父のことを、思い出さずにはいられない。もし、シュツェルツが両親の子として──自分の弟として生まれていたら、どんな風に育っていただろう。
そこまで考えて、アウリールは苦笑した。自分もずいぶんとシュツェルツに感情移入するようになったものだ。出会った時は、彼のことを、「可愛げのない子ども」としか思わなかったのに。
とにかく、情報を集めたアウリールは、作戦を次の段階に移すことにした。
「僕の様子を、一日中見たい?」
シュツェルツは怪訝そうな顔で、そう訊き返してきた。アウリールはもう一度、王子の許可を取るため、説明とともに問いかける。
「はい。殿下がお風邪を召しやすい理由を、是非とも突き止めたいのです。そのためには、殿下の普段のご生活を拝見する必要がございます。ご許可をいただけますか?」
「そこまでする必要があるのか?」
戸惑ったようにシュツェルツは反問した。
赤ん坊の頃は乳母がついていたはずだし、外出する時には護衛もつくだろうが、一日中、特定の誰かと一緒に過ごすという経験が少ないゆえだろう。
アウリールは、自信たっぷりの笑みを浮かべて見せた。
「殿下のお風邪の原因を突き止めるのが、わたしの務めだとおっしゃったのは、殿下ございますよ」
「……!」
自身の過去の発言を思い出したのだろう。シュツェルツは悔しそうに押し黙ってしまった。やがて、彼は口を開いた。
「好きにせよ」
*
シュツェルツと距離を縮めるには、これしかない。ついでに、風邪の原因が判明すれば、万々歳だ。
そう思い、この作戦を実行に移したアウリールは、つぶさにシュツェルツの普段の生活を見守る機会を得た。
ちなみに、いつものように、宮仕えをしている者たちが利用する食堂で昼食を摂ると、シュツェルツの様子を全て見られないので、許可を取って、彼の食事に陪席させてもらうことにもなった。
真っ白なテーブルクロスのかけられた細長い食卓を、シュツェルツはアウリールと囲み、話をするでもなく、不愉快そうに豪華な昼食を食べていた。
シュツェルツの一日のスケジュールは、食事や入浴、睡眠、朝晩の拝診の時以外は、勉学や武術の授業で、びっしり埋められていた。シュツェルツに無関心な国王夫妻も、息子を王子として恥ずかしくないように教育する気だけはあるようだ。
難しい本を読むのが好きなシュツェルツのことだ、勉学もさぞや熱心にするのだろう。
アウリールは、そう思っていたのだが、想像は見事に裏切られた。シュツェルツは語学の授業以外は、不熱心なこと甚だしかったのである。
まず、これは分かるが、それは分からない、という発言すらしないし、教師に質問をしない。ただ黙って授業を聞いているだけで、ノートも取らない。
教師の教え方が、別段下手なわけではなかった。語学の授業の時は、教師と会話をするし、きちんと質問をするので、足りないのは熱意なのだろう。
奨学金を借りて大学で勉強していたアウリールは、何ともったいない、と歯噛みした。
一週間が過ぎた頃、アウリールは夜の拝診の時に、思い切ってシュツェルツに声をかけた。
「殿下、わたしには武術のことは分かりませんが、勉学のことは多少なりとも分かるつもりです」
「……何が言いたい?」
「もう少し、熱心にお勉強なさってはいかがですか? いつも難しい本をお読みになる殿下ならば、きっと身につくのもお早く、将来役に──」
「勉強などして、何になるというのだ」
驚いたことに、普段は冷淡な態度のシュツェルツが、苛立ちも露わにアウリールを睨み据えている。
「語学は仕方なく、努力して勉強している。将来、他国の王族や貴族に甘く見られないようにな。だが、他の勉強をして何になるというのだ」
誰も褒めてくれないのに。
シュツェルツが言外にほのめかした思いを正確に感じ取り、アウリールは言葉を失った。彼は、自分の想像よりも遥かに多くのことを考えているし、遥かに傷ついているのだ。
(俺は、一週間も何を見てきたんだ……)
何より、シュツェルツの誇り高さに気づけなかった自分が情けない。アウリールは心から謝罪した。
「殿下、出過ぎたことを申し上げました。申し訳ございません」
「もう良い。下がれ」
シュツェルツはそれだけ言うと、ぷいと顔を背けた。
これは、ついに解任されるかもしれない。
だとしても、故郷に帰って医師をすれば良いだけの話なのだが、アウリールは落ち着かなかった。自分が侍医を解任されたら、誰が傍でシュツェルツを気遣うというのだ。
翌日、アウリールは覚悟して、幻影宮の門を潜った。東殿にあるシュツェルツの部屋に入室すると、いつものように寝間着姿の彼が待っていた。
「おはようございます、殿下」
アウリールは不安を露ほども見せずに、笑顔でシュツェルツに挨拶した。こちらを見たシュツェルツは、目をしばたたいた。
「……そなた、腹を立ててはおらぬのか?」
「腹を、立てる……とは?」
シュツェルツの言わんとしている意味が分からず、アウリールは首を傾げた。シュツェルツは瞠目したあとで、気まずそうな顔をする。
「……昨日、僕が苛々を、そなたにぶつけてしまったから」
アウリールは感じ入らずにはいられなかった。シュツェルツは、きちんと相手を慮ることができる少年なのだ。その優しさを伸ばすも枯らすも、周りの大人次第だろう。
アウリールは心からの笑みを浮かべた。
「あれは、わたしの思慮が足りなかったゆえに、殿下のご気分を害してしまったのでございます。殿下こそ、もうお気になさらないで下さい」
「そう、か」
シュツェルツはこくりと頷いたあとで、消え入りそうな声で問うた。
「……今日もまた、僕の様子を見るのか?」
「はい、殿下のお許しをいただけるのなら」
「特別に許す」
「ありがとうございます」
シュツェルツの重々しい言い方に笑いを誘われながらも、アウリールは至極真面目に答えたのだった。